♪小倉うまれで玄海育ち

「無法松の一生」のでだし。
不肖のむらも、小倉に生まれ、八幡の春の町で小学校の3年まで暮らし、公害で有名だった城山地区に6年までいて、
6年の春ころ西区の引野という小学校に在籍し、はじめての卒業証書(幼稚園が中退なため)をもらい、高校は
玄海という宗像大社の神域の名前を冠した「宗像高校」を卒業したので、村田英雄さんが、ぼくの人生を歌って
くれ(そんなハズはないけど)ていると、ずっと思っている。

土曜日にわかさんが、そばを手繰りにきた。
天真庵のHPの表紙のイラストを描いてくれた彼女。
雨が降っていたけど、丁寧に袋に包んだ「雲のうえ」の
最新の号が3冊と、一号から5号までがまとまって本になっているものを「読んでください」と。
「雲のうえ」は、北九州を元気にしようと、有志が集まって、「角打ち」とか「祇園祭り」
とか「ヤクザ」(さすがに、それはない)、とか特集記事を編集し、無料で駅とか公共施設に
おいて発信している小雑誌。日本で一番元気になるフリーペーパかもなんばん!

まだコロナの前、「スケッチの会」の時、先生だったわかさんが、「雲のうえ」の9号で「祇園の夏」
というのをくれた。博多祇園ではなく、黒崎(博多・小倉・黒崎・・が福岡の大きな街順)の祇園祭りが
紹介され、表紙にはパンチパーマでサングラスの法被姿の「THE・YAKUZA」そのものの井出達の男が
写っている。ぼくの小さいころは、そんな人たちのテーマパーク?みたいに、近所にもいっぱいいて、
お祭りの時、佳境を迎えると、レンガなんかを投げる姿などが、ままあった。
今でも「地面に手榴弾がうまっている」なんてウワサがあるらしいのを「北九州わるくないっちゃ」
というレゲエをYouTubeで見て知った。

第35号は、「北九州家のいただきます。ごちそうさま」で、アフロおねえさんの稲垣えみ子さんが、
いろんな家をたずね、「さばのぬか炊き」「漬物」などを紹介している。「もうレシピ本はいらない」(稲垣女史の最強のレシピ本)
を書いたリズムで、北九州の家ごはんをおもしろおかしく紹介してくれている。
最初の記事は、「A級小倉・お母さんのまかないカレーライス」  なんのへんてつもないタイトルだと
思う人は不感症っちゃ。「A級小倉」というのは、小倉駅前にある老舗のストリップ劇場。小倉の予備校時代には
よく通った。いろいろな事情で地方からやってくる踊り子さんたちといっしょに食べる「家庭の味」なんやね。
今は「おひとりさま時代」やけど、たとへひとりであっても、「家庭の味」は食べれる。みんな大丈夫!

北九州発の三種の神器が「パンチパーマ」「焼うどん」「競輪」。
でも今では全国区になった立ち飲みの「角打ち」もそうだ。
「鉄の街」として1902年に八幡製鉄ができて、甲乙丙と三交代制度で、溶鉱炉の火をかさない街になった。
春の町は、製鉄所の東門があったところで、門前町にはいっぱい角打ちがあった。「24時間営業」はきっと北九州の専売特許そそのもので、夜勤開けの労働者たちが、一杯飲めるようにと、酒屋さんがお店の隅っこを解放したのが「角打ち」のがはじまり。
給料日には、門のところに「今日はまっすぐ家に帰りましょう」と大きな張り紙があったらしい。

さっそく5月に、横須賀発門司港行きフェリーを予約。小倉に一泊して、火災の憂き目にあった「旦過市場」にいき、
角打ちなどを巡ろうと思う。
「鉄は国家なり」といわれた街も冷え、全盛期は100万人超えの人口もだいぶ減った。
でも反対に、洞海湾も空気もきれいになり、皿倉山の夜景は100万ドル以上の価値になり、老後に住みたい街の
ナンバーワンといわれて久しい。それはなんといっても「人がいいっちゃ」。
「コンビニ兄弟 ―テンダネス門司港こがね村店」(町田そのこ)を読むと、なおいっそうそのあたりがわかる。
全国津々浦々が、限界集落になりそうだけど、やっぱり「人」がいるところは、宝がいっぱいだと思う。感謝。

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