おでん 熱燗 昔の女

そんなタイトルのエッセー本がある。ときどき読み返す( 諸井 薫 (著))

小学校のころ、不思議な塾が近くにあった。
塾頭は「島津先生」 きっとルーツは鹿児島で、薩摩藩独特の郷中教育(ごちゅうきょういく  ボーイスカウトのモデルになった)の流れをくんでいた。
畳の部屋に、座卓をおいて、そこで座って勉強した。いわゆる「寺子屋机」
今では考えられないけど、ビンタは男女問わず当たり前、けっこうきびしい塾だった。
竹馬の友で、衆議院議員の「すえくん」(末松義規くん)」も、机を並べ、ビンタを
くらった仲間のひとりだ。塾頭の長男・しまずくんは、ときどき天真庵にそばを手繰りにくる(彼が一学年下だけど、ときどき一緒に勉強したりするのも郷中教育のなごり。今の文科省にそんな知恵がない?)。

塾までは家から、5分ほど歩いた。
道の途中に、伊藤酒店(そこの伊藤くんは、からふねや時代に下鴨店の店長をした)があり、
向かいに、小さな雑貨屋さんがあった。その雑貨屋の片隅に「おでん鍋」があって、
そこで10円の「ごぼてん」を食べるのが、唯一無二の至福時間だった。中学になってからは、
九州ルールで酒も飲めるようになり、ときどき、伊藤酒店の角打ちで、おでんをつまみに
酒をすこし飲んだりした。時効だけど。

おでんは熊本の「田楽」がルーツだという有力説。こんにゃくやイモを煮て、
点前味噌をつけて食べた。それが江戸にいって「関東煮」になり、関東大震災の時、大阪あたり
に移住した人たちが、昆布の味などに工夫をして、極上の「おでん」になった。
京都にいるころは、大学の近くの「シャンクレール」という有名なジャズ喫茶
にいりびたり、ジャズを聴き、その後は50mくら「下った」ところにある「安兵衛」という
おでんやで飲むのが日常だった。まだ京都のおでんやに「ころ」(クジラの脂身)があったころだ。
バイト代がでて懐が温かい時は、コロと蛸で、名誉冠という伏見の女酒を燗にしてもらって、カウンターに
10本くらい空いた徳利を並べた。友達の飯田君も同じくらい飲んだので、ふたりで飲むと、安兵衛のカウンターには20本の
空徳利が並んだ。やつは今、上場会社の社長をしていて、大阪から上京する時は、
そば前とそばを手繰っていかれる。もう10本は飲めないばってん。

昨日は、ええかげんな京都の左右の道を覚える童歌を紹介した。
♪あねさん ろっかく たこにしき(昨日は あねさん ろっかい タコとした  と書いた 北斎の春画風?)
タコは蛸薬師(たこやくし)通りのこと。京都の女子が好きなものは「芋たこなんきん」というみっつが鉄則で、
それを知らない男は、ヤボ以下でもてへん(知ってるだけももてへんけど)。
新京極の蛸薬師通のところに、蛸薬師堂 永福寺がある。蛸薬師通りの名前のルーツ。
昔母思いの坊さんが、生きたたこを母に食わせた美談が残っていて、今でも絵馬には蛸がかいてあったり、
きんぺんの居酒屋に「蛸八」なんていうのがあったりする。京女のタコ大好きのルーツもそこかもなんばん。おおきに(感謝)。

今日は旗日だけど、12時から18時までの通常営業。それから二階で「ゆるゆるヨガ」

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