朝のニュースが、そげなことを伝えてくれた。
朝の温度が1度だって、1cmくらい積るかもなんばん、ですって。
東京に雪が積もると、救急車の出番が多い。北国の人は「?」と思っているけど
分母の数が違うのです。
田舎の人は「東京のひとはみなコロナ」みたいに思っているふしがあるけど、
これも人口が多いので数字に惑わされている感もある。ここ能登は大阪府と同じ
広さの中に、19万人住んでいて、コロナで移住者も多くなっているけど、自然減
の数を上回るほどではない。地方はみなそんな状態だ。役所の税収は減って大変だけど、
「生活していく本質」とは、すこし違うような気もする。
昨日、地元の国立大から「先進予防・健康づくり」というアンケートがきた。
役所と共同で企画したものらしいが、「健康のため」という名目で、大学にこちらの
住所や名前を勝手に教える、というのに違和感を覚えた。もっとも、個人情報云々という時代に、
自分の顔写真やコスプレみたいな写真、毎日食べているもの、危ないのは子供の写真などを、
露出狂よろしく配信している時代に、このくらいで、はらかいて、しょうがないばってん。
封を切って、アンケートの最初の問が「あなたの年収は?」「家族あわせての年収は?」とのこと。
その後を読む気にもならず・・・・
何か、間違っているように思う。「収入はO円」と書くと、「それでは健康を害しますので、10万あげます」
というのだろうか?
昨年年金機構から「今年から受給できますが、70歳からの支給にすると、もっと多くあげます」
みたいな手紙がきた。これもよくよく考えるとおかしなことだ。
「自分で払ってきたものを、約束どおり、65歳からお返しする」というのが正確なニュアンスである。
別にお国からタダで恵んでもらっているわけでもない。選挙や国会答弁では、国民が血を流すような努力を
して納税したお金を「血税」とかいいながら、使い方は「穴(けつ)をわる」ような品もへったくれもないのが、この国の
政治家や役人の実態である。
京都の鴨川で、川の底に住むカゲロウの研究をしていた今西錦司先生が、小さな川の中にあっても、
流れの強い弱い、水の深い浅いと、環境の違う場所に、虫たちが「棲み分け」をしている生き様を
見て、「いったい社会とは、なんぞや?」と考察した。
そして「社会とは種が生きていくための組織である」と悟られた。
ごく当たり前のコトのようであるけど、われわれ人間さまたちの「社会」が、あたりまえ、や、
これが自然とかいう規範がなくなりつつある?少しあたたかくなったら、鴨川にいって、寮歌を歌いながら、カゲロウさま
にご挨拶にいこうかな、と思う。
一、夕月淡く梨花白く
春宵花の香をこめて
都塵治まる一時や
眉若き子等相集い
希望の光を一にして
厚き四年を契りたり
厚き四年を契りたり
二、柴扉(さいひ)を排せば暁に
君は川流(せんりゅう)我は薪(まき)
他郷憂(う)しと云うなかれ
椎の葉陰に相寄りて
手をとり友と語らえば
春は四年に尽きぬべし
春は四年に尽きぬべし
三、秋陽落ちて野は寒く
たどる帰り路暗くとも
我待つ寮の灯は赤く
朔風天にどよむとも
来る日思えばあかあかと
希望は燃ゆる胸の灯や
希望は燃ゆる胸の灯や
四、学びの道は遠けれど
暮るるに早き春の日や
春風秋雨巡り来て
今此の丘を去らんとす
ああ我が友よ我が丘よ
いつかえりみん想い出ぞ
いつかえりみん想い出ぞ