20日は、旗日だったけど、みぞれが降る寒い日だった。
朝10時前に、大学生(東洋大学等・・)などのボランティアさん8人が、
濡れた畳の廃棄の手伝いにきてくれた。
前の日に、太いドライバーを使って、濡れた畳を起こした。
太いドライバーが、気が付いたら曲がっていた。
昔超能力でユリゲラーがスプーンを曲げたのを思い出した。
もともと田舎の古民家の本畳は、重い。それが雨で水分を吸うと、40Kくらいになる。
東京から、レンタカーを借りて駆けつけてくれたMくん(大学生)は、必死の形相で、濡れた畳を
二階から一階へ降ろそうとしていた。「無理ばい。40Kぐらいあろうもん」といって、少し手を貸した。
二階の畳を運び出すのに、2時間ほどかかった。
リーダーの人が「お昼は、被災ゴミの集荷場が一時間休憩を取るので、ここ(我が家の玄関)で
昼ごはん(おにぎり二個)を食べていいですか?」というので、「OK牧場」と即答し、あったかい星野村の煎茶を
淹れて、一息。気温は3度くらいしかなかったので、食後に「ほぼブラジル」を御馳走させてもらった。
カセットコンロでお湯をわかし、「縄文ドリポット」で、なんどかに分けて淹れた。
漏電の恐れがあるので、石油ストーブで暖を取りながら、みんなで珈琲を飲んだ。「アンフォゲッタブルな一杯の珈琲タイム」になった。
「お国は?」と聞くと、「日本です」と答えそうな、若者たちに、「お国は?」と聞くと、
九州から北海道まで、全国津々浦々の「お国」が帰ってきた。
まだまだ、この国(日本)は大丈夫だと確信した!
いつまでも「被災者あつかい」されるのもナンだけど、生まれてはじめて被災して、いろいろな「気づき」があった。
人生いろいろなことがあるけど、「いろいろあるから人生」だし、地震や災難や困難も、「愛」がいっぱい
感じれれていいもんだ。
午後の能登は、すこし晴れた。正月に大地震が来て、神社や家のしめ飾りもそのまま、止まったままの能登に
青空は、まぶしすぎるような気がした。毎年春になると♪一筆啓上仕りそうろう!
と歌うホオジロのサエズリも、うるさすぎる気がした。夜の満天の星もしかり・・・
冷蔵庫のあまりもので、酒肴を二三つくって亀泉の残り二合を飲んで、東京に出稼ぎに行く用意をした。
出発の木曜日は、朝から雪だった。
どんより雲の能登を出発して、富山も新潟も雪で、長野に入るともっと吹雪いていた。
勝手なもので、「やはり、どんより雲や吹雪では、気がめいる」と痛感しながら、小布施をあたりまできて、
やっと雪もなく、マイナス温度がO度までもどった。
一期一会の出会いがいっぱいあった。そのぶん別れもあった。輪島の塩名人の中前さんは、天国に召された。
知り合いで、全壊や半壊の人たちは、避難所や仮設住宅にいる。
ひとりは「家は解体して金沢にいきます」とのこと。目に涙を浮かべて、「でも、また能登に遊び
にくるので、野村さんもこれまで通り、毎月きてください」とのこと。
井伏鱒二先生をまた登場させることになる。
武隆(うぶりょう)の漢詩、『勧酒』(かんしゅ)を訳した・・・備前徳利に斑唐津より、この訳がスゴイ!
゙この杯を受けてくれ
どうぞ なみなみつがしておくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ゙