味噌つくり、も後半戦

先週の日曜日あたりが、ちょうど50人ちょい、の醸し組が、今年の味噌を作り終え、
後半の50人ちょいの人たちの味噌作りが始まった。
毎朝、寸胴の中に浸けた大豆を石油ストーブやペレットストーブの上にのせ、ゆっくり
ことことの煮ていく。やさしい大豆が煮える香りの中で、そばを打つのもいいもんだ。

諸説あるけど、もともと蕎麦は精進料理のひとつとして、中国から禅や茶と同じ経路で
伝わってきた、という話がある。「寺方蕎麦」と呼ばれ、どうやら、名古屋とか中部地方のお寺に
伝わったらしい。長屋に「そば切り ふう助」という蕎麦屋がある。「ダメから始める中国語」!
のまいこ先生が、そこの主人の嫁になった。結婚披露宴の時、「ひとこと」を頼まれ、
「討ち入りの前夜、蕎麦屋の二階で最後の酒を飲んだり、歴史がかわる時には、そばやが舞台に
なってきたけど、そばやに討ち入ったような今回の話は、たぐいまれな歴史の一ページ・・・」
そんなスピーチをした。後で、ふ~助さんに聞くと、「ぼくもひとめぼれでした」とのこと。
「ごちそうさま」である。

名古屋と金沢は、とても縁が深い。石川の人は、「北國新聞」か「北陸中日新聞」を読む。
最初は?と思った。今でも石川の人は、なにかといっては「前田利家が好んだ・・・」とかいう話をする。
お茶や花の文化、それにまつわるお菓子や、茶器、花器などを、生活の中に入れているのも、前田利家さま
の影響だ。能登の家を建てた施主さんも、お茶を嗜み、「前田利家好みの和室」にこだわって、大工や左官さん
を選んだ、という話だった。

そして、名古屋と石川の共通候がもうひとつ。蕎麦屋の屋号に「そば切り なんやら」といって、
「そば切り」を冠にする名店が多い。
江戸がそば切りのルーツだと、江戸っ子気取りの輩が、鼻たかだかに通ぶったりするけど、どうも
、じゃなくて、対馬から九州に仏教と同じルートで渡り、めんどくさがりの九州には根付かず、
中部あたりの「寺」で精進料理のように芽生えた。古い蕎麦の文献を読むと、そのころは
大豆の煮汁に、醤油を入れて、「そば切り」にぶっかけて、食べていたようだ。
道元さんが、京都から福井に移住して永平寺を建立し、あちらで、ぶっかけの「越前そば」が生まれたのも、
そんな原点に焦点をあてれば「なるほど」という話になる。

今回、無駄のない縁で繋がれた能登の「地球知足」さんの大豆の煮汁に「かえし」(そばやの汁の肝心醤油)を入れ、
そばにぶっかけて食べてみた。「土を喰らう」ということは、こんな味なんだ、を痛感。
へんな「こだわり」を捨て、いろいろなモノやコトに挑戦すると、新しい世界が広がってくる。
今日は土曜日なので、16時まで・・・それから、一階では「蕎麦打ち」と「味噌つくり」。二階では
「ゆるゆるヨガ」。

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