3年前に、この世から迷い込んだみたいに、大分の杵築の「カテリーナの森」にたどり着き、
手前味噌みたいな珈琲を飲みながら、「いつか東京で・・」と約束したbaobabのコンサート
が青山であった。出かけ際に、そんな手前珈琲「ほぼブラジル」を手土産にしようと、用意していたら、
「小さな会場でのライブじゃないから、手渡しできないよ」といわれる。でももっていく。
チケットの手配を彼女に任せていたので、「青山」とだけきいていたのだが、「草月ホール」
が会場だった。
「池坊」「草月流」「小原流」が華道の三大流派。煎茶道は、「織田流」(わが流派も青山に拠点)が筆頭に(ウソ)・・・2000年前後に、南條先生や久保さんの作品展をニューヨークで企画した時、現地の「草月」の人たちが、久保さんの黄瀬戸や織部の花器に花を投げ入れてくれたことを思い出す。青山一丁目で降りて、草月ホールにいったら、人がずら~と並んでいる。
土日の二日間のコンサートが、丹下健三が設計した526人のホールを満席にした。1000人超え!
コロナ禍で、音楽家たちは、活動の場所を失い、大変な思いで活動しておられる。でも彼らは、不思議の森の中で、鳥のさえずりや、
木々の移ろいなどに心をよせ、楽器をつくり、田畑をやりながら、音楽も食も「ほぼ自給自足」の自然の営みの流れに身をよせて
おられる。目を閉じて、彼らの音を聴いていると、森の精や、虫のすだき、風の音が聴こえてくるようだ。
コンサートが終わり、余韻を楽しみながら、青山通りを歩く。「コンプス」があったビルの前で立ち止まって黙祷。
11月の28日に75歳で旅立った嶋倉社長と仕事をした場所。昭和58年に「パソコンらくらくレッスン」
というPCの入門ソフトを、コンプスにつくってもらった。独立してはじめてのソフトだったけど、日経パソコンの「教育ソウト」
のランキングで3年間一位やった。いろいろな技術者と触れ合ってきたけど、彼は類まれな天才だった。嶋倉昭男・金沢生まれ。
二番目にだしたデーターコンバータも、一流企業や国の研究機関などへ飛ぶように売れた。「横車」という名前だったけど、「UFO」にすれば、3倍くらい売れたかもなんばん(笑)大塚商会の技術顧問をしながら、いろんなものをつくり、マージャンも釣りもプロレベルだった。
突然「野村君、鯛が釣れたんで、おくった」と電話がかかってきて、翌日に大きな鯛がくるみたいな感じだった。
今でも厨房に、寒ブリをらくらく捌ける大きな出刃が研いであるのは、そんな流れが続いていた証拠。
ふたりでよく飲んだ青山のお店に顔をだして、「ほぼブラジル」を手渡し、故人を忍んだ。
コンプス、織田流煎茶道、骨董通り・・・青山というのは、実に縁のあるところだ。
今日は16時まで営業。それから「そば打ち教室」&「UFO焙煎塾」
明日の朝は、卵かけごはん。そばもお米も「新」の冠がつく季節になった。感謝。