「おっぱい」の美味い店がある!

月曜の「卵かけごはん」の時、飲み友のともちゃんが、散歩の達人(北千住×赤羽)をもってきてくれた。
彼女は北千住生まれで、昨年はいっしょに、吞兵衛の聖地・北千住をなんどか梯子した。
「北千住と赤羽は、いろいろ似てるんですよ」とのこと。「じゃ、水曜日にいこう」ということに。

浅草で待ち合わせをして、いざ赤羽へ(銀座線で上野。上野から高崎線で二駅)。
二月に味噌つくりにきている常連さまが、昨年末に「赤羽ホルモン」というお店をオープンさせた。
「亀戸ホルモン」と呼ばれるくらい、亀戸にはホルモン屋が多い。その亀戸の有名店の店長だったくんなので、
いきなりステーキみたいにいきなり繁盛店になった。5時開店で、雨降りにかかわらず、6時についたら、20人くらいはホルモンを炭火で焼きながら、飲んでいた。満席で30名くらい。
電話予約していたのでOK牧場だったばってん。ちなみに、赤羽にはOK横丁、がある。

若いイケメン(3人がフロアー担当。みんな黒いTシャツ姿がきりりとしまって、イケメン)くんのオススメで
タンとか、3種類の部位を頼み、卓上の七輪の網で焼きながら、角のハイボールを飲み始める。
炭火で焼く肉のうまいこと。お客さんは、カップル、家族、女子会?・・・うわさには聞いていたけど、
女子が多いのにびっくり。おじさんとしては、それだけで大満足。ハイボールが3杯目になるころ、ともちゃんが
恥ずかしそうに「メニューに『おっぱい』があるんですけど、頼んでくれませんか?」という。
イケメンくんに「おっぱいくださ~い」というと、厨房の中まで通る声で、「おっぱいお願いします」
とオーダーを通してくれた。いっしょにたのんだ「こぶくろ」は、大好物だけど、これからは「おっぱい」も好物に追加されそうなくらい秀逸だった。お店が満席になったので、席をたってお勘定。

二件目は「駄菓子屋」。創業70年の老舗の「たねや」さん。
70年前は、赤羽も田園地帯で、種を商いしたのがスタートらしい。
懐かしい「たばこのココア」(ショッポーみたいな青いラベルの箱に入っている)とか「ラムネ」(今は、うちの常連さまの
小野塚製菓製)とか、イカ煎餅・・・・などを買って、徘徊する。
東京には「土地」はあるばってん、「土」がなくなり、種も「たねや」もなくなった。
野口 勲さんの「タネが危ない」という本をぜひ読んでほしい。地球温暖化や戦争も大問題だけど、「タネが
危ない」、のです。

3件目は、若いイケメンにいちゃんがやっているスタンドバー。今流行りの小倉生まれの「角打ち風バー」
に入り、「モカ」を注文。
2坪のお店で、昼は珈琲(ハンドドリップで丁寧に淹れてくれる)、夕方からはお酒でも珈琲でもOK牧場。
深煎りの「モカ」を飲みながら、「焙煎は?」と質問。「2坪なので、焙煎機を置けないのです」とのこと。
「UFOだとOK牧場・・・」と言うか言うまいかと悩んだけど・・・黙ってサポロビールを飲んで店を後にした。
「にほんばし作戦」はUFOでもおもしろそうだ(サントリーがオールドを売る時、「にほんばし」・二本の箸を使う・・すしや・和食やなどを責めた。UFOは、角打ちみたいな二本の足で立ち飲みしている場所をねらう・笑)。正確には「にほんあし作戦」か?

3月は今日でおわり。先週あたりから「引っ越し便」のトラックがやたらと目につく。
♪さようなら は わかれの言葉でなくて・・・薬師丸ひろ子さんの歌が聞こえてきそうな季節だ。
明日は天真庵の誕生日。2007年生まれなので16歳、人間でいったら高校生だ。
築78年になる建物と主人は、骨董みたいになってきたばってん・・・・感謝!

なにげに「モヤモヤさまぁ~ず2 – テレビ東京」のHPをのぞいたら、
4月4日(火曜日)に「押上周辺の店」が紹介されるらしいね~?♪あ、かっぽれ かっぽれ・・

♪小倉うまれで玄海育ち

「無法松の一生」のでだし。
不肖のむらも、小倉に生まれ、八幡の春の町で小学校の3年まで暮らし、公害で有名だった城山地区に6年までいて、
6年の春ころ西区の引野という小学校に在籍し、はじめての卒業証書(幼稚園が中退なため)をもらい、高校は
玄海という宗像大社の神域の名前を冠した「宗像高校」を卒業したので、村田英雄さんが、ぼくの人生を歌って
くれ(そんなハズはないけど)ていると、ずっと思っている。

土曜日にわかさんが、そばを手繰りにきた。
天真庵のHPの表紙のイラストを描いてくれた彼女。
雨が降っていたけど、丁寧に袋に包んだ「雲のうえ」の
最新の号が3冊と、一号から5号までがまとまって本になっているものを「読んでください」と。
「雲のうえ」は、北九州を元気にしようと、有志が集まって、「角打ち」とか「祇園祭り」
とか「ヤクザ」(さすがに、それはない)、とか特集記事を編集し、無料で駅とか公共施設に
おいて発信している小雑誌。日本で一番元気になるフリーペーパかもなんばん!

まだコロナの前、「スケッチの会」の時、先生だったわかさんが、「雲のうえ」の9号で「祇園の夏」
というのをくれた。博多祇園ではなく、黒崎(博多・小倉・黒崎・・が福岡の大きな街順)の祇園祭りが
紹介され、表紙にはパンチパーマでサングラスの法被姿の「THE・YAKUZA」そのものの井出達の男が
写っている。ぼくの小さいころは、そんな人たちのテーマパーク?みたいに、近所にもいっぱいいて、
お祭りの時、佳境を迎えると、レンガなんかを投げる姿などが、ままあった。
今でも「地面に手榴弾がうまっている」なんてウワサがあるらしいのを「北九州わるくないっちゃ」
というレゲエをYouTubeで見て知った。

第35号は、「北九州家のいただきます。ごちそうさま」で、アフロおねえさんの稲垣えみ子さんが、
いろんな家をたずね、「さばのぬか炊き」「漬物」などを紹介している。「もうレシピ本はいらない」(稲垣女史の最強のレシピ本)
を書いたリズムで、北九州の家ごはんをおもしろおかしく紹介してくれている。
最初の記事は、「A級小倉・お母さんのまかないカレーライス」  なんのへんてつもないタイトルだと
思う人は不感症っちゃ。「A級小倉」というのは、小倉駅前にある老舗のストリップ劇場。小倉の予備校時代には
よく通った。いろいろな事情で地方からやってくる踊り子さんたちといっしょに食べる「家庭の味」なんやね。
今は「おひとりさま時代」やけど、たとへひとりであっても、「家庭の味」は食べれる。みんな大丈夫!

北九州発の三種の神器が「パンチパーマ」「焼うどん」「競輪」。
でも今では全国区になった立ち飲みの「角打ち」もそうだ。
「鉄の街」として1902年に八幡製鉄ができて、甲乙丙と三交代制度で、溶鉱炉の火をかさない街になった。
春の町は、製鉄所の東門があったところで、門前町にはいっぱい角打ちがあった。「24時間営業」はきっと北九州の専売特許そそのもので、夜勤開けの労働者たちが、一杯飲めるようにと、酒屋さんがお店の隅っこを解放したのが「角打ち」のがはじまり。
給料日には、門のところに「今日はまっすぐ家に帰りましょう」と大きな張り紙があったらしい。

さっそく5月に、横須賀発門司港行きフェリーを予約。小倉に一泊して、火災の憂き目にあった「旦過市場」にいき、
角打ちなどを巡ろうと思う。
「鉄は国家なり」といわれた街も冷え、全盛期は100万人超えの人口もだいぶ減った。
でも反対に、洞海湾も空気もきれいになり、皿倉山の夜景は100万ドル以上の価値になり、老後に住みたい街の
ナンバーワンといわれて久しい。それはなんといっても「人がいいっちゃ」。
「コンビニ兄弟 ―テンダネス門司港こがね村店」(町田そのこ)を読むと、なおいっそうそのあたりがわかる。
全国津々浦々が、限界集落になりそうだけど、やっぱり「人」がいるところは、宝がいっぱいだと思う。感謝。

天空の茶屋敷

天真庵のオリジナルブレンドは、「ほぼぶらじる」。
昭和の名レスラー「ボボブラジル」から命名した。博多出身の「タモリ」さんが、
昔よくネタにしていたけど、九州(とくに博多まわり)では「ボボ」とは、女性のアソコのことや、男と女が
まぐわることを表す言葉。「だから、九州のスポーツ新聞は、彼のことを「ポポブラジル」と書いていた」
ような話を笑いのネタにしていた。力道山あたりの時代のレスラーなので、彼を知っている人は
「アラカン」かあらかた高齢者に限定されてきた。

ときどき、そばを手繰りにこられる九州の先輩がいる。今年73歳になるけど、まだまだバリバリの現役で働いている。
店に入ってくるなり「ボボブラジルば飲みにきたばい」と挨拶する。
「80まで働こうと思って、今年もツバつけちょう会社があると。歩合制に挑戦しようと思っとと~よ」と目を細める。
「ところで、能登休みはホームページに、ノットート(載ってる?・という九州弁)?」と真顔でいう。最近3回くらい使うネタだ。
この先輩は、シャンソンの上原英里さんを紹介してくれた。プッチャリンさんも同級生で何度か連れてきてもらったし、
英里ちゃんのライブに、チャップリンの恰好してジョイントしてくれたこともある。うれしい初耳で、「プッチャリンがくさ、72歳にして初婚の結婚ばしたばい」とのこと。こんど浅草の舞台にでる時、お祝いをもっていこう。
その先輩も芸名をもっている。「しまうまおじさん」。しろうとだけど、玄人はだしの域に達した芸とか、ファッションセンスが
半端でないので、興味のある方は、「インスタ」とかで、ふれあってみてください。
「しまうまおじさん」で検索すると、一番上に「しまうまおじさんのコーディネート一覧 – WEAR」がでてくる。

最近しまうまおじさんがはまっているのが「ゲストハウス巡り」と「キャンプ」
「今度九州に帰ったら、八女(やめ)にいって『天空の茶屋敷』というゲストハウスにとまってきんしゃい」とのこと。
「そういえば、去年買った『隕石粉引きの珈琲カップ』(隕石カップを勝手に命名)よかよ。キャンプ場であれで珈琲飲むと、
まわりにうけるっちゃ」とのこと。
続けて、「ショールームに『USO』ってあるばってん、あれなんね?」と問うので、
「珪藻土焙煎器でUSOではなく、UFO」と答えると、すかさず「ウッソー(USO)」といって笑った。
一事が万事、そんなお笑い芸人みたいな調子の73歳のしまうまおじさん。
「ぐるっと街を散歩してから、『ウッソー』ば、買いにくるけん、とっとーって!」といって、雨の中を散歩にでかけた。

そば打ち教室が終わり、後片付けをしていたらもどってきて、「ウッソーと、生豆を買っていくばい。来月のキャンプが
楽しみになってきた。」といって、「豆が多いほうが、得した気分になるけん」といい、珈琲豆が3つのったUFOを選んだ。
「生豆は、デカマラにする」と、おらぶ。こちらがおらぼーごた気分になったけど、小さな声で「ガテマラですね」
と確認した。これからずっと、しまうまおじさんは「デカマラ」を指名し、贔屓にするに違いない。
キャンプ場で、『ぼぼうらじるがくさ・・』とか『やっぱ、デカマラがよかね』とか言いながら、「USOで焙煎」し、「隕石粉引き珈琲カップ」で珈琲を楽しむ先輩の姿が目に浮かぶ。

昔から「弁護士」「医者」「坊さん」が、持つべき友の三種の神器とされているけど、「しまうまおじさん」
みたいな友達がひとりいると、けっこう人生がおもろくなるばい。昨日も、隣にいた「梅林ガールズ」ふたりが、
しまうまおじさんと仲良くなった。変なおじさんは天国にいってしまったが、このおじさんは、80といわず、
元気に生きていてほしい人だ。感謝。

ボクサー 斎藤司

天真庵のあるうらぶれた十間橋通りを、まっつぐ歩き、明治通りを渡ると、八広になる。
それをまだまっつぐ歩いていくと、鐘ヶ淵の駅。カネボウ発症の場所で、社名もそこから命名した。
その駅の少し手前に、「一力ボクシングジム」がある。ぼくが昔通っていた目白の「ヨネクラボクシングジム」
も、あしたのジョーの「丹下拳闘クラブ」みたいに、古色蒼然たる木造のジムだったけど、一力も同じような
雰囲気を醸し出している。

昨日は、その一力ボクシングジム主催のボクシングが、後楽園ホールで行われた。メインイベントが、斎藤司くん。
何か月か前に、朝日新聞に「ボクサー 斎藤司」のことが写真入りで紹介された。
興味のある方は、ネットで「ボクサー 斎藤司」で検索するとわかる。移籍にからんで裁判になり、7年ほどブランクがあった。
ボクサーの平均活躍年数は、3年。デビュー戦を前にやめる子もたくさんいるし、デビュー戦で負ける子は、ほとんど
が次がない。椅子取りゲームじゃないけど、「負けたらおわり」みたいなところがある。ファイトマネーも他の格闘技よりは高いけど、
命と引き換えにやる試合にしては、安いし、その対価のチケット(自分で売ってお金にする)をもらって、親せき縁者に頭を下げて
まわるのも、リングにあがる前の大事な仕事なのだ。

そんな新聞の記事を読んだ後に、ボクシング好きの医院長がそばを手繰りにきた。「もうお互いに卒業したけど、もう一度
後楽園ホールにいきましょう」とのお誘い。それが、昨日の試合。コロナ禍の前は、ふたりでよく後楽園ホールのリングサイドに座り、ボクシングを観戦した。まるで卒業した母校に呼ばれたみたいな懐かしい気分。チケットの裏には、「マスクの着用」「禁煙所の閉鎖」「応援のぼりの禁止」「選手との握手・ハイタッチ禁止」・・と書いてある。まだまだコロナがあけていない。でも、後楽園ホールに若きボクサーたちを
応援する熱気がもどった。斎藤くんは、3人のパパで、昨日はリングサイドにかわいらしい娘3人がセコンドよろしく大きな声で
「パパ、がんばって」の黄色い声。3回には「パパそろそろ倒して!」の声に館内が沸き、それに答えるように、
左フックが相手のボデーにあたりダウン。みごとなKO勝ちだった。会場の喝采、娘たちの喜び様は、まるで「世界チャンピオン誕生」のようだ。
これまで、日本タイトルマッチや世界戦も観戦してきたけど、昨日の試合は、新しいボクシング歴として脳裏に焼き付いた。感謝。

うんこくさい

昨日の天気予報は、朝から傘マーク。
6時半くらいに、近くのコンビニに朝刊を買いにいく。
能登では、車で15分のところに一番近いコンビニ。だから新聞は
その近くにある町営の温泉にいき、260円(65歳からの特権)で温泉に入った後、
100円の黒酢ジュースを飲みながら、北國新聞と中日新聞を読む。

そんなことを思いながら、新聞を買って帰ろうとすると、おかまのMくんが、
チャリンコにのってやってきて、「あーら にいさん珍しいわね!世間で『あの店(天真庵)は、いつも閉まっているし、夜もやってないし、
ショーウィンドーにはUFOとか、隕石とか飾っていて、まるでオカルトカフェだわ』なんていってるわよ、まったく」
と朝から歯に衣をきせぬ口調でまくしたてる。
「そんなに評判かい?それはありがたいこっちゃね~!」とかわしながら、近くをふたりでフラフラ散歩。

Mくんは、きらきら商店街の裏路地の長屋に住んでいる。ので、朝のキラキラ商店街を歩いていると、
「はとや」という老舗のコッペパン屋を改装して、若い男の子が朝から「モーニング」をやっているお店の前へ・・。
「ねえ モーニング食べていかない?」とM。「金もってるの?」と質問すると、「にいさんがもってるので大丈夫」
といつもの調子。
カウンターに並んで座って、「アンバター」のコッペパンと珈琲を二人分注文した。ふたりで700円。
「一回入ってみたかったの・・・」とM。
「モーニングが350円だから、いつでもこれるじゃん」と言うと、
「私には高級店」といって屈託なく笑う。

しばらく談論風発していくにつれ、Mくんのテンションが佳境を迎え、「先週、ヤフオクで
『うんこくさい』の抹茶茶わんを買ったわよ」と叫んだ。カウンターには、おばあちゃんと娘さんとおぼしき二人が
モーニングを食べている。その場にはNGの言葉。「バカ、本名をいえ!上田?なんか、そんな名前の陶芸家だったろう?」
というと、「そうそう、そんな名前だったわね」とコソコソ声で笑う。
「いくらで落とした」と聞くと、「安かったの。3万円ちょっと」とのこと。(確かにそれは安い)
「長屋の貧乏暮らし」と自称しているわりに、相変わらず、掛け軸とか、骨董に目がない。

さっき、その陶芸家の本名を調べようと、「うんこくさい 陶芸家」といれて検索すると、何年か前に書いた
ぼくのブログがでてきた(笑) しかもそこにも雲谷斎愚朗(うんこくさい・ぐろう)としか書かれていなかった。
朝から、TPOを逸脱した「うんこくさい話」だけど、昨今の「キナくさい話」よりは、笑える話かな?感謝!

おでん 熱燗 昔の女

そんなタイトルのエッセー本がある。ときどき読み返す( 諸井 薫 (著))

小学校のころ、不思議な塾が近くにあった。
塾頭は「島津先生」 きっとルーツは鹿児島で、薩摩藩独特の郷中教育(ごちゅうきょういく  ボーイスカウトのモデルになった)の流れをくんでいた。
畳の部屋に、座卓をおいて、そこで座って勉強した。いわゆる「寺子屋机」
今では考えられないけど、ビンタは男女問わず当たり前、けっこうきびしい塾だった。
竹馬の友で、衆議院議員の「すえくん」(末松義規くん)」も、机を並べ、ビンタを
くらった仲間のひとりだ。塾頭の長男・しまずくんは、ときどき天真庵にそばを手繰りにくる(彼が一学年下だけど、ときどき一緒に勉強したりするのも郷中教育のなごり。今の文科省にそんな知恵がない?)。

塾までは家から、5分ほど歩いた。
道の途中に、伊藤酒店(そこの伊藤くんは、からふねや時代に下鴨店の店長をした)があり、
向かいに、小さな雑貨屋さんがあった。その雑貨屋の片隅に「おでん鍋」があって、
そこで10円の「ごぼてん」を食べるのが、唯一無二の至福時間だった。中学になってからは、
九州ルールで酒も飲めるようになり、ときどき、伊藤酒店の角打ちで、おでんをつまみに
酒をすこし飲んだりした。時効だけど。

おでんは熊本の「田楽」がルーツだという有力説。こんにゃくやイモを煮て、
点前味噌をつけて食べた。それが江戸にいって「関東煮」になり、関東大震災の時、大阪あたり
に移住した人たちが、昆布の味などに工夫をして、極上の「おでん」になった。
京都にいるころは、大学の近くの「シャンクレール」という有名なジャズ喫茶
にいりびたり、ジャズを聴き、その後は50mくら「下った」ところにある「安兵衛」という
おでんやで飲むのが日常だった。まだ京都のおでんやに「ころ」(クジラの脂身)があったころだ。
バイト代がでて懐が温かい時は、コロと蛸で、名誉冠という伏見の女酒を燗にしてもらって、カウンターに
10本くらい空いた徳利を並べた。友達の飯田君も同じくらい飲んだので、ふたりで飲むと、安兵衛のカウンターには20本の
空徳利が並んだ。やつは今、上場会社の社長をしていて、大阪から上京する時は、
そば前とそばを手繰っていかれる。もう10本は飲めないばってん。

昨日は、ええかげんな京都の左右の道を覚える童歌を紹介した。
♪あねさん ろっかく たこにしき(昨日は あねさん ろっかい タコとした  と書いた 北斎の春画風?)
タコは蛸薬師(たこやくし)通りのこと。京都の女子が好きなものは「芋たこなんきん」というみっつが鉄則で、
それを知らない男は、ヤボ以下でもてへん(知ってるだけももてへんけど)。
新京極の蛸薬師通のところに、蛸薬師堂 永福寺がある。蛸薬師通りの名前のルーツ。
昔母思いの坊さんが、生きたたこを母に食わせた美談が残っていて、今でも絵馬には蛸がかいてあったり、
きんぺんの居酒屋に「蛸八」なんていうのがあったりする。京女のタコ大好きのルーツもそこかもなんばん。おおきに(感謝)。

今日は旗日だけど、12時から18時までの通常営業。それから二階で「ゆるゆるヨガ」

京都喫茶店クロニクル

「京都喫茶店クロニクル」という本を、古本屋で見つけた。
淡交社という、お茶の本を中心につくっている本屋さん。
著者は、立命館出身の子。

京都で最初にできた「わびすけ」という喫茶店から、最近のカフェまで、「街中が喫茶店」
のような京都の喫茶店の今昔を、上手に紹介されていた。
もちろん、ぼくがいた「からふねや」もでている。

最近、東京の喫茶店(カフェ・・・違いがよくわからないけど・・)が、「二店舗目を京都」
というのが静かなブームみたいだ。ちょっと「天真庵 出町柳店」なんていうのを
作ってもいいかな?と思ったりするけど、「いくつやねん」という外野の声も聞こえてきそうで
声には出してへん。

先日近くの「酔香」の主人がきた時、「こんどまた京都の飲み屋を梯子しよう」と約束した。
彼も「りっちゃん」と呼ばれた時代の立命健司だ。
♪まるたけ えびす に おしあげて
♪あねさん ろっかい タコとした・・・ちょっと捏造ぎみだけど(はっきりいって、捏造なので、
けっして覚えないように・・)、碁盤の目になっている小道を
若いころに4年住んで(ぼくは勉強が好きで6年住んだ)わらべ歌にして覚えた街は、還暦が過ぎ
寄る年波で、足がおぼつかなくなっても、「上ったり」「下ったり」しながら歩ける自身があるし、
昔とった杵柄よろしく、祇園や先斗町の奥座敷あたりにも千鳥足で歩ける与力も残っているようにも思う。
ぜひ、また「天一」から始まる「ぶらり京都」をやってみたくなった。

今日は「卵かけごはん」。最初にきたお客さまは生粋の「喫茶店マニア」で、この本を紹介したら、
ごはんを食べる手をとめて読んでいたので、「来週までどうぞ」と御貸しした。「卵かけごはん」を
始めたのが311のあった2011年の春。それからこっち、雨が降ろうが、槍が降ろうが、北朝鮮からミサイル
が降ってこよようが、一日とかかさず、卵かけごはんを食べにきて、〆の「ほぼぶらじる」を喫して会社(押上で途中下車
して徒歩12分の弊店にきてくれている)に出陣されている。「お客様は神様です」なんて、これっぽっちも思っていない風袋の
わがまま気ままな天真庵だけど、この子だけは、神様かもなんばん?と思ったりする。感謝。

春は女性たちが、ハルメク!

「ハルメク」、という高齢の女性をターゲットにした雑誌が人気だ。
筆子さんも定期購読している。最新号に、木村セツさんが紹介されていた。
90歳から新聞紙をつかった「ちぎり絵」をはじめ、めきめきと才能を開花させ、
個展をやったり、ツイッターで作品を紹介したり、の元気なばあちゃん。94歳。

3月10日に、母が91になった。3年前から施設で「ちぎり絵」をやっている。
本人が「いいね」と思うものを、ときどき東京にもってきて、額装しておくり返している。
91の誕生日プレゼントの中に、「木村セツさんの本」を入れておくった。
母から電話で「刺激になるばい。ちょっと彼女の才能にはおよばんばってん、創作の
意欲が沸いてきたばい。まだまだ死ねんちゃ」とのこと。まだまだファイティング母だ(昔、ファイティング原田、という世界チャンピオン
がいた)。

今ブログを書いているPCの隣に、「ハルメク」と「元気に輝く70代を迎える」(TJmook 宝島社)が置いてある。
このmookも、60代の女性をターゲットにした本で、筆子さんも昨年大きく取り上げられた。
今回は、表紙が竹下景子さんで、輝く70代を迎えるために、日ごろから習慣化しているもの、をあれこれ
特集していて、まだ読んでいないけど、筆子さんのコメントも数か所のっているらしい。

今朝の朝日新聞には、66歳から漫才師になったという博多の女性が紹介されていた。
「66歳から漫才師になっても、よかろうもん」という記事。
思わず、「よかよか」と新聞に向かってつぶやいた。

「生まれつきの天才」とかいうフレーズをパンフに書いて平気の平左みたいな顔した若い芸術家がいた。
もらった瞬間に「読んだ瞬間に、はずかしいわ」と答えた。それから天真庵にこなくなったけど・・(笑)

カリスマと自分でいったり、ちょっとマスコミなどに取り上げれて有頂天になる輩が多い昨今。
でも、絵や書が下手だろうが、少し音程が狂っていようが、一生懸命に生きている人は、みな芸術家だと思う。
「生きてる」そのものが芸術だ。
そして、この星で一番の芸術は「ひととひとが出会うこと」ではないか、とずっと思っている。

今日は12時から16時まで営業。
それから「そば打ち教室」「UFO焙煎塾」  今日は「金継ぎ教室」(金冷法を学ぶ・・ウソ。器のかけたのを金継ぎする教室)

明日の朝は「卵かけごはん」 週に一度、月曜の朝だけ、能登の珪藻土かまどで、ごはんを炊く。
6合炊いて、完売することもあるけど、こころの中で「あまってほしい」と願いながらやっておりまする(笑)

昨年の6月に震度6の地震で窯が崩壊した「七輪屋さん」が、クラウドファンディングなどで、窯を再建して、
昨日新しい窯で七輪を出荷した、という連絡があった。
社長以下、スタッフも70路を謳歌されていて、毎月いくたびに元気をもらえる。
天真庵の器を創ってくれている久保さんも70代。時々いっしょにボクシングを
観戦にいく医院長も70代には思えないくらい元気だ。そのうちリングにあがりそう!
年ではなく、人生は「こころひとつのおきどころ」かもなんばん。感謝。

ちゃぶ台 囲炉裏 茶のみ時間

昨日、天真庵で使っていた「ちゃぶ台」を、近所のカフェの美人ママさんに
譲った。南條先生の個展や、いろいろなアーティストたちが集まる時に、みんなで膝を突き合わせ
〇(わ)にたって談論風発しながら茶やおちゃけを飲んだ思い出がいっぱい。バトンタッチされて、
また新天地でも「素敵」がいっぱいできますように・・
ひとりでお茶を飲むにもよし、少しあらたまって、宝瓶(ほうひん)なんかで玉露を入れたりするにもいいし、
織田流煎茶道では、「ちゃぶ台点前」「紅茶点前」なんていうのもある。
4畳半くらいの畳の間に、ちゃぶ台があり、土瓶と普段使いの茶わん、
そして昔風のパッチワーク風の薄い座布団でも敷いてあると、そこは「天守閣」だと思う。

能登の家には、立派な座布団が30?それ以上押し入れにつまっている。冠婚葬祭を家でやってきたので、
陶器の器、漆器、お膳といっしょに、「もてなしの必需品」。中には、法事の時に、えらい坊さんがお経を
あげる時に使うような絢爛豪華なザブもある(笑)
昔は「お客様用」という特別なモノがいっぱいあった。捨てるにはもったいないし、どうしたもんだか、と
日乾するたびに思う。座布団は「煎餅布団」みたく、貧乏長屋にあったようなもののほうが、簡素でいい。

夕方、お土産の蕗の薹などをもって、押上文庫に・・・
二階で、「囲炉裏風」を作る計画中だと聞いて、先月洗い張りで使っていた板をプレゼントした。
近所の経師屋さんからもらったものだから、洗い張りではなくて、和紙の裏打ちに使っていたものだと思う。
長いこと職人さんが使い込んだ板というのも、ちゃぶ台といっしょで、魂がこもっていて素敵だ。
文庫ちゃんにも「うすい座布団がポイント」であることを力説。さて、どんな囲炉裏と座布団ができあがるか、
お手並み拝見だ。

帰りにキラキラ橘商店街を歩いていたら、新しいカフェができていて「宇宙人歓迎」のステッカーが
はってあった。200円で売ってもいた。3月末まで限定のカフェで、二階は「サウナ」と書いてある。一階がカフェで、八女茶が200円。
へんなカフェだけ(うちもひとのことは言えないけど)ど、八女茶を使うところにセンスが光る。入らなかったけど、主人の頭も、王子と同じように光っているかもなんばん?似た雰囲気を感じた。
サウナといえば、原点みたいな蒸し風呂が京都の八瀬というところにある。窯風呂と八瀬童子という天皇家の葬儀に関係している不思議な場所だ。いくとこの世とは違う空気がただよっている。大好きな場所だ。
出町柳から「叡山電車」にのっていけるとこ。
蒸し風呂で男女がいっしょに汗をかいた後に、暖かい茶を飲む。日本の茶道の原点は、そこだ、
という説がある。学生時代は松ヶ崎に住んでいて、仕事がら車をもっていたので、よくドライブしながら八瀬にいって
蒸し風呂に入った。今は能登の家の近くに「ヤセの断崖」がある。これも不思議な因果応報だ。天恩感謝。

明日から通常営業

昨日の夜東京についた。
いつもより車がすいていたように思う。
雨の予想があったので、前日に「藤瀬霊水」を汲み、
当日は、和倉温泉の「総湯」に入り、そのまま高速で
帰ってきたので、いつもより早くついた。

けさは、能登で調達した「ふき」「くるみ」などで、ふき味噌やくるみ味噌を
つくったり、いつもの仕込みをしたり・・・・留守中お世話になった近所の人に、
「手前味噌料理」をくばる。

冬眠から覚めた熊が最初にふきのとうを食べる・・・そんな話がある。
ぼくたち人間も春は、ふきとか山菜の「えぐみ」を体が欲しがるし、できたら
そげなものを口に入れるといい。

でも、先週近くの山の中を散策していた時、のこった雪のところから、蕗の薹がでていた姿を見て
「春のおとずれ前に、雪をかきわけて、地上にでようとする「尊い命」を、ぼくたち動物が、ありがたく頂戴している」
理屈が体でわかった。都会のスーパーや、料理屋で「旬ですよ!」といわれてて買っていたころには、知り得ない体験をした。

だから、えぐみを消すために、水にさらしたり、香りの強いごま油でゆがいたりするのをひかえて、
なるべく「野にあるように」、料理をした。
ふき味噌で一合、くるみ味噌で一合・・・味噌料理に使う味噌が、味噌の前に五臓六腑に染みわたった。

夜は「橋本食堂」のおばさんにもらった「天かす」で、「なべ焼きうどん」をつくった。
これで3合。今日はすでに5合飲んだ計算になる。

立って半畳 寝て一畳 どんなに飲んでも2合半・・・・・二合半も多く飲んだ!反省!