ビビンコ!

幼いころ、親によくビビンコされた。北九州では、製鉄所の創業を祝う「起業祭」
というのが、毎年11月に行われていて、学校も商店も休みになり、大谷体育館のまわりに、
木下大サーカスや、轆轤首(ろくろくび)の館みたいな怪しげなブースがでて、鉄の街に生きるを
みなで祝った。そんな混雑する場所では、ビビンコしてもらうと、うれしかった。
そのころの北九州音頭には、♪七色の煙・・・みたいな詩が入っていた。その後
公害の街として名にしおうようになり、たぶん、そげな文言の歌はなくなったのではないかと思う。

昭和50年に新幹線が博多まできた。翌年上洛するため、小倉駅から京都に新幹線でいった。
京都にいった年に、「からふねや」でバイト。といっても、秋にいきなりステーキみたく、本店の
店長になった。何年か後に、6店舗を任された。当然、アルバイトくんたちの教育も仕事の一部。
「ゴミが落ちとーやないか・・・ハワイテ!」と指示すると、みんな「???」という顔をする。
標準語で、ハワイでも通用するような言霊かと思ったら「掃(は)く」が標準語。
「ハワイタ後は、箒をナオシテや」と、少し京都弁風にいうと、また「ポカン顔」をされた。
ナオスは、仕舞う、という意味で九州では使われるけど、標準語では「直す」の意味になる。

そして、高い場所にあるものを捕ろうとすている女子に、「タワン(届かないなら)かったらビビンコしちゃろか?」
とでもいうものなら、真っ赤な顔して「なにいわはるの、この助兵衛な男さん」ということになる。
何を想像しているかわからんばってん、ぼくたち九州人にとって「ビビンコ」とは肩車のことっちゃん。

小学校高学年になると、北九州の運動会では男子は「川中島」をやる。
所説あるのだが、そのころの北九州では、「騎馬戦」のことを川中島といった。
詩吟をたしなむPTAの役員さんなんかが、♪鞭声粛粛(べんせいしゅくしゅく) 夜河を過る(よるかわをわたる)・・
と吟じた後、戦いが始まるというのがならわしやった。

昨日出生率が80万人を切ったことを書いた。
20年後に彼らが、大人になって、働いてその時の老人を養う。
今は、10人近くの若者が、ひとりの老人を養っている構造。
まだどうにかピラミッド型を保っているようだ。

そのピラミッドが、「川中島」(騎馬戦は、3人でひとりをかかえる)になり、そのうち
「ビビンコ」(1人が1人の老人を肩車)するような時代が見えてきた、ということだ。
ひとりで多くの老人が、若者のサポートではなく、反対にサポートするばい、くらいの気骨が必要な時代か?
ちょっと軽そうな子をビビンコして、スクワットでもやろうかしらん?それよりビビンバでビールのほうがいいかしらん。

16時まで営業!それからそば打ち&UFO焙煎塾‥みそつくりは昨日で終了!

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