白井晟一ワールド・・本日の「日曜美術館」で!

先週の日曜日の朝、ブログを書いていたら、陶芸家の久保さんからショートメールが
きて、「日曜美術館で白井さんやってますよ」とのこと。PCを切り替えて、見た。
今日の夜8時から再放送がある。世界的な建築家だけど、あまり日本人に知られていない
不思議な人の孤高の人生と作品が紹介される。昨年末から、白井さんが設計した渋谷の
松濤美術館で「白井晟一入門」をやっている。ぼくは、白井さんの嫡男・ 白井昱磨さんから
招待状がきたので、初日にいくことができた。先週文庫ちゃんがいった時には、オミクロンの猛威で
人数制限され、予約が必要だしずっと満席。・・今日再放送されるので、今回の展覧会
を見るのは大変だと思うばってん、まずは「テレビ」でご覧あれ。。

39歳になった時、ちゃねって「これからギャラリーをやりなさい」という天の声がした。
その前に、自分の会社をふたつ経営していて、知り合いの上場会社から「もうひとつ会社を上場させたいので
手伝ってくんない」といわれ、小伝馬町に会社をつくって、そこの社長をやっていたことがある。
ぼく以外は優秀な社員?だったので、朝8時に彼らを集め中村天風式の体操をいっしょにし(みんないやがっていたけど)、
30分くらいミーティングをした後、ぼくは外にでて、好きなこと(もちろん営業みたいなこと?)をやって
一年で年商10億近い売り上げになったけど、親会社の社長と意見があわず、ケンカ別れをした。
その一年で、銀座や日本橋の骨董屋や、デパートの展示会などに毎日のようにいっていたのが、すこし「目利き」
になったのかもなんばん。界隈のそばやで「かもなんばん」もよく喰った。

ある日、江古田にあった白井さんのアトリエ「虚白庵」(こはくかん)に招かれ、 白井昱磨さん
と初めてあった。その日の午後は、銀座で陶展をやっていた久保さんと出会った。
四半世紀も前の「ある一日のものがたり」だけど、それからこっち、ふたりと濃厚接触以上
の関係が続いている。

天真庵の一階には、古い柱時計がある。 白井昱磨さんが祝いにもってきてくれた。
白井晟一さんが生前愛用していたもの。その横に「生」という書が飾ってある。それも
白井晟一翁の書だ。そのあたりを照らすガラスのランプも、その時にいただいたもの・・・
そんなこともあって、時々白井さんのファンの方たちが珈琲を飲みにきたり、後輩にあたる京都工芸繊維大学の
建築家卒の人たちが「白井さんを偲ぶ会」をやってくれたりした。

ぼくのそばの師匠は、「翁」の高橋邦弘さん。 白井昱磨さんとは、目白の小学校からの同窓で、
目白の翁を広島の山奥に移す時、白井さんが自宅とそば道場を設計し、そこに白井晟一さんの「達磨」
という額を飾った。それを師匠が気にいって、全国的に知られた「翁」を「達磨」に改名したエピソードが
ある。そして、ある日 白井昱磨さんが池袋天真庵に来た時、「これからのギャラリーのオーナーは蕎麦が打て
たほうがいい」と・・そんな話がまとまり、「小倉駅のうどん」が大好物な「うどんもん」が、鬼の大特訓を受け、
「そばもん」になった。

それからこっち、毎朝「生」という字を見ながら、貧乏という名ののし棒を使い、「生(き)そば」を打ち、
珈琲の「生豆」を、能登七輪で炭焼き焙煎し、花を「生け」、生のアーチストたちと触れ合い、「生演奏(ライブ)」
をやったり、そこで出会った人たちが結婚し、新しい命が「誕生」したり、シンコロ時代になっても、二月になると、
大豆に「生」の麹をつかって味噌をつくったりしながら、「生」きてきた。正確には、「生かされている」に感謝する日々。

最近、久保さんがつくってくれた珈琲のサーバーが大人気である。
秘密だけど、白井さんの建築からヒントを得たフォルムらしい。ギリシャ建築の柱みたいだ!
そのサーバーに、コーノでもカリタやメリタでも、キャンプ用のとぐろを巻いたサーバーでも
いい・・お気にいりの道具をのせ、珈琲を淹れて飲むと、至福の珈琲時間が味わえる。
ついでにいえば「ほぼブラジルの目指す味」というのも、白井晟一さんが、 昱磨さんに
「珈琲の淹れ方を伝授する」と言われた時に発したコツを、少しアレンジしたものだ(笑)

のみ口 ひと口めが すっきり
人肌に さめても まったり
あと口 余韻が  一時間