亀戸の珍品堂

亀戸に不思議な骨董屋がある。
いくと、井伏鱒二の「珍品堂主人」の小説の中に紛れ込んだ?ような気分になる。
古希を三余年ほどすぎ、最近はシャッターがしまったままの日が多くなった。
だから行くときには、リュックに本を一冊いれて、前を通る。シャッターが閉まって
いると、亀戸の駅ビルのコメダにいってモーニングなどを食べる。
ナゴヤ式で、ブレンドが540円。11時まではモーニングタイムで、パンとニヌキ(ゆで卵)
がついて同じ値段。だから、ほとんどの人がモーニングを頼んでいる。
東京では「モーニング」という文化がしばらくなかったけど、コメダのおかげで浸透してきてるかもなんばん。

シャッターがあがっていても、留守の時が多い。玄関に木の看板をかかげ、「近くにいます。急用の方は
お電話ください」のあとに、携帯電話がかいてある。ガラス張りの中の様子を見て、ほしいものがある場合は
電話することがあるが、ほとんどしない。骨董屋というのは、相手がほしい顔をすると、商売のスイッチがはいる。
だからポーカーフェイスで「ろくなもんがないな」の顔をするに限る。ただし、ながっちり(長居)して、ロクなもん
じゃないものばかり見ていると、「このひとは、美意識もなにもない、ろくなもんじゃない」と見限られるのでご用心。

反対にときどき主人から電話がかかってくる。「こんな珍品が手に入った」という内容のものもあるが、
だいたいが「顔が見たくなった」から始まる。そしてだいたいが居酒屋で酩酊している場合が多い。
たまに亀戸でいっしょに飲むこともあるが、骨董の話をしながら飲むと気持ちが大きくなって、
「あの古唐津の茶わん、いくらで売ってくれる?」とかいうと、「1000万の価値はあるけど、あんたなら500万でいいよ」
とか、相手も支離滅裂なことをいう。「500万か。。。高くないな~」といいながら、居酒屋の勘定が3000円の割り勘の時、
「センベロ(千円でべろべろになれる店)みたいな店で、3000円は高いな」みたいな気分になったり、こちらも支離滅裂な金銭感覚だ。

昨日は14時くらいに、珍品堂主人がそばを手繰りにこられた。
いつも「文膳」という「そばやの昼酒セット」を所望される。
そば豆腐を「ひさご」(ひょうたん)の器でだすと(いつもは漆の器)、「この黄瀬戸いいね。」という。
「桃山時代のもんや。よかったら、古唐津の茶わんと交換します?」と冗談いったら、「これいくら?」と問う。
まるで、こちらが骨董屋になったような・・・
「久保さんが、能登の珪藻土を使って、つくった。能登焼きゆうねん。これまでより磁器っぽくなって、いいでしょう」
といっても信じず、ひょうたんのうらのコゲ(茶)や、タンパン(緑)を熱心に見ていた。

まさか桃山陶とは鑑定しないと思うけど、これから先、どこかで1000万くらいで売買されたりするかもなんばん。
そうなると「瓢箪から駒」みたいな珍事だ。いやいや「トラタヌ話」である。
酒が美味くなってきたので、浮世の日常がおもしろくなってきた。感謝。
明日から「能登休み」。