そばもん

ときどき、奥秩父のおばあさんが打つそばやにいく。
お店には、店主のおばあちゃんがそばを打っている写真が飾ってある。
昔は、「そば打ち」は花嫁修業のひとつであり、そば道具は「花嫁道具」だった。
そんな雰囲気が漂っているモノクロ写真。

秩父セメント、というぐらいで、界隈の山は石灰質でゴツゴツした山があり、冬枯れの里山の風景も
日本人の原風景みたいで、気持ちがいい。そんな秩父に「武甲山」という名山があり、酒の名前にもなっている。
ぼくは、そのそばやで、そばを注文し、そば前に、豆腐で「武甲」をぬる燗で飲むのが大好きだ。
いつも三合ほど飲む。窓から見える枯れた木々の上を、ヤマガラやシジュウカラたちが飛び回ったりする姿を見ながら、
〆の蕎麦を手繰る。「そばやで一献」という幸せに勝る幸せって何だろう?というくらい満足する。

そのそばやから車で20分くらい走ると、小さな湯宿がある。日本百名山のひとつ、両神山の懐にあり、
そこの湯につかっていると、この世なのかあの世なのか区別がつかないような境地になる。
ちなみに、両神山、三峰山、武甲山をあわせて「秩父三山」という 。
その宿の玄関のソファで、珈琲を飲みながら、本箱に揃ってある「そばもん」というマンガ本を読む
のも至福の時間だ。ひさしぶりに「第一巻」を読み直した。余命いくばくもないおばあさんが、かつて
よくいったそばやにそばの出前を頼むお話。もう咀嚼も嚥下もできず、「ただ見るだけ」のそば。
でも「見るだけでわかる」ばあちゃんの、そばの話が秀逸だ。その話に「そば切り」の本質がぜんぶ入り。

昨日は、ベテランのそばもんがそばを打ちにきた。
アマチュアとしては、そこそこのそばを打つ。
どの世界もそうだけど、「これでいい」と自分に及第点をつけた時点で、成長がとまり、高みを目指さなくなる。
せっかく山がそこにあるなら、頂上を目指して登っていくほうが、楽しいのではないか、と自分は思う。
昨日は、師匠の高橋さんから譲り受けた包丁を、彼に貸した。
駒板をかする音、そばを切る音が、なんとなく明るい未来を奏でているような音に聞こえたが、本人に
届いたかは、また別問題ではある。みんなそれぞれ、自分のためにそれなりの蕎麦を打てばよいのだ。
ただし、茶道・華道・そば道・珈琲道・・・「道具」というものは「道」がつく世界に必ず「具」わっている。感謝。