一月はいく、二月は逃げる、の一月がいき、今日から逃げ足の速い二月がスタート。
トイレの日めくり「真民カレンダー」が、一日「念ずれば花ひらく」になった。
昨日の夕方、いつものように味噌作りをしていたら、画家のナホちゃんがカウンターにすわって、
笑いながら、右手をぐるぐるまわして、「あれお願いします」とのこと。鍋で木べらをつかって、ぐるぐるまわして、
そばがきをつくり、ぜんざいよろしく小豆汁にうかべる「そばがきぜんざい」のことだ。
昔はどこのそばやでも「そばがき」がメニューにのっていたが、最近はすくなくなった。そばやで一献、
というスタイルも今は昔になったことや、そばやの主人が高齢化して、息をとめて一気呵成にそばがきを
つくる、ということが重荷になった、のかも知れない。そばがきをオリーブオイルに塩いれて、つけながら食べる
とワインが、グビグビ音たてながら、喉元をすぎるハメになる。
ぼくも65歳になり、高齢者の仲間入りをはたしたのであ~るけれど、そばがきは、がきのころ
からの大好物で、酒肴としても最高峰のものだと思っているので、今でもメニューに「そばがき」
と「そばがきぜんざい」を消さずに、おいてます。そばの契約農家さん(そばやも経営)に、わざわざ
そばがき用の蕎麦粉を御願いしております。
その後、ギタリストのショーくんが、そば前を飲(や)りにきた。つきだしに高菜をだしたら、
「この葉っぱ美味い!」とおらぶ(叫ぶ)ので、「タカナといいなさい」と言った。
おかわりを所望する時、「またさっきのハッパください」というので、黄瀬戸の小皿にのせて、
「九州ではタカナというとよ」といってだした。
その後、陶芸家の愛子さん、ゆみちゃんがきて、そば前のお酒を所望され、「居酒屋兆治」よろしく、
カウンターの中で、テキパキオヤジ。〆のそばは、三人とも「花巻」。
江戸の老舗のそばやの人気メニュー。暖かいそばに、刻んだ海苔を散らし、ふたをして供する。
そのふたをとった瞬間に、磯の香りがただよってくる、という仕掛けの風流なそば。
天真庵では、能登に昔から伝わる漆器の「合鹿椀」(ごうろくわん)にいれ、海苔も能登の「岩のり」
を使っている。
のりで一合、そばがなくなった汁で一合、というのが左党の卒業証書みたいなやつだ。
花巻というのは、江戸時代の花街にあったそばやから命名された、という説がある。
色を売る私娼たちのことを、江戸では夜鷹(よたか)といい、京都は辻君(つじきみ)なんて呼ばれた。それを蕎麦屋のお店にすることもあった。花街の夜鷹には、主に貧しい家の女性が多く、遠く離れた故郷の海を思い出すように、花巻そばを手繰ったのではなかろうかしらん。
もうひとり、近所の女性も加わり、花のある女子たちの飲み姿を垣間見ながら、そんなことを思った。
そんな時間の流れの中、「流れ」を頂戴しながら、少しはやい花見をしたような夜だった。感謝。