明日の朝は「卵かけごはん」 神の台所、みたいな竈(かまど)でごはん!

先週、久しぶりに京都にいった。
いつも、上洛すると下鴨神社にお詣りする。
若いころ、からふねやが24時間営業を始めたころ、6店舗を任された。
何事にも、表と裏があるように、深夜営業になったとたん、裏の京都の
魑魅魍魎の多さにびっくりした。裏を見せ 表を見せ 散る紅葉(そんな風情とはまったく違うけど)
直観で、「今日は問題がおきそうだ」と思った時は、下鴨神社の駐車場で
仮眠しながらすごした。漆黒の闇の中にいるのは、孤独やし想像すると怖いけど、
「この世の中で一番怖いのは『にんげん』だ」と悟った。

上京してから、ながいことIT関連の会社を経営していたが、ひょんなことから
寒山拾得の絵を描く南條さんと出会い、彼が京都の野村美術館(ぼくの美術館ではない。野村証券の創始者)で
個展をやっていたので、春は南禅寺や、野村さんの別荘・碧雲荘を特別に拝観させてもろうた。
バブルがはじけて、池袋に不思議なお化け屋敷みたいな家が、空き家になっていたので、そこを月50万で借りて、
ギャラリーも始めた。天真庵の原点。

そんな縁で、西陣でろうけつ染めをやっていた野村富造さん(あだなが、とむさん)や河野さんとも出会い、毎年二三度は
上洛していた。そんな時も、なんとなく不思議な神域の下鴨神社には、お詣りしていた。トムさんが召され、南條さんも
引退し(昨年愛媛にギャラリーをつくった。95歳。)、観光客の多さに辟易して、しばらくいってなかったけど、
「やっぱ、縁あるとこやな~」と痛感した。

今回、特別拝観で、神様の台所が公開されていたので、500円払って入った。

「大炊殿(重要文化財)・御車舎」
神様のお供えもの(神饌)を調理していた、大炊殿(神様の台所)・井戸屋形を公開。葵祭の特殊神饌等、古代より伝わるお供えのレプリカや調理器具等を特別展示しております。 別棟の御車舎では、古くから伝わる葵祭関係資料等を展示しております。(定期的に展示替)

おくどさん(竈の京ことば)というのは、神様がいはるとこだと痛感するようなとこ。人の命をつむぐ場所。
糺の森(ただすのもり)の中に、鴨長明の「方丈庵」もある。
小さな草庵に、囲炉裏ひとつ。「足るを知る」という精神生そのままの佇まいは、日本人の魂を
そのまま宿している。「スピリチャル」なんて、なんか特別に霊感があったり、特別な才能があったりするような
ニュアンスがあるけど、日本人の昔の暮らし方そのものが「スピリチャル」なんだと納得する。縄文時代から
小さな家の中心には、囲炉裏があった。

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり・・・

今日は16時まで営業。それから「UFO焙煎塾」「そば打ち教室」
明日の朝は「卵かけごはん」
能登珪藻土の竈でごはんを炊いております。ごはんをかむとき、「神」を感じるかもなんばん。感謝。

宇宙家族ロビンソン

昨日、近くの千葉大の女子学生さんたち4人が、そばを手繰りにこられた。
いつものように、織部の土瓶に、輪花ドリッパーをおいて、濾し布(ネル)に
石臼で挽いた珈琲豆をいれて、ほぼブラジルを淹れようとしていると、
ひとりの女子大生が「緑の急須って素敵ですね」といった。「オリベのドビンっていうの」と教え、

「宇宙的でしょ?」というと、「?」な顔をしているので、「宇宙家族ドビンソンって知らない?」
というと、みんな不思議な顔をしていた。昭和40年代、「宇宙家族ロビンソン」は、だれもが夢中で見ていたテレビ番組。
筆子さんが横から「私も知らないのに、女子大生が知るはずないでしょ」と一刀両断。
時代がめぐって、振り子が降れるような現象がいろいろあって、若い人がレコードやカセットテープで
音楽を聴くような時代。ひょっとして・・・と思ったけど、ジェネレーションギャップを感じ、オヤジギャグもこけた。

いろいろな勘違いを、不特定多数の人が共有しているような現象を「マンデラエフェクト」という。
2013年に95歳でなくなった、南アフリカの大統領。長生きされた偉大な政治家なのですが、現役中に
「獄中で亡くなった」と思い込んでる人が、たくさんいたので、そのような「多数の人が同じ勘違いをする」
ようなことを、マンデラエフェクトもしくはマンデラ効果という。

個人といわず、家族、団体、会社、国・・・なんとなく、自信を失い、しょぼんとしているような昨今。
このマンデラさんが、大統領に就任した時の名演説がいい。「自信がなくなる先は滅びにいたる」というのが、
有名な歴史学者の言葉。

「我々が最も恐れているもの、
それは自分が無力だということではない。

我々が最も恐れているもの、
それは、自分には計り知れない力がある、ということだ。

我々が最も恐れるもの、
それは我々の光であって、闇ではない。

我々は自分に問いかける。

自分ごときが賢く、美しく、才能にあふれた
素晴らしい人物であろうはずがないではないか?

だが、そうあってはなぜいけない?あなたは神の子である。

あなたが遠慮をしても世界の役には立たない。

周りの人が気後れしないようにと
あなたが身を縮めることは何の美徳でもない。

我々は、自らの内にある神の栄光を現すために生まれてきたのだ。

そしてそれは限られた人々のものではなく、
すべての人の内にある!

我々が自らの内にある光を輝かせるとき、
無意識のうちに他者に対しても同様のことを許している。

我々が自分の持つ恐れから自らを解放するとき、
我々の存在は同時に他者も解放する。感謝(この二文字は、ぼくが勝手につけた)」

冬にもどったり、夏日になったり・・

おじさんギャぐではないばってん、京都に「冬夏」というお茶の喫茶店がある。
御所の近くの古民家を上手に改装して、いろいろなお茶が楽しめるサロン。
O女将(大女将ではない。まだ若い)は、天真庵の「お花の教室」で、ぼくといっしょに花を習っておられた。
故・原田先生の愛弟子のひとり。

20度を超すと、ビールが美味しくなる。
同じく、ホットコーヒーとアイスコーヒーの出かたが半々になったり。
焼酎のお湯割りやそば湯割りよりも、クロキリオンザロックなどが欲しくなる。

先週は、炭火や石油ストーブを使ったりしたけど、昨日あたりから、ビール
の美味い気温になった。
20度以下だと、能登牛筋カレー蕎麦、牛筋そば、花巻など暖かい蕎麦が圧倒的にでるけど、
こえると、ざるそばや、梅おろしそばの注文が多くなる。

そんなわけで、20度を境に、仕込みとかがかわってくる。
でもそろそろ石油ストーブはいらなくなりそう。
焙煎があるので、能登の珪藻土七輪は、春夏秋冬活躍するばってん。
炭火というのは、夏でもおきていたら、気分がいい、というかお部屋の気がいい。能登には「火様」(ひいさま)といって
300年以上も燃え続ける火がある。
チンして熱燗するのと、炭火の上に鉄瓶を置き、中にチロリで酒をお燗にすると、似て非なる味になる。

熱燗に一番適した酒肴は「そばがき」。主人の手がとられるので、人気店ではメニューから消えた。
40gの蕎麦粉に120CC。1対4が、黄金比。雪平鍋に材料を入れ、泡立て器でガシャガシャまぜ、中火にして、
木べらで、一気呵成にかく。そばをかくので、そばがき。けっしてがきにやらせてはいけない。
手首を使って、空気を入れるイメージでかくと、ふんわりしたそばがきができる。
天真庵では、それを陶器の合鹿椀(ごうろくわん)で供し、かえし(そばやの命の合わせ醤油)と柚子胡椒で食べてもらう。
池袋時代には、よくワイン会をやった。ヨーロッパなどのワインの作りてもよくきた。
そんな時は、「かえし」のかわりに、オーリーブオイルに、塩を入れてワインの酒肴にした。
ときどき能登ワインなどを飲む時は、そんなつまみを、一気呵成につくる。

今日はどんなお客様がきて、どんなそばや珈琲がでるのかしらん・・?
毎日そうゆう「どきどき」や「わくわく」があるのが、お店をやっていての楽しみ。

明日明後日は、12時から16時。
それから「UFO焙煎塾」と「蕎麦打ち教室」

こりこり

こりこりの佐藤さん、といえばこの界隈では有名人。愛すべき押上村の重鎮だ。
「押上 こりこり」で検索すると、でてくる。

宮崎は延岡出身で、うちの両親の出身地でもあるので、「よだきい」の文化圏だ。
「よだきい」とは、「疲れた」みたいなニュアンスだけど・・・「散歩しよか?」
と誘って「よだきい」と答えられると、「疲れた」でもいいけど、どちらかというと「めんどくさい」
とか「ほっといて」とかいう気持ちに近い。誘われて、断る理由が微妙な時に、とても便利な言葉やと思う。
同調圧力好き、NOが言えない日本人には、とても貴重な言葉だと思う。ただし、宮崎以外では、通用しないばってん。
標準語にするように、文科省に圧力かけてもいいんじゃない?というくらい、大事な日本語。

ときどき、蕎麦を手繰りにきてくれる。「最近は、大分にもよくいくんです」というので、
「やっぱり、腰とか足とかが『おお、いたっ』という人を助けにいくと?」と聞くと、
「村おこしの手伝いです」とのこと。
蕎麦を手繰った後、「UFO気になっとるとです」というので、窓際席にカセットコンロとUFOを
もって、60gの豆を焙煎して飲んでもらった。「この豆を珈琲焼酎にするとうまかでしょうね?」というので、
「くろうまが、しろうまになるげな感じばい」(注)くろうまは、宮崎の焼酎。「発注します。」といって近くの
コンビニにお金をおろしにいって、もってかえられた。さすがにツボをしっている、というか、阿吽の呼吸である。
大分でもUFOが飛ぶようになるかもなんばん。

こりこりの人や眠れない人、ストレスがいっぱい、不安がいっぱいな時代だけど、平々凡々で
波風のない人生なんて、なんもおもしろくないし、そんな人生をおくっている人の話はつまらない。
昨日、閉店間際に、カリスマケアマネージャーさんが「生豆がなくなったので、買いにきたわよ」といって、
ほぼぶらじるを飲みながら、「お金持ちも、貧乏人も関係なく最後は畳一畳ほどのベッドで死んでいくのよね。
だから、生きているうちに、したいことをしないと後悔するわね。」とポツリ。
自称「おくりびと」(映画の「おくりびと」は、死んだ人を化粧したりしておくるのだが、
自分たちの仕事は、この世の最後を世話し、あの世におくるお手伝いをする「ほんとうのおくりびと」ですが、持論)

鯖街道を走る パート2

お店の近くに、この界隈では、もっとも古いマンションがある。
おのずと、独居老人が多い。平均年齢の差とか、生命力の差とかで、圧倒的に
女性の独居老人が多い。老人施設にいっても、黄金比のように、男と女が1対10
くらい。「もてない」とお嘆きの男たちよ、体を鍛えて、いや養生して長生きすれば、
黄金のもてきがくるかもなんばん。

「お世話しあうはうす」と勝手に名付けたそのマンションのお世話役さんは、齢80歳。
朝ごはん、散歩、昼ごはん、夕ご飯、ときどき病院の付き添いなど、まるで「忘己利他」
の精神でおばあちゃんたちの面倒を見ている。福井県出身で、そば好きのため、よく蕎麦を
手繰りにこられる。料理上手でよく、お流れを頂戴するんだけど、「やっぱり、人がつくってくれたもの
のほうがおいしい」、と笑う。

兄弟がまだ福井にいて「かえってこないか?」と言われるそうだが、まったくその意志がない。
ときどき散歩の延長で、いろんな美術館めぐりをしたり、その時にいくカフェやレストランで「おひとりさま」
や「友達と談論風発」という楽しみは、東京が一番、という理由。天真庵に飾ってある「生」の額を見て、
「白井晟一の書ですね」といったのは、3人くらいしかいない。(おかまのMくん、白井さんの後輩の京都工芸繊維大学出身の建築家のF)
についで3人目。

そのおばあちゃんが、先月手書きのメモをくれた。
福井の越前そばのお店とか、おいしいお店、名所旧跡などがメモされていた。
今回は、2泊くらいして福井をまわる予定が、京都で用ができたので、鯖街道を走って上洛した。

その時、たちよったところで、「いいとこだな」と思ったのが、熊川宿。
日本海に面した小浜という港から、琵琶湖畔の今津にいく山越えの道に、藩政時代につくられた宿場町だ。
この熊川からすこし東の保坂で分岐し、大原から京都に入る道が「鯖街道」。
新幹線で京都にいき、そこから大原あたりのお店で「鯖寿司」を食べるのと、若狭から鯖街道を
下っていくのでは、気持ちがまったく違うことを痛感。能登で暮らすようになってわかったのは、
海の塩味がちがうし、当然ながら「塩」が違う。さばそのものも違う。しかも新鮮なうちに届けようと、
鯖をかかえて、走って上洛した古人の気持ちが違う。
「あ、京都のさばおいしい・・・ぼりぼり」とただ喰らうだけの人生だと、味わえないものがある。

昨日、2001年発行の「チルチンびと」(このチルチンは愛読雑誌)に、熊川に住む中学生の文を見つけた。22年前だから、今は
もうおっさんになっているだろうけど・・・

(前略)自分は12年しかいきてこないけれど、熊川で育ったせいかこの家に愛着がある。
トイレはおとし、風呂はゴエモン、ゴキブリホイホイにヘビのかかる家だ。暗くて狭くて湿ていて、
おまけにかたむいているときている。家としては最悪だ。なのに捨てがたいものがある。それはなぜだろうか。
(略)
古い家だけど、母は掃除魔でいつも家の中はピカピカ。窓ふき係はぼくと妹。トタンがさびれば、祖父がコールタールを塗る。
えんとつ掃除は父の仕事。お客さんは人間だけなく、サルも来る。イヌも来る。キジは来ないが、ツバメがくる。ネズミもでるし、
ネコもでる。軒下はクマンバチの穴だらけ。窓にはヤモリがはりついて、クモはしつこく巣をはって、トンボが縦横に通り抜け、
内庭はカエルとセミの大合唱。春はいい。用を足しながら、ウグイスの声。心和む珍客はかわいいホタルくん。
僕らはこうして、この家と四季折々の変化と数々の喜怒哀楽を共にしてきたのである・・・・・

たぶん、この少年の手記はなんども読んだ。そしていつかいこう、と思っていた街にたどり着いた。
ちょうど駐車場に、福岡ナンバーのランクルがとまり、中年の女性がでてきて、「いい街ですね」
と、懐かしい九州弁でつぶやいたので、「福岡のどちらからきたと?」と聞いたら、「知らないと思いますが、
ムナカタです」とのこと。「ぼくはムナコウばい(宗像高校)」といったら、目を丸くしていた。
「子供もひとりだちして、はじめて北陸まで予定もないひとり旅をしてます」とのこと。
人生は旅やね。旅は哲だな~      感謝。

リングの虫逝く!

今朝、蕎麦を打っていたら、ラジオのニュースが「ヨネクラボクシングジムの米倉健司会長が20日に88歳
で亡くなった」と伝えた。福岡出身でガッツ石松はじめ、5人の世界チャンピオンを育てた。
その中に大橋ジムの大橋会長もいる。今世界一のボクサーだと言われている井上 尚弥くんを育てたジム。
シンクロニシティじゃないばってん、昨日書いたYくんも、福岡出身の「米倉健児くん。漢字がちょっと違うけど、
「ことだま」が同じ。

40のころからお店をやるまでの10年、ヨネクラボクシングに通って、ボクシングを習っていた。
同時に「後援会」に入った。その時、名前、年齢、住所など書いた後、「奥様の誕生日」というのがあって、
建国記念日の「2月11日」と記入した。
そんなこと忘れていて、しばらく上池袋の自宅から、グローブやバンテージ(手にまくテープ)などをスポーツバッグに
入れて、目白にあったジムまで歩いて往復した。片道40分。
一年で体重が11k(75Kが64k)になった。スーツがみんなダブダブになり、池袋西武でポールスミスの紺のスーツを買った。
それまでは、仕立てていて、けっこう高級なスーツを着ていたけど、それよりも、つるしのポールスミスのほうが、似合った(笑)

2月の誕生日の朝、家のチャイムが鳴った。筆子さんが玄関をあけたら、大きな箱が届いた。送り人が「ヨネクラボクシングジム」
100万本はなかったばってん、赤いバラの花束と、手紙が入って
「ぼくたちが、いつもリングで闘っていけるのは、奥様のおかげです。これからもよろしくお願いします。  米倉ジム・ハリキリボーイズ
より」と手書きで綴られていた。
孤独なリングで拳いとつで闘うボクサーも、リングを離れると、みなやさしい男たち。見え見え感ただよう演出だけど、喜ばない女性
はいない。「さすが」と感嘆した。

押上で天真庵がスタートした2007年。会長から電話があった。「これから、お蕎麦と珈琲を飲みにいきたいのですが、
50人いけますか?・・・」といって笑っている。「会長わざわざ電話ありがとうございます」
といったら「お蕎麦と珈琲で世界チャンピオンになってください」と激励された。
「リングの虫」と呼ばれた男。きっとあの世にいっても、ファイティングポーズをとっているに違いない。鎮魂。

鯖街道をタコを担いで上洛?

今回は、京都にいく予定ができたので、能登から上洛。
福井から、いわゆる「鯖街道」を通って上洛。「鯖すし」の看板が目立つ道。久しぶりに大原三千院にお参り。

向田邦子さんのエッセーで「眠る盃」というのがある。
♪春高楼の花の宴 めぐる盃・・・・という節を彼女はずっと「眠る盃」だと思い込んでいた、というお話。
だれもそんな勘違いを、ひとつやふたつもっている。誰にも指摘されず、ずっとそのまま勘違い、も多いのでは・・
ぼくのひとつ後輩、で早稲田をでて共同通信にいたYくんは、同郷でもあり酔うと酒場で「ぼくの兄さんです」とぼくのことを紹介した。
だれもが疑わないくらいよく似ていた。殺しても死なないくらいタフな男だったけど、50の手前で突然旅立った。
一度一緒に京都に遊んだ時、♪京都大原三千院・・・を京都大原三千年と歌った。「さもありなん」という勘違い。
向田さんは、田原坂の♪雨はふるふる 人馬は濡れる・・・の人馬を「ちんば」と思っていたみたい。確かに、戦場では不肖
して「ちんば」になる人は多かった。作家の想像力のたまものでもあるようなお話。

その後下鴨神社の駐車場に車を置いて、界隈を久しぶりに散策。「音色食堂」で、「ごはんなしの日替わり定食」を
頼んでビール。筆子さんもおなじく「ごはんなしの唐揚げ定食」。合計で2000円でおつりがきた。値段もお店の雰囲気も昭和のまんまのお店。
ぼくが近くの「からふねや本店」の店長をしていたのが、昭和51年。そのころ珈琲が280円やった。天下一品が500円(学生は50円びき)
大卒の初任給が9万円。国立大の授業料もそのくらいじゃなかったかな?立命館の法学部の授業料が198000円やった。ショッポ(タバ)一箱50円。
仕送りの平均が5万の時代で、家賃が1万円代・・いろんな事情で仕送りがなくても、がんばれば、なんとかなった時代やった。

それから北大路通を鴨川まで歩く。北大路大橋の東詰めに、「売茶翁」(ばいさおう この奇僧がいなかったら、お茶は普及しなかった)の石碑が立った(7年くらい前?)。そこまで歩き、
植物園の脇をのぼって北山通りまで歩く。うちのお店を改装したメンバーの縁で、北山通にレコードショップをつくったくん(長崎出身)と、その二階でイタリアンをはじめた猛者がいる。イタリアンのお店はまだ「試運転」みたいな感じで名前も公開できへんけど、きっと来年くらいから
予約ができない店になるかもなんばん。賀茂川の近くのお店。

昨日のお宿も、まだできたばかりで、知らない人のほうが多い。
僕の大好きな八瀬に昨年ひっそりとオープンした。その界隈には、ちゃんとしたホテルはないので、三千院から下鴨神社に
いく途中に、ナビに「ホテル moksa」と表示されていた。
ここは異次元な世界だ。八瀬童子、釜風呂、阿闍梨様・・・不思議な山紫水明処で、数々の修験者が歩いた土地。

今朝は同じく、三千院経由で滋賀に抜け、名神と東名高速で帰ってきた。さすが日本の動脈。どこも混んでいる。
途中、近江富士という三上山、御上(みかみ)神社という不思議がある。比叡山のまわりはすごい。天真庵のカウンターの上に
三番叟(さんばそう)の猿が鎮座していて、その足元に「御上神社」の絵馬が飾ってある。
こういうと、Mの苗字がばれそうだけど、「おかまのMくん」がくれたものだ。そんなことを思っていたら、
携帯が鳴って、「まだどこかを徘徊しているの・・・?」とMからだった。居場所を言うと、「なーんだ。だったら私を祀っている神社にお参りしてちょうだい」とテンションがあがる。
まことに不思議な男(両性具有?)だ。感謝。

明日から通常営業。

開運!能登一周!

昨日は、珠洲の珪藻土七輪屋さんにいって、縄文真脇遺跡経由で、梅茶翁に
珈琲豆を届けにいった。
朝、輪島の「けんちゃんパン」でパンを買って、車の中で朝ごはん。けんちゃんとけんちゃんの
お母さんでやっていて、カニクリームのコロッケ入りパンと、ハムサンドを食べた。
けんちゃんが「今日はどこへいくのですか?」というので、珠洲経由で能登町にいって、穴水の「どんたく」で買い物をして、
富来(とぎ)の橋本食堂でおでんをつまみに、一杯飲む、と返事をしたら、「能登一周ですね」といわれ、左手の親指を
まげ、節のところをさし、「ここが輪島」、「次にいく珠洲」といって、先端の親指の爪をさし、このあたりが能登町、
といって親指の腹をさし、穴水・・・おでんや・・・と親指で説明してくれた。

京都の♪まるたけえびすにおしおいけ・・・も便利だけど、能登の地図は、親指で説明できる、というのが、
コロンブスの卵、というか、コロンブスの親指だ。
日本の地形もそうだけど、能登半島も日本海側に「龍」のような形をしているのが能登。
そこに「縄文真脇遺跡」がある。あまり知られていないけど、縄文人は文字をもっていた。
「龍体文字」という。真脇遺跡や、島原半島の原山ドルメン(これも縄文遺跡)にいくと、太古から続いている
宇宙との対話、みたいなものを感じる。先月、氷見の本屋で見つけた「龍の本」に、龍体文字を書いて置いていると、
「運がついてくる」みたいなことが書いてあった。これだけだと、机上の空論みたいな、うすっぺらさがあるけど、
縄文遺跡にいって、大きく深呼吸すると、不思議な「つながり」を体感できるのではないかしらん。

能登にきて6年。毎月、珠洲と真脇遺跡、瑞穂の売茶翁をまわって、穴水のどんたくにいって、富来の湖月館とか橋本食堂
か花よしで焼き肉を食べたりしてきた。
「能登珪藻土焙煎器 UFO」が大ヒット(ぼくてきには・・?まだまだだけど、久保さんには「売れすぎ」としかられる)
中だけど、これも昨年の震度6の地震の3日後に、珠洲の地震で壊れた窯の前で、ちゃねったアイデアをその場から久保
さんに電話して、何回か試行錯誤して11月に完成したものだ。

明後日、梅茶翁で「そば打ち」をやることになった。オーストラリアの5人家族が何日か滞在するらしい。
今朝、お土産用のタコをねらって、海へ。5分で一匹捕れた。感謝。

のんちんの能登くらし 二日目

能登は朝から雨。まだまだ肌寒く、昨日寝る時に、灰をかけておいた囲炉裏の炭を
掘り出し、新しい炭を足して暖をとる。
能登には「火様」(ひぃさま) といって、3百年の間、一度も消えることなく村人に守られて
きた火がある。暖をとり、調理もできる「火」の大切さを知る古人たちの「畏敬の念」が感じられる。

昨日は近所の漁師さんがくれた「えび」を、囲炉裏の炭で焼いた。あまりの美味さに、酒がすすみすぎ、
「宗玄」という能登の地酒をグビグビのどを鳴らしながら夕餉。
となりのおばあちゃんが、わらび(灰汁で下処理すみ)と、自作のアスパラガスをくれたので、卵とじにした。
妙高で買ってきた「こごみ」は、さっと湯がいて、マヨネーズに柚子胡椒を入れて食べる。アクの強い山菜は
たいがいこの食べ方でOK牧場。こしあぶらは、バターでいため、仕上げに「かえし」(醤油でもいい)をちょこっと
入れ、ごはんとまぜたら「こしあぶらごはん」ができあがる。山菜の王様たる所以の美味さ。

「囲炉裏」(長火鉢も含め)が、3つある。一番活躍しているのが、大きな木の根っこをくりぬいて、銅板を張り、灰を
いれ大きな五徳をいれたもの。陶芸家の久保さんにもらった。大人の手でぐるっと抱きしめても届かぬくらいの大きさ。お客さんがきたら、
五徳に網を置いて魚や肉を焼いたり、鍋をのせたりする。普段は大きな薬缶をおいてお湯を沸かし、珈琲やお茶や、洗い物をしたりするお湯になる。
さながら「薬缶の給湯器」だ。この家に住んで6年目になるけど、ガスは契約していなし、お風呂の給湯器もこわれたままにして、
近所の町営の「温泉」に車でいき、260円(65歳から半額になった)で、風呂と風呂上りに新聞を読んで息抜きしている。
水は藤瀬霊水を汲み、電気は移動型のソーラーパネルで蓄電池に電気を溜めている。水も電気も、基本料金以内。

火を囲んで車座になって酒を飲むと、縄文人にでもなった気分でテンションが
あがる。玄関には、昔の瀬戸物の火鉢がひとつ。足立くんにテーブルをつくってもらって、そこに珪藻土七輪をいれ、焙煎もできるし、
椅子にすわったまま焼き肉パーティーができる場所もつくった。徒然草に「家の作りやうは夏をむねとすべし」の名言があるけど、
北国は「冬をむねとしている」と思う。この家を建てた施主のじいちゃんはヘビースモーカーだったらしく、
居間の天井に換気扇が設えてある。その下に、移動型ではない、具え付きの「囲炉裏」を冬までに作ろうと思っている。
近く(といっても、車で15分ちょい)の「おでんや」で出会った板金屋のじいちゃんが「おれにまかせとけ」といって、
仮契約はすましている。ただそのじいちゃんが、先月手術をして、今はリハビリ中。回復を待って、こんどの冬までにできればいい。

明日は、珠洲の珪藻土七輪やさん経由で、縄文真脇遺跡にいき、梅茶翁に「ほぼぶらじる」を届ける。我が家の「火様」は、
昨日焙煎する時に使った「炭」の火の二日目の火。300年前にも、そんな「はじまり」があって、300年の火様が
燃え続けているということだ。兼好法師の格言ではないが、「継続は力なり」を思い出す。感謝。

のんちんの能登くらし 一日目

日曜日の夕方、片づけが終わって、車で「いざ能登」へ。
いつも車中泊をする松代の温度は3度だった。
寝袋に体を潜り込ませ、クーラーの中に忍ばせた「亀泉」(能登の地酒)でナイトキャップ。
酒が五臓六腑に染み渡る。ソロキャンプが流行っているけど、車中泊できるような
車も多くなった。「道の駅」も全国津々浦々まであるし、蓄電池、寝袋、酒の「車中泊 三種の神器」
をもって、「ノマド」もおもしろい。UFO(珪藻土焙煎器)があれば、鬼に金棒の「夜逃げのようなノマド生活」だ。
しばらく、世界も日本の経済も斜陽。太宰ではないけど、「斜陽」もけっこうではないか。ゆっくり旅しようじゃないか!

朝おきて、妙高高原のパーキングまでいって、朝ごはん。信州のパーキングの食堂のメニューは
「朝からそば」が多い。コロナの前は、松代でも「朝定食」がさばの塩焼きなどがついていたのに、
「そば」が中心になった。だから妙高まで走って・・さばの塩焼きの朝定食がならわしになった。
しかしその「さば」が、そこも消えた。さばの不漁で缶詰もスーパーの棚から消えるような昨今、信州の食堂までの
さばがあるはずもない。「豚汁定食」(ころっけつき980円)のボタンをおし、気分も切り替えた。
その後、新井パーキングに停め、歩いて「道の駅」(高速道路と娑婆が自由にいけるところがある)、で
山菜(こしあぶらとこごみ)と、キムチ(高原の白菜がうまいので、ここのキムチは秀逸)を買う。

北陸道は、左手に立山が真っ白に化粧したまま見えた。40代のころ、「立山だけ登る登山者」よろしく
毎年夏だけど、立山をのぼった。かなり初心者にきついルートもあったけど、若さでなんと凌いだ。
もうそんな健脚は残ってないけど、「もういちど・・」なんて思いながら、横眼で白い巨塔のような冬山を眺める。
昨日は魚津あたりでフロントガラスの向こうに、白山連峰の頂が白く見えた。蜃気楼の街だけど、しっかり見えた。
ユーミン風に言えば、♪左手に立山、正面が白山連峰・・この道はまるで滑走路 夜空の能登へ続く・・・だ。

小杉インターから下道を通り、氷見の回転すし「すしのや」で、ちょこっとすしをつまみ、
近くの本屋で本を買う。新作の文庫本は、紙や郵送費や人件費などの高騰で、一冊1000円近くになった。
そんな中で「世の中がかわっても、ずっと売れている一冊」と手書きしているオススメの本の
ところに「人間失格」があった。定価280円というのが、うれしい。後ろのページに
「昭和27年10月発行」が「令和4年4月30日 二百十一刷」となっている数にびっくり。
日本人の読む本が、「月一冊」の時代に、これだけ愛されつづけている太宰。入水自殺しなくても、印税で喰えたね?
別にお金の問題で死んだわけではないか・・?

能登の家について、晩酌をしながら40年ぶりに「人間失格」を読もうとするも、寒さと酩酊で、頭に入ってこない。
一か月空けた家は、石油ストーブと囲炉裏の炭をもってしても、しばらく寒い。
「明日にしよう」と思い、茶箪笥の上に積んであった雑誌「ちるちんびと」などをを読む、にチェンジ。
さながら「人間失格」だ・・・

そんな風にして、6年目の能登の春が始まる。今日はさっそく梅茶翁とか、東京のカフェから
きた注文の珈琲豆・ほぼぶらじるの焙煎をしようと思っている。なぜだか、京都の高級ホテルからも注文が・・・
「たつき」(採算ベースにあうか?)という意味では、部の悪い「飲食業」。
しかも10日も「能登休み」にして、馬耳東風なその日暮らし。採算が合う、とは程遠いけど、
「こんなに素敵な生き方はないよ」と、痩せてはいないばってん、やせ我慢をしながら、不思議な「二股暮らし」
をしている今日このごろ、が6年続いている。手本にはならないけど、無手勝手流な「珈琲茶道」を
邁進中かもなんばん?

*「のんちん」というのは、ぼくの渾名。
北九州の城山小学校時代、ソフトボールでバッテリーを組んでいたキャッチャーの笠間君が、
とある試合の時、珍しく「あがっている」ピッチャーののむらくんに声を掛けた時に、
天声人語みたいにちゃねった「ことだま」みたいな「あだな」。
余生にふろくができて、小倉か黒崎でお店をやるチャンスがあったら、お店の名前は「のんちん」
にしたい(笑)