東京からほかの地に移り住む人が増加・・

そげな記事が今朝の新聞にのっていた。
シンコロで在宅、テレワークが広がり、近郊の千葉や埼玉あたりに住み、
ときどき東京の会社・・・最初はそんな流れだったみたいだが、最近は大分とか徳島とか
そげな離れた場所に移住する人が増えているらしい。
能登も例外じゃなく、ぼくらみたいに二カ所暮らしをする人が、「能登」という地元の
雑誌に紹介されていた。昨年の秋には、東京と能登で作陶する陶芸家が紹介されていた。
角伊三郎さんがアトリエを構えていた輪島でやっておられるので、我が家からもほど近い。
年末に年越し蕎麦を打ちにきたお弟子様が、その女性陶芸家に陶芸を教えてもらっているらしい。
完全に移住する人たちも、少しづつ増えているようだ。

毎日、ニ三人(にさん  にじゅうさんではない)の人が味噌つくりにくる。昨年の味噌をあけた話、
能登の塩にはまっている話、いろんなひとに味噌をお裾分けする話・・・手前味噌の四方山話に花が咲く。

昨日は近所でジュエリーのデザイン・制作をやっているまーくんの味噌つくり。なかなか売れっ子で、
隕石を使ったジュエリーも売れ始めているようだ。帰り際に、「忙しすぎて、ゆっくり家で酒飲みたい
のに、そんな時間もとれない・・ボリボリ」みたいに、女の子の見紛うような長い髪をかいた。
「何が好きなん?」と質問したら、「日本酒です」と答えたので、「酒器を一生ものにしたら、時間が
なくても、独酌の時間が至福になるばい」と教えた。

彼のアトリエの前の住人の「ぬすみぐいくん」たちや、
昨年メジャーになって世田谷に引っ越した「おさけんたろう」たちも、久保さんの酒器や珈琲カップを使い始めて、くらし
が「ゆたか」になり、それをインスタとか展示会とか、ふれあう人たちに伝授しながら、「時のひと」
として活躍されている。服をつくる人は、服だけつくっていてもアカン。衣食住や、「くらしかた」もっと
いえば「生き方」がかっこよく、そんな「ありよう」に賛同するような人に優美に伝わっていく、というか
そんな感じかな。資本主義もマーケティングも、昔のままではだめやね。
彼らが30代になったけど、その下の世代の20代の中あたりのお客さんが、今回の味噌作りに、彼らの紹介で
あまたやってくる予定。まーくんのお客さんも、同じように、そんな「流れ」で天真庵にやってくる。

ということで、味噌の後は「骨董講座」
「昔から左党のあこがれは・・・・備前(びぜん)の徳利に斑唐津(まだらからつ)、折敷(おしき)は根来(ねごろ)・・
それに織部の向付(むこうずけ)・・・」を、二階の倉庫からもってきて教えた。
「これ、売ってもらえるんですか?」と、恋をする女の子のように聞くので、「10年はやいな・・・これぜんぶで
100万以上になるよ」と答えたら、びっくりしていた。もちろんぼくは骨董屋ではないので、売らないけど、
値打ち、というかモノが見えるまで、どれだけ自腹を切って勉強するか、の道程が大事であることをそっと伝えた。
オミクロンよりも感染力の強い「骨董病」に羅病したように・・・「でも、欲しくなっちゃいました・・」
と食い下がる。「なんでも、はまる、というのは大事やけど、骨董の世界は金がかかるぞ」といったけど、
馬耳東風。しかたなく、二階の廊下に展示している、久保さんの備前の徳利と、斑唐津をおろして「これで
よければ・・・」といって、値切り方まで伝授して、売ってあげた。
おまけに、「遊穂」(ゆうほ 能登のUFOで町おこしをした羽咋の酒蔵の酒 もちろんUFOとかけている)の
小瓶を・・
そんなわけで、できあがった味噌と、酒器と酒をぶらさげて、「長い髪の少女」みたいな青年が、アトリエに
帰っていった。

それを見ていた「小次郎」(ぼくのお茶のお弟子さま。久保さんの器を炎色野で10万くらい平気で
買っていかれたことのある猛者。というと男と思われるけど、女性。)
が「若いっていいわね。わたし偶然だけど、今日が誕生日なの・・・」と味噌つくりの手をとめ、こちらに流し目を・・
しかたないので、またまた二階にあがり、久保さんの志野の箸置きをプレゼントした。
味噌を3つつくり、チャリンコにのせ、箸置きをズボンのポッケにつっこみながら、十間橋通りを元気に
走っていった。味噌作りは始まったばかり、3月初めまで、毎日こんな「ものがたり」が続く。感謝。