昨日のお昼過ぎ、亀戸の骨董屋さんが蕎麦を手繰りにきた。いつものように
友達のお医者さんといっしょに・・・
そのお医者さんは、くるなり「あ、元気でよかった」という。ぼくの顔を見てではなく、
お店の柱時計を見て安堵しておられる。
彼はな世界的にも有名な外科医なのだが、時計を治す技術も神の手をもつレベル。
天は二物を与えず、に反する人だ。建築家の白井晟一翁が生涯アトリエにおいていたその時計を
ときどき訪問診断してくれているのだ。
「だって、人間は手術するとき、痛いだの、血がでただの・・・うるさいし、治してあげても
あまり喜んだり、感謝したりしないでしょ。それに比べて時計は、文句もいわず、じっとしていてくれるし、
なおったら、こうやってカチカチと幸せな音で感謝してくれるでしょ」というのが口癖。
その先生が頭に、寒い国の人がかぶる動物毛のフワフワな帽子をかぶっていた。
「素敵な防止ですね」と褒めると、「こないだ孫がきて、『じいちゃん、かつらにしたの?』と言われた」
といって笑った。続いて「昨日は散歩していて、見知らぬ外人に『ソレハ、ジブンノケデスカ?』と英語でいわれた」
といって、苦笑した。「どこで買ったの?」と質問したら、「日本橋三越でちゃんと買ったミンクのキャップなんだけど、
ギャップを感じるよ」といって、カカっと大笑いしながら、蕎麦を手繰っている。
合鹿椀(ごうろくわん)の中の「花巻そば」を手繰ったじぶんに、新しい備前の片口の珈琲サーバーで珈琲を淹れていると、
カウンターの向こうでじーっと見ている。「自分で淹れると、こんな風にならないよな・・・」とかいいながら、
膨れた珈琲ドームに二回目のお湯を注いでいると、「ぼくは、珈琲ドームができてから一分は蒸らすけど、マスターは
10秒か20秒だな・・・」とか、ひとりごとのようなぶつぶつ・・も毎度のことだ。
そして、供された珈琲を一口飲んで「あれ、まったく珈琲の味がかわりましたね」と👀を丸くしていった。
能登七輪で炭火で焙煎をしはじめた、と説明すると、「そうか、そんな手があったか」といって、不思議な三越で買った
帽子の下のおでこを、神の手でポンとたたいた。
どこみても、パリティー(平均的)な人ばかりで、酒の味も、珈琲の味も、食べ物も、可もなく不可もなくが
流行っているけど、ときどき、普通な会話をしていても、くすっと笑いたくなるような人と、珈琲を飲みながら
談論風発している時間が「懐かしいな」と思える今日このごろ。感謝。