今日と明日は12時から16時まで営業。
それから「そば打ち教室」と「UFO焙煎塾」。
番長、もとい番町のカフェから大量の豆の注文が入ったので、今朝は早朝からそば打ちと、
炭火焙煎。まだ早朝は寒いので、残った炭火を囲炉裏にいれ、鉄瓶で湯を沸かし、
焙煎したの「ほぼぶらじる」を飲みながら、PCに向かっている。
先月は、富山の滑川のホテルで一泊してから能登の家に向かった。
いつものコースだと、夕方に家に着き、暗がりで能登の惨状を見ると体に悪いと思ったから。
案の定、家は雨漏りがひどくて、ボランティアさんたちに助けられ濡れた畳などを廃棄した。
来週の月曜日からまた能登。こんどは、「片づけの段取り」が頭に入っているので、先月よりテキパキ
と、復興処理ができそうだ。今年は、より一層奮闘努力する年になりそうだ。がんばるぞ。
最初に玄関に入った時、一番心配した下駄箱の上の備前の花器が消えていたのにびっくり。
自分の意志?で下駄箱と後ろの廊下の隙間に避難していた。廊下に置いてある信楽の大壷は、
ころがっていたけど、割れていない。床の間の「うずくまる」(信楽の花器を、そんな風にいう)も
ころがっていたけど無事だった。ガラス戸のついた茶箪笥も心配したけど、立ったままだった。
唯一、玄関の左側にある備え付けの下駄箱の上にあった石仏は下に落ちていた。
まるで法隆寺の「玉虫厨子(たまむしのずし)の側面にある捨身飼虎(しゃしんしこ)図」だと思った。
旅の途中に、崖下に飢えた虎の親子を見つけて、釈迦の前世と伝えられる王子が、身を投げて虎の命を
救った、という物語。
その身投げした石仏は、中越地震が起きる一週間ほど前に、新潟の十日町の骨董屋で買ったものだ。
煎茶道具のいいのを揃えた骨董屋で、80をとっくに越した店主が、古九谷の茶器でていねいに
玉露を淹れてくれた。「この道祖神は売り物ですか?」と傍らに置いてある石仏を指さしたら、
「これは、道祖神ではありません。昔は、生まれたばかりの赤子が栄養不足などで命を落とすことが多かった。
そんな時、親が供養のためにつくったものです」と教えてくれた。
涼炉、茶わん、ぼうふら・・・など煎茶道具といっしょに、その石仏も買わせてもろうて、東京にもどった。
たまたま運よく、中越地震を免れた仏さま。6年前に、隣の石川県の能登の家の玄関に「里帰り」のような
感じでもどった。そして正月の大地震。
きっと恩返しのつもりで、捨身で家を守ってくれたんだと思う。少し傷ついたけど、タオルでふいてあげて、ハグして
もとの位置にもどした。
良寛さんが晩年に、新潟の三条地震に遭遇した。その時のお言葉・・・今どきの政治家がうっかりいうと、
辞職や離党問題になるような言葉だけど、災害の多い日本でいかに生きるかの指針になる極上の悟り言葉。
「災難にあう時節には、災難にてあうがよく候。
死ぬる時節には、死ぬがよく候。
是はこれ、災難をのがるる妙法にて候」・・・良寛。