鯖街道をタコを担いで上洛?

今回は、京都にいく予定ができたので、能登から上洛。
福井から、いわゆる「鯖街道」を通って上洛。「鯖すし」の看板が目立つ道。久しぶりに大原三千院にお参り。

向田邦子さんのエッセーで「眠る盃」というのがある。
♪春高楼の花の宴 めぐる盃・・・・という節を彼女はずっと「眠る盃」だと思い込んでいた、というお話。
だれもそんな勘違いを、ひとつやふたつもっている。誰にも指摘されず、ずっとそのまま勘違い、も多いのでは・・
ぼくのひとつ後輩、で早稲田をでて共同通信にいたYくんは、同郷でもあり酔うと酒場で「ぼくの兄さんです」とぼくのことを紹介した。
だれもが疑わないくらいよく似ていた。殺しても死なないくらいタフな男だったけど、50の手前で突然旅立った。
一度一緒に京都に遊んだ時、♪京都大原三千院・・・を京都大原三千年と歌った。「さもありなん」という勘違い。
向田さんは、田原坂の♪雨はふるふる 人馬は濡れる・・・の人馬を「ちんば」と思っていたみたい。確かに、戦場では不肖
して「ちんば」になる人は多かった。作家の想像力のたまものでもあるようなお話。

その後下鴨神社の駐車場に車を置いて、界隈を久しぶりに散策。「音色食堂」で、「ごはんなしの日替わり定食」を
頼んでビール。筆子さんもおなじく「ごはんなしの唐揚げ定食」。合計で2000円でおつりがきた。値段もお店の雰囲気も昭和のまんまのお店。
ぼくが近くの「からふねや本店」の店長をしていたのが、昭和51年。そのころ珈琲が280円やった。天下一品が500円(学生は50円びき)
大卒の初任給が9万円。国立大の授業料もそのくらいじゃなかったかな?立命館の法学部の授業料が198000円やった。ショッポ(タバ)一箱50円。
仕送りの平均が5万の時代で、家賃が1万円代・・いろんな事情で仕送りがなくても、がんばれば、なんとかなった時代やった。

それから北大路通を鴨川まで歩く。北大路大橋の東詰めに、「売茶翁」(ばいさおう この奇僧がいなかったら、お茶は普及しなかった)の石碑が立った(7年くらい前?)。そこまで歩き、
植物園の脇をのぼって北山通りまで歩く。うちのお店を改装したメンバーの縁で、北山通にレコードショップをつくったくん(長崎出身)と、その二階でイタリアンをはじめた猛者がいる。イタリアンのお店はまだ「試運転」みたいな感じで名前も公開できへんけど、きっと来年くらいから
予約ができない店になるかもなんばん。賀茂川の近くのお店。

昨日のお宿も、まだできたばかりで、知らない人のほうが多い。
僕の大好きな八瀬に昨年ひっそりとオープンした。その界隈には、ちゃんとしたホテルはないので、三千院から下鴨神社に
いく途中に、ナビに「ホテル moksa」と表示されていた。
ここは異次元な世界だ。八瀬童子、釜風呂、阿闍梨様・・・不思議な山紫水明処で、数々の修験者が歩いた土地。

今朝は同じく、三千院経由で滋賀に抜け、名神と東名高速で帰ってきた。さすが日本の動脈。どこも混んでいる。
途中、近江富士という三上山、御上(みかみ)神社という不思議がある。比叡山のまわりはすごい。天真庵のカウンターの上に
三番叟(さんばそう)の猿が鎮座していて、その足元に「御上神社」の絵馬が飾ってある。
こういうと、Mの苗字がばれそうだけど、「おかまのMくん」がくれたものだ。そんなことを思っていたら、
携帯が鳴って、「まだどこかを徘徊しているの・・・?」とMからだった。居場所を言うと、「なーんだ。だったら私を祀っている神社にお参りしてちょうだい」とテンションがあがる。
まことに不思議な男(両性具有?)だ。感謝。

明日から通常営業。

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