新札が手に入ったら、この温泉にいこう!

先日、オールドフレンドのMが、蕎麦を手繰りにきた。アラカンでIT企業を早期退職して「パン職人」の修行中。近々
寄居に「わざわざ東京から寄りたくなるパンやさん」ができる予定だ。もちろん珈琲はUFOで自家焙煎焙。
池袋でワインの会などをやっていた時から、寄居からわざわざ遊びにきてくれた。
今もわざわざ、寄居から「文膳」という昼酒セットをしにやってくる。これからは「わざわざ」がつく場所にいくのがいい。
土産にいつも自家製のパンをもってきてくれる。「酒のつまみになるパンができました」と
目を丸くして笑った。味見にひとかじりすると、山椒の香りがプーンと鼻孔を走る。
先月、寄居の近くの深谷で百姓をやっているマツモトキヨシさまから、朝掘りの筍が届いた。
プランターで育てた山椒と、近くの「リッタ」というカフェの女将さんが栽培した青菜とあわせて
「たけのこの木の芽和え」をつくった。

昨日は、そのマツモトキヨシさまのやっている深谷の農園にいってきた。
能登の珪藻土竈、と「よくばり七輪」という火消し壷にもなる「五徳」のように徳した気分になる
七輪、焼き鳥用の七輪、UFO用の「生豆」・・・を納品。
「お昼に、銀座のすしを御馳走するので、ぼくの車についてきて」という。「え・・・軽トラで銀座?」
と思いながら、後をついて10分ほどの、駅前の駐車場にとまった。お店の名前が「銀座」やった。
さすが、渋沢栄一翁の生まれた街だ。もうすぐ新札の顔になる人だ。

極上の寿司をいただきながら、しばらく談論風発してわかれて、「深谷花園温泉 花湯の森」でひとっぷろ浴びる。
マツモトキヨシさまのところの帰りに必ず立ち寄る桃源郷のような温泉。風呂上りに持参の「還元茶」
を飲みながら、遠く秩父の山を見る。その後は、道の駅に立ち寄って、新鮮な野菜や平飼いの玉子を
調達して東京にもどる。

今朝は、先週長野の佐久の友達がくれた「五郎兵衛米」を竈で炊いて、マツモトキヨシさまにもらった「山芋」。
「佐久の鯉太郎」というくらい鯉が有名なのは、水が雪解け水でおいしいから。だからお米もお酒もおいしいところでもある。
山芋は、「手抜き料理」でつくる。ひげを火にかけて焼き、水で洗ってざくぎり。そこに「めんつゆ」(といっても、これは
天真庵の秘宝)をいれ、ブレンダーでガガガとまぜるだけ。
おいしい香の物があれば、丼2杯は完食したくなる朝ごはん。
東京には「土」はないけど、いい友達がいて、ちょっと工夫したら「知足」の生活ができる。感謝。

高齢者がこれまでの65歳から70歳からになる?

そんなことが今朝の朝刊にあった。今は高齢者が65歳。後期高齢者が75歳ということになっている。
高齢者が5割を超える地域は「限界集落」といわれる。全国津々浦々、
限界集落になりつつある。言葉の定義など、あまりやくにたたない。
高齢者が70歳になると、67歳のぼくは、また「若者」にもどる?そんなバカな、だ。
ちょっと「若い」とおだてられ、年金の受給が5年先になる、だけのようなものだ。
人はこの世にオギャーと生まれた瞬間から、老いに向かい、100%死に向かっている。
「老衰」や「ガン」で死ぬのではない。「生まれてきたから死ぬのである」

最近よくお店に、「リハビリのために歩くようにしていて、下町散歩の途中で『このお店入りにくいけど(余計なお世話)、おもしろそうなのできました』みたいなじいちゃんやじいちゃん予備軍みたいな人が立ち寄られる。
ガンを罹病して草加からチャリンコで片道一時間かけてくるオヤジや、東陽町から歩いてくるオヤジ・・・・そんな元気なオヤジ
たちが、あまたやってくる。迎えるこちらも、骨董品のように古色がついて、彼らと旧交よろしく「昭和」の話をしたりしながら「今ここ」
に感謝しながら生き暮らしている。♪時には娼婦のように・・・・「昭和」には艶っぽい歌がいっぱいあった。

先日、「能登の志賀町出身」という84歳のじいちゃんが、7歳下の奥方をつれて、そばを手繰りにこられた。
6人兄弟の4番目で、高校をでるとすぐに東京下町の町工場に就職し、40を超えて独立。76歳まで働いたけど、工場の建物が
台風で倒れて、神様が『このへんでやめとき』と言ってくださってる、と思い緞帳を下げた」みたいな人生を話しながら、
「能登誉」を、常温で3合飲んで〆のそばを手繰っていかれた。帰りに「メモ用紙」を所望され、自分の住所と電話番号、91歳の長男
が継いだ生家の住所と屋号(能登はまだ屋号でやりとりをしゅる風習がある)を書いて、「親戚みたいなもんだから、飲みにきて」
といって笑った。盃を交換したら兄弟になる昭和のヤクザ映画さながらの話だけど、なんとなくうれしくなった。

昨日は近くの「お世話しあうハウス」の女将さんが、そばを手繰りにきた。84歳になる。毎朝、近所のおばあちゃんたちを散歩に連れていったり、朝ごはん、昼ごはんをつくって、無料でふるまったり、時には病院に連れていったり・・・の大忙しで、みんなの昼ごはんが終わった
後、2時から3時くらいに「自分の一食目」といって、そばを手繰りにこられる。
昨日は、紙おむつを洗濯機にいれたままのおばあちゃんの洗濯をして、バリバリなったパンツの破片が洗濯機の中にこびりついたのを、
手が届かないので、しゃもじを使って掃除をした話を、涙があふれるくらい笑いながら、そばを手繰っていかれた。
「もったいない」の精神で生きてきた昭和初期のおばあちゃんは、紙おむつを使い捨てにするのは忍びないらしい。

人は100%死ぬし、だれもが高齢者や後期高齢者になっていく。
高齢化社会というのは、まわりに「自分がそう遠くないうちにいく道」を示してくれる先輩がたくさんいらっしゃる素晴らしい社会
でもある。そんなことを思いながら、5時から元気にそばを打っていたら、携帯にメールがきた。マツモトキヨシさまから生豆の注文だ。
お互いに、昭和のころIT企業を起こして、バリバリやっていた時代もあったが、彼は百姓になり、
ぼくはそばやになった。でも最近、彼はキッチウンカーを手にいれ、UFOで焙煎をはじめ、今年からお米をつくり、能登の珪藻土竈で
自作の米を極上の「ごはん」にして、おにぎりやの移動販売?でも始めるのかもなんばん。珈琲やになったら、ライバルになる(笑)
いくつになっても「夢」をもっている人は、新米のようにピカピカとオーラを放っている。みんな道の途中だ。感謝。

月曜の朝は玉子かけごはん・・・

世界おいしいごはん、TKG・・・玉子かけごはんの日。

昨日、近所に住む大学生がそばを手繰りにきた。近くの専門学校に昨年入学したけど、
世田谷にある某大学を受け直して、合格した。世田谷にアパートを借りるつもりでいたけど、
「天真庵が遠くなる」(彼の母親がそういった)ということで、押上から一時間かけて
通学している。学食では100円で朝ごはんが食べれるらしい。昼の学食は丸亀製麺が
運営していて、うどんが安く食べれるらしい。「ごはんものはないの?」と聞くと、
「効率が悪くなるのか、めんだけです」とのこと。学生の健康面と、若い胃袋のことを考えると
「?」な感じだけど、大学も食堂もその運営を担う会社も「効率最優先」みたいで、「大変」なコトが
学生の財布まで連鎖しているような気もした。
仕送りをする親も、物価や税金や保険料があがり、エンゲル係数も50%に迫る時代。下宿している大学生
の一日に使えるお金が、平均660円。・・・朝ごはんを、吉野家とかにして、昼ごはんは、丸亀の「すうどん」
にしても、夕ご飯代や珈琲代は残らないような厳しさだ。

そんなこと考えながら、5時におきて、お米を研ぐ。
最初に入れる水を「東京水」、つまり普通の水道水にすると、お米の中にカルキとかメディカルな味が浸透するので、
浄水器の水ですばやく洗い、水を捨てる。といっても、空のペットボトルに漏斗(じょうご)でいれてとぎ汁を
発酵させる。しばらくたって、お店の前のプランターや、水をためる甕(かめ)に入れる。
2007年に天真庵を結んでから、ずっとそうしている。311の時、友達が放射能を測る「なんやらカウンター?」
みたいなもんをもって、線量を測りにきたら、ほとんど針が振れないのにびっくりしていた。
たぶん、その水のおかげだろう(+元気シール)と思っている。

3度くらいそれを繰り返し、洗ったお米を笊(ざる)にあける。そのタイミングでコンビニにいって新聞を買う。
石川出身の力士が、優勝したことを知る。新聞を読む間に、火起こしに炭をいれ、コンロで火を起こす。
墨が赤くなっておきたら、珪藻土の竈(かまど)に移して、羽釜に米をいれ、能登の藤瀬の霊水と「うめ星」
をいれて、木の蓋(ふた)をして、竈の上に羽釜をのせる。
あとは「はじめちょろちょろ中ぱっぱ 赤子泣いても蓋とるな」の鉄則を守り、新聞を読んでいると、
香ばしいごはんがたける煙が部屋中にたちこめる。うちわで竈の排気口をぱたぱたしながら、コゲの匂い
がするまで待つ。「ここだ」という米の声が聞こえたら、火傷しないように、分厚い手袋(あれ、なんていうの?)
をして、テーブルの上において、蒸らしの時間。

竈の中の炭を、つぎに「珪藻土七輪」にうつし、手回し焙煎機で焙煎。
焙煎した後は、「火消し壷」(よくばり七輪という火消し壷になる七輪があると便利)にいれてもいいし、囲炉裏に炭を
移して、鉄瓶か薬缶で湯をわかしてもいい。
炭火の何段活用かで、暮らしが「エコ」とかいうには俗っぽすぎるほど、「ゆたか」になる。
縄文時代が一万年以上も続いたのは、彼らが、人と争わなかったことと、この「火」を上手に使いこなした
ことが大きな要因だったような気がする。
炭火で、焼き肉をしたり、魚や野菜を焼いたりして食べると、「同じ材料?」と疑うほど、筆舌を超えた味を堪能できる。

今日は、玉子かけごはんを10時で終わった後、買い物にいき、12時から18時まで営業。感謝。

そばやのアイスコーヒーは、こうでなくっちゃね~

まだ5月だというのに、めっきり夏日が続いた。
珈琲を飲まれる人の9割が「アイス珈琲」を所望される。
先週の土曜日に、久保さんから「新型UFO」が届いた。
これまでの2倍以上、一度に150グラムを焙煎できるので、
お店のセカンドロースターとしても活用できる。
とくに、二度焼き、という手を使い、浅煎りやシティーローストの珈琲などを、
フレンチローストまで焙煎することが可能だ。アイス珈琲のレベルが、各段に進化するはずだ。

これまでのUFOは、家庭用を想定して、生豆を60gいれて、
ポーップコーンみたいに爆ぜた後に、50g(水分が飛ぶ)の珈琲豆が
できる。25gをハンドドリップすると、約2人前の珈琲が抽出できる。
つまり、「朝二杯、夜二杯の珈琲を楽しんでください」というコンセプトで
つくった。

天真庵には、4台の水出し珈琲の器具がある。ふたつは、近所のガラス職人(ぼくと同じ年)につくってもらった。
ガラスの器のコックの部分は、「すりし」という不思議な響きの職人に磨いてもらって、水の出かたの調整を
やってもらった。だから、満員電車で仕事をする「スリ」ではなく、「磨り師」という肩書の職人さんだ。
ガラスをささえる木工は、般若くんにお願いし、サーバーは高山のガラス作家の安土さんにお願いした。
だから1セットが、10万円くらいになる。でも安いと思う。

昨年、能登のカフェがオープンする時、一日店長をお願いされ、点前をするように、お茶道具をいれる桐箱に
ドリッパー、サーバーといっしょに、UFOをいれてもっていった。
カウンターの中で、珈琲を淹れていた時にちゃねって、「お茶道具を改造して、水出し珈琲ができるかもなんばん」
と声が聞こえ、さっそくつくってみた。5台くらいはお弟子さんのところに嫁いだ。
自分用に2台をつくって、カウンターの上で毎日「水出し珈琲」をつくっている。
自分的には「千利休が楽茶碗でお茶を喫した」以来の発明だと思っているのだが、一般の人には、まだ伝わっていない(笑)
「UFO焙煎塾」の生徒さんには、焙煎のコツ、と同時に、水出し珈琲の淹れ方のコツと、水出し珈琲器具の作り方のコツ
を伝授している。第一木曜日、とか、東京にいる日曜日の夕方に教室をやっている。♪ムーチーをふりふり
チーパッパのスパルタ塾ではあるが、興味のある人はどうぞ。「大道無門塾」・・・珈琲を学びたい熱量があれば性別や年齢は不問。

今日も12時から16時まで営業。
それから「UFO焙煎塾」(予約制)

明日の朝は「玉子かけごはん」(8-10)
3週間続けて、ごはんが売り切れになった。今週の木曜日は、深谷のマツモトキヨシさまの
ところに、珪藻土の竈を納品にいくことになった。キッチンカーまで用意しておられ、「新しい何か」
が始まりそうな予感。先に嫁いだUFOも、活躍しているご様子。感謝。

UFOは、こうでなくっちゃ!

ときどき、「そばやの〇〇は、こうでなくっちゃね」と「後期高齢者だから後がない」が口癖の後期高齢者の
おじいちゃんがそばを手繰りにきた。誕生日が奇しくも筆子さんと同じ建国記念日。
「2月11日にこようと思ったんだけど、能登が大変だろうと思って、ためらってしまって・・」とのこと。
「屋根が壊れて雨漏りがひどかったけど、ブルーシートをかけてもらって、濡れた畳や家具なんかをボランティアさん
たちに運んでもらって、何不自由なく暮らせるようになりました」と答えたら、
「日本人は、こうでなくっちゃね。困った時には助け合う。いいな~ いつもの昼酒セット」ときた。

籠にいれたお猪口を選んでもらう。
能登の珪藻土でつくった久保さんの新しい黄瀬戸を選び、「これいいね。そばやの酒器はこうでなくっちゃね」
というので、能登の地酒の白藤を純米を、黄瀬戸のお銚子にいれてだした。
突き出しかわりのそば豆腐に、柚子胡椒をのせ、かえしをパラリとかけて、ひさごの器にのせてだした。
「おいら、後期高齢者で、いつまでこんな幸せな酒を飲めるかわからないから、ひさごの器で飲めるのは幸せだね。
そばやはこうでなくっちゃね」と、いつもの調子で黄瀬戸のお銚子を傾けながら、上機嫌になっていく。

「この柚子胡椒は自家製でしょ?」「はい」
「どうりで、緑がきわだっていて、香りがぷーんときていいね~」。
柳家小さん師匠の落語「時そば」を聞いているような気分になる。

「ところで、この柚子胡椒は、どうやってつくるの?」
「柚子の皮むいて、塩と青唐辛子でつくります」と答えると、
「え、こしょうじゃないの?青唐辛子・・・そんなこと誰も知らないよね」というので、
「九州では、青唐辛子のことをこしょうといいます」と答えたら
「おいら、後期高齢者のこの年になって、また新しいことを勉強したよ。うれしいな。」と赤ら顔で笑った。

魯山人うつしの「井の中の蛙」にのせた酒肴の三種盛りもたいらげ、「後期高齢者になっても学べ、と皿が笑ってら~・・そばをお願いします」
で、〆のそばをズズズと、江戸っ子よろしくじょうずに手繰られた。
「今日は暑いけど、珈琲はアイスにしますか?」と尋ねたら、「後期高齢者が、『君をアイス』なんて言いっこないでしょ。ホットちょうだい」
ときた。

額から汗が噴き出していたけど、涼しい顔しながら「そばやの珈琲はこーでなくっちゃね」
「またくるね」といって、十間橋通りを闊歩していかれた。

今日・明日は「12時から16時」 それから「そば打ち教室」「UFO焙煎塾」
大型で新しい「UFO」が、ポツポツ嫁ぎはじめた。昨日は、熊本の珈琲屋さんから注文があった。
今回のは一回に150gが焙煎できる。夏に「水出し珈琲」をだすようなお店だと、不通の珈琲豆を
5分くらい焙煎(二度焼きやね)すると、これまでとは別次元のアイスができる。
どうどうと「アイス」と注文してくれる人が増えるかもなんばん。感謝。

地産地消文化情報誌『能登』の最新号が届いた!

「地産地消文化情報誌『能登』」で検索すると、でてくる。

最新号は大きな字で「世界一美しい半島へ。」で令和6年能登半島地震」特集。
毎号ごと5冊がくるようになっているけど、ちょうど火曜日の営業中だったので、
そこにいた「お客さん」が「買います」ということで即刻完売した。
「もうひとつの支援」であり「備え」でもあるな、と実感。

興味がある人は、ネットで買ってみてください。昨年の「日本地域情報コンテンツ大賞」も受賞。
被災した土地の熱量は、平穏な日々を
おくっている人たちには伝わりにくいと思う。でも、今みたいに地球が活発な時期に生きて
いるわれわれは、「いつどこで」罹災するかは、まったく予想できないし、他人ごとではない。

2017年の6月、能登町の「梅茶翁」に梅仕事にいった。道の途中に「どんたく」
という地元のスーパーがあり、お酒を調達しようと思ったら、中の本屋で「能登」
と出会った。「なんちゅう 素晴らしい雑誌や」と感動したことを昨日のことのように思う。
すぐにバックナンバーで、「売り切れ」以外のものをネットで注文した。
東京のお店にも置いた。カウンターで、そばを手繰り、珈琲を飲みながら、座った人がみな「能登」を
読んでいる。「都市伝説」みたいな光景やった。そして、縁あって、2018年に能登に家を買い、東京と能登の
「二股暮らし」を楽しんでいる。ぼくの家も罹災して復旧の道なかばだけど、ますます能登が好きになった。

そんなことしていたある日、「経塚(つねずか)です。」といって、能登の発行人兼編集長が、
東京の天真庵までやってこられ、能登と東京の「二股暮らし」を雑誌に掲載してくれた。
HPにその誌面をのせてあるけど、海岸で焙煎する写真をとる時、雪がふってきて、経塚さんに
電話して「海岸は風も強いし、雪がふりだしました」と連絡したら「それは、絶好の写真日和ですね」
と笑っていて、カメラマンの松田咲香さんといっしょにやってこられた。
彼女も奥能登の家が罹災して、カメラ機材もなくしたにかかわらず、最新号で「体験レポート」を
書いた。今は、珠洲市宝立町鵜飼の「越後燃料店」のスペースを借りて、交流施設「本町ステーション」
をやっておられる。先週、うちの常連で美容師さんが、ボランティアで髪を切りにいかれた。

能登はやさしや土までも

でも、「人間」がやさしいし、その「人間」に焦点をあて、ぶれない「能登」の編集哲学がすばらしい。感謝。

骨がおれること多し

「ああ、骨が折れるね~」とかいう。日本人は「大変なこと」をそのように表現してきた。

昨日は、歯医者。月に一度歯の掃除をしてもらいに、元天真庵があった上池袋の
近くの歯医者に通っている。
歯の掃除が終わると、決まり文句のように「30分は飲食をひかえてください」といわれる。
明治通りを池袋駅のほうに向かって歩き始めた。
4月13日に「パンデミック条約反対」のデモがあった公園まで足を延ばす。
「人間の命」にかかわる条約のデモにかかわらず、日本のマスコミはデモの報道をしなかった。
5月31日には、日比谷で、同じ内容のデモがあり、推定5万人が参加するらしい。何か変わればいいが・・

ひさしぶりに、何かちゃねった。昔読んだ『池袋ウエストゲートパーク』(石田衣良の短編集)
の中に、ロック歌手のCDの音源に、「人の骨がくだける音」というのがでてくる。聞いたことはないけど、少し気分
が悪くなって、池袋駅から山手線で秋葉原まで電車の人になる。そこから総武線で亀戸駅でおり、「亀戸餃子」を食べて帰る、が
いつものパターン。
と思っていたら、ホームから「ブックオフ」の看板が見えた。
とっさに、秋葉駅を降り、ラジオ会館の横をぬけ、左手にあるブックオフに入る。

ぼくは昭和の終わりころ、秋葉原でITの会社を創業した。当時はパソコンブームで、界隈にはパソコンショップや
ソフトを売る店が跋扈(ばっこ)し、にぎわっていた。そのあとは「メイドカフェ」や「フィギア」の街として世界中
から人がやってくる街になった。秋葉のブックオフは、1階から6階まであって、DVDなどが免税で買える
ことがあり、外人さんがオーバーツーリズム現象でいっぱいだ。
なんとなく、買う気にならず、店をでて、信号を渡り、万世橋のほうに向かって歩いていたら、
うしろから「ものが壊れるようなバターン」というすごい音がした。

振り返ったら、つい二秒前に通った道に若い女性が倒れていた。そこのビルから飛び降りたことを直感する。万世橋警察署のすぐ近くでもあり、すぐに警察官がきて、救急車も到着。きっとその子は、飛び降りる時に、「あの白髪頭のおじさんを巻き込むのはかわいそうだから・・」
と思ってタイミングをずらしてくれたのだろう。ずれなかったら、ぼくの白髪は赤く染まり、今ごろ娑婆から場所をかえていただろう。
あの「バターン」という音は、骨が折れる音らしい。合掌をして、また駅にもどり、総武線で亀戸で降りたけど、
餃子を食べる気にならず、店は素通りして帰ってきた。

夜は水天宮で友人と飲む約束があったので、半蔵門線にのっていった。
坂本九ちゃんの気分ではないけど、
♪上をむういて 歩こう・・・・
これから、都会の雑踏を歩く時の目線と口ずさむ歌がかわってきそうだ。鎮魂。

愉快な老人会にもAIが忍び酔っている?

滅多に、IT時代の仕事仲間と飲むことはない。
みんな相応に年をとったし、鬼籍に入ったひとも増え、「昔話」より、「これからの話」
のほうがいいという性格が自然にそうさせている。

その滅多にないような電話があった。Hさん。ぼくが業界団体の理事長をやっていたときの参謀のような理事
だったHだ。「月曜日の夜に、元ソフトバンクのMとSでいくので『そば会』をやっていただきたい。3人とも、今年65歳になり、先輩(ぼくのこと)と同じ老人の仲間入りになります」とのことだった。
「じゃあ、老人会の歓迎会をやろう」ということになった。

ソフトバンクが、まだ日本ソフトバンクだったころ、
市ヶ谷の東郷公園の前の半地下の100坪くらいのところに、本社・出版・倉庫があった。
春になると、東郷元帥の屋敷跡の公園に桜が咲き、ソフトバンクの社員と、取引先のソウフトハウス(IT企業といわず、そんな風にいってた)
が、桜の下のゴザに車座になって、花見を楽しんだ」。ぼくは、元社員であり、今は取引先という微妙な立ち位置に
あり、乾杯をしてすぐに、ひとりで新宿のゴールデン街に行って飲んだ。
翌日、その花見が佳境を迎えた時、HやMが、殴り合いをはじめ、警察沙汰になったという話を聞いた。
以来、恒例の「花見」は廃止になり、彼らも高齢になった。でも三バカ大将よろしく、ときどき飲んでいるらしい。

昨日の夕方、その花見以来35有余年ぶりに、3バカ大将がやってきた。
能登の地酒「遊穂(UFO)」で、互いの無事を祝いながら、酩酊すると「伝説の花見」の話で盛り上がった。
過去の話は、往々にして、都合よく脚色されたりするもんだが、仲のいいHとMが、ガチンコの殴り合い
をした、という簡素な健闘話は脚色されることも色もあせず、モハメッド・アリとフォアマンが世紀の戦いをした、と同じくらいIT業界の
伝説になっている。

65歳になっても、酒量が衰えぬ3バカ大将は、30分ちょっとで、遊穂の一升瓶を空にし、二本目の「宗玄」
も空くころになって、少し雲行きが怪しくなった。カウンターの中で料理をだすぼくは、昔のように、ばっくれて
新宿あたりに逃げたい気分になった時、酩酊したMが玄関をあけて十間橋通りにでて、
雄叫びをあげながら走りはじめた。リングの戦いなら、セコンドからタオルを投げたくなるような場面だが、
Mを3人で取り押さえ、水を飲ませて、お店にもどした。が、覆水盆にかえらずだ。
5分くらいして、パトカー2台がお店の前にとまり、事情徴収。

次の35年後には、みんな娑婆から住所を移していると思うけど、あの世で飲み会をやっても、
パトカーのサイレンを聞くようなハメになるような気がした。ひさしぶりに日付変更線をまたいで、
濃い飲み会がお開きになった。

今朝、メールがきて、「Mがマッチングアプリで知り合って昨年結婚した新妻が、あけてびっくり
モラハラ妻だった、ということで悩んでいて、悪酔いしたということ」を知る。
飲んでいる最中にもモラハラ妻から「今どこで誰と飲んでいるの?」から始まるラインが、数十件
きていたらしい。少し酔ったHが、Mがトイレにいった間に、Mに成り代わって、「ふざけんな」
と返信したら炎上したらしい!
先週飲んだバーのカウンターで座った5人の中で3人が「昨年、マッチングアプリで出会って結婚しました」
という体験をしたばかりだった。AIが得意そうな、「どうやったら、相手を鴨にできる結婚ができるか」
のようなハウツーなんて、かも南蛮をつくるより、朝飯前の時代を迎えているのかもなんばん?

日本海海戦の時、東郷平八郎がZ旗をかかげ、詠んだ伝説の言葉がある。

「皇国の興廃この一戦にあり 各員一層奮励努力せよ」

そんな東郷さんの名言もむなしく、老人になっても奮闘努力のかいもなく・・
の人生を久しぶりに振り返りながら胸に手をあてた日。感謝合掌。

月曜の朝は玉子かけごはん 大きなUFOもやってきた

夕べから、東京は雨。お店の前においてある鉢植えの矢羽根薄や、つわぶきなども、新緑がきれいで
ピカピカと輝いている。5月はいいね。

火起こしで炭をおこし、羽釜でごはんを炊く。いつもは、余った炭を珪藻土七輪に移して、
炭火焙煎。
今日は少し違う。土曜日に「大型UFO」がやってきた。
これまでのUFOは、60グラムの生豆をいれて焙煎できる仕様だった。
朝焙煎したら、朝夕一回づつ二杯分の珈琲が淹れられることを想定していた。
「もうちょっと大きなUFOを・・」との声があちこちから聞こえてきた。

「効率」とか「大量生産」を優先してたら、デジタル仕様の今どきの焙煎機に軍配があがる。
久保さんと試行錯誤しながら、半年・・・・「一度に150g焙煎可能」な大型UFOが完成した。
爆ぜる音も、ポップコーン音がするし、チャフもほとんど飛ばずに焙煎できる。
今朝は、ごはんを炊いて蒸らす30分の間に、ブラジル・コロンビア・ガテマラ・モカを
焙煎できた。

♪馬手(めて)にごはんの炊ける香り 弓手(ゆんで)に珈琲の香り 馬上豊かな美少年(田原坂の替え歌)

能登の珪藻土七輪の「丸和工業」さんは、復興の途上にある。これから珪藻土がまたとれるかどうかにかかって
いるけど、このUFOが、なにか力になれば・・・と思っている今日このごろ。

素敵な「おきな」がおっぱい、もとい、いっぱい。

さっそく、キスを釣りにいく。
いつもは、港でタコを狙っている。地震で驚いたのか?まだ避難所にいるのか?
姿が見えない。海水の温度があがり、西の魚、イサキ(南九州ではイッサキ)などが能登で釣れるようになった。
ある意味「白ギス」も、同じような流れかもなんばん。
「海の貴公子」ともよばれ、砂浜でキラキラと光る姿は、なんとも形容しがたい。
刺身でよし、天ぷらにしてもよし、こちらも筆舌が及ばぬ美味だ。
久保さんの織部の向こうずけに盛ると、天下を取ったような気分になる。

「ちょい投げ」という投げ釣りが流行っている?女子の太公望さんが増えているせいもある。
岸壁とか、整備されたフィッシング公園みたいなところで、♪ちょいなちょいな、よろしく気軽に
できる初心者向けの釣りだ。来月あたりは梅林ガールズたちが、能登の家に泊りがけでやってくる。
息抜きをかねて、タコ釣りセット、ちょい投げセットも用意している。
まだ使っていないそのちょい投げの竿に、あおむし(ゴカイのこと)の疑似餌をつけて、ちょいと投げたみたら、
20Cmくらいの白ギスが釣れた。東京に向かう日だったので、それをリリースして家にもどった。

今回は松本経由で、山梨の農園へいった。
そばの「かえし」をつくる醤油が松本にあるので、年に何度かは立ち寄る場所だ。
山の景色も、街のありようも、今流行りにオーバーツーリスムのとこみたいな、かしましさや、騒音もなく、
いついっても落ち着く場所だ。ときどき立ち寄る「おきな堂」で、ポークステーキをつまみに、クラフトビール。
さすが、1933年からこの地で愛される洋食屋さん。
次の日は中央線の「穴山駅」で、知り合いの農家さん(2月に湯治場で知り合った女性)と待ち合わせ。八ヶ岳に上る山人たちも降りてくる駅。隣が長坂駅。ぼくのそばの師匠が東京から移住して「翁」をやっていた場所でもある。今は弟子が継いでおられる。
穴山氏といって、武田家の親戚筋で、武田の重鎮だった人たちが生き暮らした土地だ。

駅から車で5分ほどで、大きな農園に着いた。農園の主は齢80を超えた翁さん。矍鑠として笑顔がいい。
畑にはレタスがいっぱい収穫を待っていた。
その農園の端に、大きな柚子の木が5本。秋になると、とりきれないくらいたわわになるので、
「勝手にとりにきていいよ」ということになった。
天真庵のそばは「柚子胡椒」をつけている。今までは湯河原あたりの農家さんから買っていたけど、
この2年ばかり気温の関係で、不作で困っていた。2月は味噌つくりで休みをとれない。秋の「柚子胡椒つくり」
で腱鞘炎になった筆子さんの要望ででかけた山梨の湯治場であって、柚子の話をしたら、柚子の木と縁がつながった、
という話である。

土産にレタスを自分でもいできた。畑でなにもつけずに、食べてみた。これまで食べてきたレタスが
「紙みたい」に思えるほど、みずみずしく美味い。柚子の木の横にあった「ふき」も土産にした。
さっと塩をいれた寸胴で湯がき、冷水でしめ、皮を手で向いて、そばつゆに酒を少したして、お浸しにした。
今日の朝飯は、「わらびごはん」。灰であく抜きしたわらびを切って、油揚げを刻み、そばの甘醤油を入れて炊くだけ。
「田舎暮らしは、宝がいっぱい」(そんな本を書いた人も、東京から山梨に移住した人)

桃栗三年柿八年、柚子のばかたれ十八年

桃尻三年胸八年・・・そんなことをいったちょいスケベ翁がいた。森繫久弥さん。
元気な「おきな」がいっぱいであれば、まだまだ日本は大丈夫だ。感謝。