禁酒一週間・・

ぼくが通った中学は、北九州市立引野中学校。「ひきの」という。
別名「アルコール中学」ではないばってん、酒飲みの友達があまたいた。不良の学校ではけっしてない。
孫さんや、スエコン(末松議員)も通った、普通の中学。
高校は越境して(越境してレベルの高い高校にいくことが当たり前だけど、ぼくは
なぜだか絶対に落ちない高校を選んだ)、宗像(むなかた)高校に進学した。
そのため、小倉の北九州予備校のお世話になったけど、その一年も無駄ではなかったような気がする。

その「アル中」みたいな中学高時代から、いっしょに酒を半世紀以上飲んできたマッタイから電話があった。
「ブログに酒が受け付けない、とあったけど大丈夫?そろそろ仕事の量を調整して、体調を整えたら・・」
みたいな内容。もつべきものは、友達だ。確かに、半世紀以上も飲み友達であったくんが、一滴も飲めなくなったら、
鬼籍に入ったも同然かもなんばん。

最近、少し酒の飲み方がかわった。まず、車で能登までいく途中に「すしのや」ですしをつまむ。
白身の魚をアテにすると、日本酒が欲しくなるのが、日本人の常識ではないか?と思ったりするけど、
運転中なので、ノンアルコールビールを一本注文して、すしをつまむ。
能登の「はしもと食堂」でおでんをツマミにする時も、車で移動するので、ノンアルコールビール。
ノンアルのレベルがあがったこともあるばってん、「飲む」「飲まない」のスイッチが入ったり入らなかったり
することが、めんどうになってきたように気もする。

コロナ禍がすぎ、五種に移行してからも、夜の盛り場に人がもどってこない。
たぶん、それも、ぼくと同じような気持ちの左党が、すくなからずいるような気がする。
でも、やっぱりこの世から、酒や盛り場や猥雑な街がなくなるのは寂しいので、
今晩あたり近くの居酒屋で一杯やろうか、などと考えている。

白玉の 歯にしみとおる秋の夜の 酒は静かに 飲むべかりけり  (牧水)

月曜の朝は卵かけごはん

そろそろ、二学期がはじまった学校もあるようだ。先週の卵かけごはんは、
松戸から小学生ふたりをつれた4人家族が、卵かけごはんを食べにこられた。
長男のTくんは、なすが大の苦手。でも昨年の夏休みの最後の月曜日にきて、
なすも入った具だくさんの味噌汁を完食したので、母親も「オヤっ?」とびっくり。

今年もまた味噌汁の実に、なすがたっぷり入っていたけど、涼しい顔して完食。
毎年家族で味噌つくりにきているし、「どうしてなんだろう?」と、母親は不思議がったが、
どうやら原因は、隠し味に使う「酒粕」にあるらしい。
帰りに、酒粕を買ってかえられた。お父さんは、ほぼ下戸だけど、Tくんは♪トラ トラ オートラ・・
になるかもなんばん。

今日は、昨日までの猛暑もいくぶん和らいだ。
珪藻土の竈に、炭火をいれて、羽釜で5合半のごはんを炊き、残った炭火を小さな竈にうつし、
その上で、3度ほど炭火焙煎。ブラジル・コロンビア・ガテマラの順だ。
そうすると、ぼくはお役目ごめんで、散歩や買い物にでかけたり、こうやってブログを
書いたりしている。

ほとんど経験ないけど、お勤めの人にとって、「月曜日の朝」というのは、憂鬱な朝ではなかろうか?
ぼくは、火曜日までがんばれば水木の定休日を迎えれれるので、「あとふつか」と指折り数える月曜日。感謝。

浅草かいわいを徘徊

東京にいる時、水木の休みの日は、浅草界隈や錦糸町や亀戸界隈を
徘徊散歩するのがならわしになっている。
昨日書いたように、先週から酒の神様?いや酒好きだった先祖が遊びにきて?
酒を一滴も受け付けなくなった。
となると徘徊の中身がかわってくる。どこの散歩コースも、途中のラーメン屋、すしや、おでんや・・・
とにかく休みの日は、昼間から「酒」を飲まない日はないのだ。
酒を飲んだ後に、ソフトクリームはありだけど、「いきなりソフトクリーム」だと、どうも具合がよろしくない。

木曜日は、「くるみ油」を買いに、浅草を経由して合羽橋にいった。
雷門のところは、外人さんたちがアリの巣よろしく群がっていた。「インバウンド」がもどってきて、よかったなんて
いう人もいるけど、今の観光地のありように?と思ったりする。京都の先斗町は9割が外人さんらしい。そんなところ
に降る雪に、歌になるような情緒があるのだろうか?

♪富士の高嶺にふる雪も 京都先斗町にふる雪も 雪にかわりがないじゃなし 溶けて流れりゃ みな同じ

そんな古い歌を口ずさみながら、雷門のあっちがし(反対側)を合羽橋に向かって歩く。
あまり目立たないけど、小さな石碑があって、「久保田万太郎 生家跡」というところがある。
そこで家業は、袋の製造業を営なまれていたが、彼は継がずに、俳人になった。
ここの前を通ると、まるでパブロフの犬よろしく「湯豆腐で一杯」やりたくなるのが自然だったのに、その
気がおきない。いよいよ、先祖の霊の呪縛のすごさか?とか思いながら、目的地へ急ぐ。

無事に貧乏という名ののし棒につける「くるみ油」を買って、駒形経由で押上村にもどってきた。

京都に「たる源」という老舗の樽屋さんがある。そこの湯豆腐桶には、織部の徳利がついていて、
万太郎先生の湯豆腐の下の一句が書いてある。ちょっと気のきいた居酒屋あたりにいくと、でてくる。

湯豆腐や 持薬の酒の 一二杯

このまま下戸になって、長生きをするのも一考だが、湯豆腐をお茶で・・というのは、ちと寂しすぎる気もする。感謝。

ご先祖さまの声が聞こえる?

2018年の8月26日、わが父が93歳にて、みまかった。
入院するまで、毎日クロキリを2杯、剣菱のぬる燗を3合くらい独酌していた。
亡くなる前日、こそっと病院の近くのコンビニで、カップ付きの松竹梅をかってきて
ふたりで飲んだ。それが「父の酒」の最後になった。

父の姉は、父以上に大トラだった。ふたりで一升瓶を何本も空にしながら
「ヨシカズ(ちちの名前)、弱くなったな」とかいいながら、飲んでいた姿を思い出す。
その姉ちゃんは、齢(よわい)80を過ぎて、ぴったりと酒を断った。そして105歳まで生きた。
「普通のひとが飲む一生分の3倍くらい酒を飲んだごとある」という名言を残して。

もうひとり、うちの母のお姉さん93歳。まだひとりで生活されていて、先日「テレビを拝見した」
と達筆の暑中見舞いが届いた。彼女の旦那さん(てつろうおじさん)
も、晩年まで弓道をやり大いに酒を飲んだ。おじさんもおばさんも、故郷は宮崎の延岡。
ある夏の日、おじさんは延岡の城山の近くにある先祖の墓参りをしていた。
すると墓の中から声が聞こえてきたそうだ。「てつろうや。うちは代々大酒飲みで、長生きをしないので、お前は
そろそろ飲むのをやめろ」といったそうだ。その声にしたがい、65歳あたりにぴったり酒を断ち、
一昨々年95歳まで生きた。

ぼくは中学くらいから酒を飲んでいる(九州では、普通)。それからこっち、3日と開けず、飲んで
いるように思う。それが、先週の火曜日あたりから、まったく受け付けなくなった。
昨日もかっぽれの相方が、そばを手繰りにきた。いつもだと、そば前のビールとか日本酒のを
「ご相伴にあずかる」のがならわしになっているのだが、まったくその気にならない。
ひょっとしたら、一連の先祖さまが、遊びにこられたのかもなんばん?

今日明日は「12時から16時まで営業」
それから「そば打ち教室」「UFO焙煎塾」

華道に使う「くばり」

ピアノの赤松林太郎氏から暑中見舞いが届く。関西も暑いらしい。軽井沢も北海道も暑いけど・・
原田先生の元で、机を並べて、花活けを習った同志だ。今はその世界の重鎮になった。
2007年の春に天真庵が押上に結ばれ、その年にヨーロッパから
帰国した彼が押上に住み、うちでよくコンサートをやってくれた。

先日、ピアノをはじめたという女性のお客さんが「よくカウンターにいらっしゃった
、なんとかさん、有名なピニストなんですね」というので、「あかまつ、りんちゃん?」
「そうです。そんな人」(笑)

さておき、原田先生の花のお稽古で初日は、「くばり」を作る稽古をした。
竹の寸胴に、葉蘭(はらん おすしやさんのお皿なんかに敷くやつ。回転すしやでは使わない)
をいける時、枯れ木を二本、Vの字に削って、しっかりと土台をつくる。
最初は、3枚の葉蘭を生ける。だんだん増えるにつけ、しっかりしたくばりが土台にならないと、
葉っぱが倒れてしまう。「人生と同じで、土台が大事なんですよ」と、今はなき先生の言葉が
忘れられない。ピアノの赤松メソッドも、そんな華道的な精神が生かされているに違いない。

鋏は京都の「安重」。鍛冶屋から華道専門のお店になり、今は老舗。
「安いけど重い」・・・・びっくりするくらい高い(笑)
でも、道具というものは、「道に具わる」ものだけあって、どうせ買うなら、一生ものを
使いたいものだ。鋏とくばりをつくる小刀は「安重」を愛用していて、能登でタコを釣りに
いく時も、釣り具バッグの中に忍ばせていて、道すがらに咲く野の花を見つけたりすると、
家に持ち帰り、「花は野にあるように」といった利休の言葉を言い聞かせながら、花器に投げ込んだり
して遊んでいる。

昨日は、そんな昔の道具を使って、水出し珈琲の器具をひとつつくった。エアコンをつけずに
汗かきかきやったら、体重が1k減った。あとでビールーを飲んだら、もどった(笑)
京都のカフェの女主人というおひとから、「珈琲の3日坊主がなんやらいう珈琲塾に参加したいんどすけど」と電話。
「昔のからふねやさんのような珈琲を淹れてみたい」と、はんなりした京言葉でいわはるさかい、
「しゃーない。では能登においでやす」ということになり、3連休が特訓日になった。感謝(おおきに)

夏の自由研究に、小学5年生が・・

夏休みも残りすくなくなった。
押上小学校の5年生のたっくんが、自由研究に「珈琲」を選んで、夕方にやってきた。
昨年は「そば」。母親のおなかの中にいるころから天真庵にきているので、自然の選択といえば
自然だ。

質問がいくつか用意されていた。
「えーちゃん(彼はぼくのことをそう呼んでいる)は、いくつから珈琲をやっていますか?」
に、「昭和51年、19の時からです」と答えた。
「天真庵はいつオープンですか?「2007年4月1日です」と答えた。
「昭和と西暦がまじると、わかりにくいよ」というので、「昭和51年は、1966年です」と答えた。
「焙煎をやるときに、こころがけているころはなんですか?」と問いに「陶芸といっしょで、中まで火が通って
カリッと焼きあがることが大事かな~」と答えた。
「どんな味の珈琲をめざしていますか?」という問いには、名刺をあげて、「これや」。
「これもらっていいの?」というので、「OK牧場」といった。

名刺の裏には「天真庵 炭火焙煎のめざす味」が印刷されている。
 
のみ口 ひと口めが すっきり
人肌に さめても まったり
あと口 余韻が 一時間

最後の質問が「珈琲はこれからも飲み続けられると思いますか?」ときた。
「男と女がいるかぎり、珈琲は飲み続けられる、と思うよ」と答え、「たっくんも
彼女ができたら、素敵なカフェにいって、できたらカウンターにすわって、砂糖やミルクを使わず、
ブラック珈琲が飲めたら、かっこいいで~」と答えた。
最後にドリップする写真が撮りたいというので、少しうすめの「ほぼぶらじる」を淹れて、
「飲んでみろ」とすすめた。将来、彼女が横にいるイメージができているのか、ブラック珈琲をすこしはにかみながら
美味そうに飲み干して、帰っていった。感謝。

「ほとぼりがさめたころ、そばを手繰りにいくわ」

築78年の古色蒼然とした長屋で、老夫婦ふたりで、珈琲とそばの店を営んでいる。
テレビにでると、やはり効果が絶大で、昨日も開店前に行列ができて、朝からばんばん打ったそばが
2時過ぎに空になった(笑   ほんとうは笑いごとではすまないかもなんばん)

開店前のバタバタ仕込み時間に、いろんな電話がかかってくる。
「今日の2時ころ4人で行きたいのですが、予約できますか?」
創業以来こっち予約は受けていないので、「予約は受けておりません」と答える。
「専用の駐車場はありますか?」という問い合わせも多い。「ありません」と丁寧に答える。
「近くにコインパーキングはありますか?」の問いには、「あるばってん、けっこう満車状態です」と答える。
「テレビにでたので、今日は混みますか?」との質問には、「そんなことわかりません」・・・(笑)
そんな丁寧な語尾になっているか?少し疑問ですが・・・・

「今朝は、何食分そばを打ったんですか?」の質問には難色を示した。「ひとに電話して、あなたはいくら給料もらって
ますか?」に等しいような無粋な質問。返答に窮し「切るよ」で電話を切って、残りのそばを切った。

そんなドタバタ劇を演じていたら、アラ古希らしき女性から「こないだは3時前にいって、そばを食べれなかったから、
今日は2時半くらいに行きたいのですが・・・」
こんな暑い日にわざわざ足を運んでくださるのは、ありがたいことですが、また空振りは失礼なので、
「開店前に行列ができていて、たぶん2時前後には、売り切れじまいになりそうです」と答えたら、
「じゃ~ ほとぼりがさめたころ そばを手繰りにいきわ」の答えに、安堵した。
悲喜こもごもなドラマが繰り広げられている。

今日も東京は36度を超すらしい。
今日も12時から16時まで営業。それから「そば打ち教室」「UFO焙煎塾」

明日の朝は「卵かけごはん」(8-10)
珪藻土の炭火で6合の羽釜で炊くので、いつも10食限定。感謝。

土曜日曜の営業は12時から16時です。

東京に向けて出発の日。
いつものように、七尾にある「藤瀬霊水公園」にいって、能登一(ひょっとしたら日本一)
の水を70L汲む。プラス、500CCのペットボトル2本を汲み、銀色のフワフワクーラーに
入れて、運転席と助手席の間におく。帰りの水分補給。
そこからすぐの和倉温泉の公共風呂「総湯」にじゃぽんと入る。ジャポン以外の外国人も
多くなってきた。加賀屋のお湯も、この総湯(そうゆ)から汲み上げている。「そうよ。知らんかたん?」

コロナの前までは、温泉に浸かりながら、そこにコップが用意されていて、誰でも飲めたけど、
コロナ時代になってからは、「ここの湯は飲めません」と表示されている。
加賀屋さんのサービスの質は、しばらく日本一、という折り紙つきだけど、やっぱりこの総湯の質
が、すごいのだと思う。東京で老体に鞭うち、毎朝「びん棒」という棒を振り回し、そばを打ったりすると、
いろんな箇所が痛くなる。ここの総湯に入ると、しばらくは好転反応か、かえって痛みが増える感じがするばってん、
次の日あたりから、うそみたいに体がほぐれる。一、二、サーン・・ヒャーク、ニヒャク・・・さつき先生に
教わったタッピングセラピーをしながらゆっくりと入ると、効果倍増だ。

その後、氷見の「すしのや」に・・・
平日だけど、並んでいた。お昼をさけて、13時半くらいにいったのだが、一時間待った。
「お盆休み」なんやね、やっぱり・・
上りの高速道路も混んでいて、いつもは9時らいには東京につくのだが、11時くらいになった。

昨日は、朝から窓をあけっぱにして、炭火焙煎をしたり、そばつゆとかそば豆腐をつくったりした。
最初にUFOで深めに焙煎した豆を、水出し珈琲にして、3時のおやつの時に飲んだ。今月は部品を
もっていけず、能登ではドリップした珈琲を冷蔵庫で冷やして飲んだ。でも、それに「水だし珈琲」
をブレンドすると、玉露が体の細胞に染みていくような官能的な珈琲になる。

今日明日は12時から16時まで営業。それから「そば打ち教室」「UFO焙煎塾」

平和なんかな~ なんかすっきりしないな~

昭和20年の3月10日に、東京下町にB29が爆弾を落とし、一日で
10万人がなくなった。
田舎で育ったので、社会の時間にそんな話をきいて「ふーん」
というくらいしか感じなかった。生まれた北九州は、鉄の町だったので、
幼いころは、防空壕が残っていたり、探検遊びをしていると、「おまえたち
が遊ぶとこじゃない」と、ヤクザよりこわい顔したおっちゃんにしかられたりした覚えがある。
「弾薬庫跡地」みたいなものが、まだいくつも残っていた。

昭和20年の3月のこ地点で、もうこの戦争の勝敗ははっきりしていたのに、ルーズベルトが死んで、
その後に大統領になったトルーマンが、広島と長崎に原爆を落とした。

あまり知られていないけど、そのトルーマンの記者会見に、アメリカ在中の日本の女性記者がいて、
「なんで、もう決着がついとるのに、あなたは原爆を落としたと?」と質問した。女性は九州うまれやった。
はじめから「落とすつもり」でいたトルーマンは、鼻たかだかな顔して、
「戦争をはやく終わらせようと思って、原爆を落としたっちゃん」と女性記者になめた顔して答えた。
その女子は柔道の黒帯保持者でもあり、その瞬間にトルーマンの首ねっこをトルーマンして、背負い投げをした。
そして数秒後にその場にいた警察にピストルで撃たれ殺された・・・・そんな話を、とある新聞社の副社長に酒席できいたことがある。
テレビや新聞で「伝えられない」ことが、昔も今も、やまのごとある。

最近SNS上で、「バーベンハイマー」が炎上している。アメリカで公開中の映画『オッペンハイマー』(原爆をつくった人)と『バービー』の上映開始日が同じだったことから「バーベンハイマー」というネットミームが生まれれ、きのこ雲の映像まで加わり、これをめぐって、日本でひと騒動が巻き起こっているらしい。
背負い投げする相手も特定されないし、もう78年もたって風前の灯火のようだけど、「原爆問題」がかしましくなってきた。
Z世代の人たちが、そんな昔の話や映像をAIで再現しようという動きが注目されている。
この星から「平和」という言葉もいらないくらいの平穏な暮らしに近づく傾向であってほしいものだ。
「落とした」「落とされた」の問題ではない。そんな核がいつ落とされても・・・という時代を、この星に住む
同じ同胞たちがみんな持ち合わせている「今」を憂う。

能登には、「縄文真脇遺跡」がある。戦争もなく、みんなで協力しながら何千年も平和で生きくらした営みが残っている。
スマホやテレビなどの情報をいったん断食して、「真脇」にって深呼吸してみたらどうだろう?
自然や神様とつながっていることを、体感できるかもなんばん。「ただ生きる」という大切さがわかる。

今日は「よじごじdays」(テレビ東京)に天真庵がでるそうだ。昨日の夜友人から「明日ですね。がんばってください」
とメールがきた。「はい」と答えたけど、もうとっくに収録は終わっている(笑)
いっけん平和な時代のようででもあり、そのすぐ裏腹に「おわり」が内包されているような不気味な世界。

天真庵の営業は、19日(土曜日)の12時からです。土日は16時閉店(売り切れじまい、です)
「予約も受け付けない」「店内の写真はお断り」という、時代錯誤でいつつぶれてもおかしくない形態のお店です。
でも、さきほど(放映時間あたり・・?)から、問い合わせの電話が殺到しておりまする。
テレビに放映されると、しばらくは混雑します。でも、そばを打つ数、珈琲を焙煎する量は、平常心でいつも
のとおりしかできません。どうぞ、この命にかかわる猛暑が終わり、♪今はもう秋・・・あたりにお越し
ください。感謝。