毎朝、貧乏という名の「のし棒」を振り回してそばを打ち、
「がらがら」といわれる手回し焙煎機をガラガラまわして、珈琲豆を焙煎する。
ことはじめの昨日は、能登大地震の翌日で、近所の人や知り合いの安否が気になりながらも、
無心にルーティン仕事をしたあと、元気の暖簾をだした。
元気という名のチワワが2009年に旅立った朝に右足の肉球を友達の貞本さんがトレースして
できあがった暖簾。「元気のない時も、元気にね」という副店主だった彼の
メッセージが込めれれている。こんな「まさかの時」には、あらためて元気をもらえる。
すぐに常連さまがやってきた。6日からお母さんと能登旅行を計画していたWさん。
ぼくが紹介した志賀町の「湖月館」に一泊する予定だった。おそるおそる「中止?」と聞いたら、
「旅館に電話したら、若女将の携帯につながって、『みんなで避難所にいるのでしばらく休館です』と
のこと。」
志賀町は震度7で、一番揺れが激しかったとこだ。旅館の近くにある「はしもと食堂」の安否も気になる。
それから、常連さまが、ぞくぞくと来てくれて、カウンターがいっぱいになる。
311の時も、音楽家たちで満席になったカウンター。
大学の後輩で、同じ十間橋通りにある「酔香」のすがちゃんとともちゃん夫妻も、
郷土のいぶりがっこをお土産にして、カウンターで珈琲を飲んでくれた。
彼の顔を見ると、「グレータ立命」を歌いたくなる。お互いにお店の緞帳を下げたら、鴨川の
河原で肩組んで歌おうと思っている。♪グレーター立命・・・
昭和50年代の「京都の下宿屋」生活は、加川良の歌「下宿屋」にあるような、わびさびに満ち溢れていた。
♪京都の秋の夕ぐれは
コートなしでは寒いくらいで
丘の上の下宿屋は
いつも震えていました
僕は 誰かの笑い顔が見られることより
うつむきかげんの
彼をみつけたかったんです
「餃子の王将」が新店をだすと、「ただ券」がまわってきて、たばこ銭もない財布で押しかけたり、
天下一品はレジで「学生です」といったら50円引いてくれた。
学食のおばちゃんに、メニューにはない「ごはんと玉子」と注文したら、あまったおかずを一品のせてくれた。
みんな貧しかったけど、夢があったし、それが未来に向いていた。
風呂付の部屋などなく、大半が三畳か四畳半の「ひとま」。台所と便所は共同。仕送り5万。家賃1万ちょい、
だった。仕送り前には、すっからかんになったけど、「おいといて」というと「つけ」がきく店があった。
ぼくは、シャンクレールという有名なジャズ喫茶から、50mくらい下る「安兵衛」というおでんやが、
「おいといて」が通用する唯一のお店だった。学校よりも、シャンクレールか、安兵衛に出入りし、
「名誉冠」という伏見の名酒の燗酒を飲みながら、熱きよとせ(4年)を契りながら飲みまくった。
帰りは、松ヶ崎の下宿まで、千鳥足で闊歩した。冬は比叡おろしが冷たく吹き荒れる。
そんな時は背筋をピンとはって、風を正面にあて、友に向かって「どや、こうすると坂本龍馬になった気分やろ」
なんてうそぶきながら(笑)
途中に、今は世界遺産になりさがった下鴨神社がある。そこの参道を「糺の森」という。不埒で酔っ払って歩くと、「ただしく生きよう」
という声が聞こえた。そこに鴨長明の方丈庵があった。
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
彼が生きた時代の京都も今と同じように、大震災や飢饉などがあった。(日本はもともとそんな国だ)
4畳半の畳の部屋に、文机と本箱とファンシーケース。冷蔵庫をもっている奴は稀有だった。
今から思うと、あの昭和の下宿屋はみな「方丈庵」かもなんばん。
たぶん、能登のぼくの家も、震度7の揺れには耐えられなかったと思う。
また「方丈庵」みたいな「究極な天守閣」を、汗水流して結べたら最高の人生。
でも東京の天真庵もある意味、方丈庵みたいなものだから、別に何の不足もなしだ。
家とか、お金とか財産とか、親とか兄弟とか・・・・みんな借り物。
必要な時に必要なだけ神様が貸してくださり、必要がなくなると、お返しすればいい。肉体も・・・感謝。