月曜の朝は卵かけごはん

昨日の夕方は「ゆるゆるヨガ」だった。
二階で、女子たちがヨガっている間、いつもは下で、そばの準備を
しながら「能登牛筋カレー」を食べる、が、ならわしになっている。
すると、ヨガっている人たちは、「ずるい」とか「カレーが食べたい」
とか「おなかすいた」みたいなことを、ひとりごとのよう発するらしい。
昨日は違う匂いに「・・・?」な感じだったらしい。

珈琲を焙煎する人のことを「ロースター」という。50年近くもこの道を
歩いている小生は、さしずめ「老スター」か?でも能登の海で焙煎している写真を
「サンクスカード」にして、ときどきお客さんに「はい、ぼくのブロマイド」といって
手渡す。40代から上の人たちは「ブロマイド・・・ひさしぶりに聞いた」とかいうけど、
30代前の若者たちは「???」とピーマンみたいな顔を傾げたりする。

そんな話はおいといて、昨日はロースターがローストビーフに挑戦。
いつも小豆を、土楽の鍋で煮る。その鍋を使ってローストビーフをつくった。
信楽(しがらき)の土、特に土楽の土は、太古の昔は琵琶湖の底だったらしく、耐火の器
に適していて、京都のなんやらいうすっぽんやとか、老舗の料理屋や旅館で使われてきた。

その土鍋を使って肉を焼くと、輻射熱効果や遠赤効果がたかまって、肉が上手に焼ける。
土鍋に油をひき、いろいろ焼く部位を箸を使ってまわし、全体の肉の色がかわってきたら、蓋をして、
中火で5分(肉の大きさなどによってそれぞれ)くらい蒸す。それから肉を志野の皿(別に志野でなくてもいい)
にのせ、空になった土鍋に、そばの甘醤油(甘口の醤油に、砂糖・みりんを入れかえしをつくる)と酒、タマネギを
刻んで、強火で炊く。タマネギがしんなりしてきたら、火をとめ、もう一度肉を投入し、また適当に体位、もとい
肉の部位をかえながら、蒸し焼き(火は消えてる)にする。
30分くらいしたら、ヨガの女子たちがおりてきたので、肉を薄くスライスし、鍋に残った肉汁とタマネギをかけ、
柚子胡椒をつけて食べる。昨日は、ひとりの子が沖縄に移住することになったので、それをつまみに、能登の地酒「遊穂」
をそば前に飲み、〆にそばを手繰った。

今日は月曜日なので8時から10時まで「卵かけごはん」
かたわらのストーブには、大豆を煮る寸胴が鎮座していて、菌活人(きんかつびと)
たちが、味噌作りにくるのを待っているかのようだ。
ごはんと味噌汁・・・・世界最強の一汁一菜の基本形である。

白井晟一ワールド・・本日の「日曜美術館」で!

先週の日曜日の朝、ブログを書いていたら、陶芸家の久保さんからショートメールが
きて、「日曜美術館で白井さんやってますよ」とのこと。PCを切り替えて、見た。
今日の夜8時から再放送がある。世界的な建築家だけど、あまり日本人に知られていない
不思議な人の孤高の人生と作品が紹介される。昨年末から、白井さんが設計した渋谷の
松濤美術館で「白井晟一入門」をやっている。ぼくは、白井さんの嫡男・ 白井昱磨さんから
招待状がきたので、初日にいくことができた。先週文庫ちゃんがいった時には、オミクロンの猛威で
人数制限され、予約が必要だしずっと満席。・・今日再放送されるので、今回の展覧会
を見るのは大変だと思うばってん、まずは「テレビ」でご覧あれ。。

39歳になった時、ちゃねって「これからギャラリーをやりなさい」という天の声がした。
その前に、自分の会社をふたつ経営していて、知り合いの上場会社から「もうひとつ会社を上場させたいので
手伝ってくんない」といわれ、小伝馬町に会社をつくって、そこの社長をやっていたことがある。
ぼく以外は優秀な社員?だったので、朝8時に彼らを集め中村天風式の体操をいっしょにし(みんないやがっていたけど)、
30分くらいミーティングをした後、ぼくは外にでて、好きなこと(もちろん営業みたいなこと?)をやって
一年で年商10億近い売り上げになったけど、親会社の社長と意見があわず、ケンカ別れをした。
その一年で、銀座や日本橋の骨董屋や、デパートの展示会などに毎日のようにいっていたのが、すこし「目利き」
になったのかもなんばん。界隈のそばやで「かもなんばん」もよく喰った。

ある日、江古田にあった白井さんのアトリエ「虚白庵」(こはくかん)に招かれ、 白井昱磨さん
と初めてあった。その日の午後は、銀座で陶展をやっていた久保さんと出会った。
四半世紀も前の「ある一日のものがたり」だけど、それからこっち、ふたりと濃厚接触以上
の関係が続いている。

天真庵の一階には、古い柱時計がある。 白井昱磨さんが祝いにもってきてくれた。
白井晟一さんが生前愛用していたもの。その横に「生」という書が飾ってある。それも
白井晟一翁の書だ。そのあたりを照らすガラスのランプも、その時にいただいたもの・・・
そんなこともあって、時々白井さんのファンの方たちが珈琲を飲みにきたり、後輩にあたる京都工芸繊維大学の
建築家卒の人たちが「白井さんを偲ぶ会」をやってくれたりした。

ぼくのそばの師匠は、「翁」の高橋邦弘さん。 白井昱磨さんとは、目白の小学校からの同窓で、
目白の翁を広島の山奥に移す時、白井さんが自宅とそば道場を設計し、そこに白井晟一さんの「達磨」
という額を飾った。それを師匠が気にいって、全国的に知られた「翁」を「達磨」に改名したエピソードが
ある。そして、ある日 白井昱磨さんが池袋天真庵に来た時、「これからのギャラリーのオーナーは蕎麦が打て
たほうがいい」と・・そんな話がまとまり、「小倉駅のうどん」が大好物な「うどんもん」が、鬼の大特訓を受け、
「そばもん」になった。

それからこっち、毎朝「生」という字を見ながら、貧乏という名ののし棒を使い、「生(き)そば」を打ち、
珈琲の「生豆」を、能登七輪で炭焼き焙煎し、花を「生け」、生のアーチストたちと触れ合い、「生演奏(ライブ)」
をやったり、そこで出会った人たちが結婚し、新しい命が「誕生」したり、シンコロ時代になっても、二月になると、
大豆に「生」の麹をつかって味噌をつくったりしながら、「生」きてきた。正確には、「生かされている」に感謝する日々。

最近、久保さんがつくってくれた珈琲のサーバーが大人気である。
秘密だけど、白井さんの建築からヒントを得たフォルムらしい。ギリシャ建築の柱みたいだ!
そのサーバーに、コーノでもカリタやメリタでも、キャンプ用のとぐろを巻いたサーバーでも
いい・・お気にいりの道具をのせ、珈琲を淹れて飲むと、至福の珈琲時間が味わえる。
ついでにいえば「ほぼブラジルの目指す味」というのも、白井晟一さんが、 昱磨さんに
「珈琲の淹れ方を伝授する」と言われた時に発したコツを、少しアレンジしたものだ(笑)

のみ口 ひと口めが すっきり
人肌に さめても まったり
あと口 余韻が  一時間

東京からほかの地に移り住む人が増加・・

そげな記事が今朝の新聞にのっていた。
シンコロで在宅、テレワークが広がり、近郊の千葉や埼玉あたりに住み、
ときどき東京の会社・・・最初はそんな流れだったみたいだが、最近は大分とか徳島とか
そげな離れた場所に移住する人が増えているらしい。
能登も例外じゃなく、ぼくらみたいに二カ所暮らしをする人が、「能登」という地元の
雑誌に紹介されていた。昨年の秋には、東京と能登で作陶する陶芸家が紹介されていた。
角伊三郎さんがアトリエを構えていた輪島でやっておられるので、我が家からもほど近い。
年末に年越し蕎麦を打ちにきたお弟子様が、その女性陶芸家に陶芸を教えてもらっているらしい。
完全に移住する人たちも、少しづつ増えているようだ。

毎日、ニ三人(にさん  にじゅうさんではない)の人が味噌つくりにくる。昨年の味噌をあけた話、
能登の塩にはまっている話、いろんなひとに味噌をお裾分けする話・・・手前味噌の四方山話に花が咲く。

昨日は近所でジュエリーのデザイン・制作をやっているまーくんの味噌つくり。なかなか売れっ子で、
隕石を使ったジュエリーも売れ始めているようだ。帰り際に、「忙しすぎて、ゆっくり家で酒飲みたい
のに、そんな時間もとれない・・ボリボリ」みたいに、女の子の見紛うような長い髪をかいた。
「何が好きなん?」と質問したら、「日本酒です」と答えたので、「酒器を一生ものにしたら、時間が
なくても、独酌の時間が至福になるばい」と教えた。

彼のアトリエの前の住人の「ぬすみぐいくん」たちや、
昨年メジャーになって世田谷に引っ越した「おさけんたろう」たちも、久保さんの酒器や珈琲カップを使い始めて、くらし
が「ゆたか」になり、それをインスタとか展示会とか、ふれあう人たちに伝授しながら、「時のひと」
として活躍されている。服をつくる人は、服だけつくっていてもアカン。衣食住や、「くらしかた」もっと
いえば「生き方」がかっこよく、そんな「ありよう」に賛同するような人に優美に伝わっていく、というか
そんな感じかな。資本主義もマーケティングも、昔のままではだめやね。
彼らが30代になったけど、その下の世代の20代の中あたりのお客さんが、今回の味噌作りに、彼らの紹介で
あまたやってくる予定。まーくんのお客さんも、同じように、そんな「流れ」で天真庵にやってくる。

ということで、味噌の後は「骨董講座」
「昔から左党のあこがれは・・・・備前(びぜん)の徳利に斑唐津(まだらからつ)、折敷(おしき)は根来(ねごろ)・・
それに織部の向付(むこうずけ)・・・」を、二階の倉庫からもってきて教えた。
「これ、売ってもらえるんですか?」と、恋をする女の子のように聞くので、「10年はやいな・・・これぜんぶで
100万以上になるよ」と答えたら、びっくりしていた。もちろんぼくは骨董屋ではないので、売らないけど、
値打ち、というかモノが見えるまで、どれだけ自腹を切って勉強するか、の道程が大事であることをそっと伝えた。
オミクロンよりも感染力の強い「骨董病」に羅病したように・・・「でも、欲しくなっちゃいました・・」
と食い下がる。「なんでも、はまる、というのは大事やけど、骨董の世界は金がかかるぞ」といったけど、
馬耳東風。しかたなく、二階の廊下に展示している、久保さんの備前の徳利と、斑唐津をおろして「これで
よければ・・・」といって、値切り方まで伝授して、売ってあげた。
おまけに、「遊穂」(ゆうほ 能登のUFOで町おこしをした羽咋の酒蔵の酒 もちろんUFOとかけている)の
小瓶を・・
そんなわけで、できあがった味噌と、酒器と酒をぶらさげて、「長い髪の少女」みたいな青年が、アトリエに
帰っていった。

それを見ていた「小次郎」(ぼくのお茶のお弟子さま。久保さんの器を炎色野で10万くらい平気で
買っていかれたことのある猛者。というと男と思われるけど、女性。)
が「若いっていいわね。わたし偶然だけど、今日が誕生日なの・・・」と味噌つくりの手をとめ、こちらに流し目を・・
しかたないので、またまた二階にあがり、久保さんの志野の箸置きをプレゼントした。
味噌を3つつくり、チャリンコにのせ、箸置きをズボンのポッケにつっこみながら、十間橋通りを元気に
走っていった。味噌作りは始まったばかり、3月初めまで、毎日こんな「ものがたり」が続く。感謝。

味噌作りが始まり始まり・・

今年の味噌作りが始まった。
この3年くらいは、100人超えの人たちが、手前味噌をつくりにやってくる。(毎日、3人くらいやってくる)
オミクジがたるような名前のシンコロが猛威をふるっている。
「家族がかかった」「子供が学級閉鎖になり」・・など、スケジュールの変更やむなき、
なことがいきなりおきている。でも、家族の「健康」の真ん中にでんと鎮座しているような味噌。
いろいろ工夫しながら、スケジュールを変更したり、「まるなげ」(ぜんぶ天真庵でやる)に変更
したりしながら、のやりくり。「なんとかなるさ」だ。

昨日のお昼、大豆をいれた寸胴をストーブの上で、ことこと煮ていたら、玄関があき、お菓子の箱をにぎった
手だけが、ニューと入店。「?」と近づくと、近くで、名前も看板もないカフェをやっておられる80歳のおばあちゃん
が立っていた。「コロナになったらいけないので、これだけお邪魔します。故郷のお菓子」とのこと。
彼女は、福井県出身。86歳になる実の兄が昨年末に旅立った。彼が趣味でつくっていたトマト「越のルビー」
の味は忘れがたい。亡くなる二日前に撮られた写真を彼女のスマホで見せてもらった。気骨ある北陸人に
思わず手をあわす。

お菓子は、「水羊かん」(有)えがわ。
能登の梅茶翁のすぐ近くに「マルガジェラート」という有名なジェラートやの本店がある。
冬でも、遠くから車できてジェラートを食べておられる。ぼくは、春一番にでる「ふきのとうのジェラート」
を冬眠からさめた熊よろしく食べるのを、楽しみにしている。
北陸の人は、冬でも、アイスクリームとか水羊かんを食べる、という
を発見したのである。南国育ちの小生、最初はびっくりしたけど、今は同じように食べている。

「水羊かん」は、丁稚(でっち)羊羹といわれていた。幼いころ、口べらしと手に職をもつために、
京都や大阪や東京に丁稚奉公にでかけた子供たちが、正月に帰ってくる。そんな彼らのねぎらいの意味で、母親が
水羊かんをつくり、囲炉裏端などで、団欒していた時のなごり。
そんな歴を思い浮かべながら、水羊かんを食べた。滋味深い味がする。

福井に住むもうひとりの兄さんが「そろそろ、こちらへ帰ってこないか」といったらしい。
迷わず「東京で暮らす」と答えたそうだ。理由が「ふるさと、というのは場所ではないのよね。ひとなのよね」
とポツリ。いい得て妙だ。
ほとんどの人が生まれた土地を離れ、都会に出稼ぎにくる。そこで出会った仕事や人とのつながりや、
帰れない事情があって、帰れない人が孤独死をしたりするのが当たり前になっている。「無縁社会」という
らしい。なんとも味気ない呼び名であるが、自然の摂理でもある。みなひとりでオギャーと生まれ、ひとりであの世に帰る。
彼女は、毎朝近所の認知症のおばあちゃんの朝ごはんを運び、食べさせ、薬をのませ、自宅にもどると、
常連のおばあちゃんたちのモーニングサービス。その後、また認知症のおばあちゃんと散歩。
散歩が終わって、かたずけが終わると、美容院にいったり、病院にいったり、美術館やカフェにいったり
するのがならわしで、週に二度か三度、天真庵で「ほぼぶらじる」を飲みながら談論風発。
彼女のまわりには、ふるさとにはない「ひと」が、いっぱい待っているのだ。「人生いたるところに青山あり」だ。感謝。

マンデラ・エフェクト

こないだ、久しぶりに銀座のカフェに納品がてら、銀ブラ(銀座でブラジルと、銀座をぶらぶら両方)
を楽しんだ。途中、昔よくいった骨董屋(5年前に閉店)の前を通った。そこの主人は東大をでて
骨董屋になった。80過ぎで引退したので、かれこれ90歳になる。
毎年年賀状のやり取りをしているだけで、引っ越し先の目白のマンションにはまだいったことがないが・・。

ときどき、手紙をもらう。以前こんな手紙がきた。

「前略  先日同窓会にいったら、同じテーブルにいた友人が
『中国語で蚊のことをなんというか知ってる?』と問うが、誰も知らない、と答えた。
すると『チースウ』とやつがいった。一同、フーンという顔をする。
するとその男が『ミャンマーでは、反対でスーチーなんだが・・』とポツリ。静かなテーブルに
笑いがおきた。加えてその男が『中国語がわかる人間がいたら、受けないジョークだけど』といった。

そんなたわいのない話。でもこの話を時々すると、うけるときとそうでない時の差がある。

それに似たような話が、少しブームになっている。

興味のある人はネットで「マンデラ・エフェクト」と検索してみて

ネルソン・マンデラ氏は、アフリカの英雄で波乱万丈の生涯をおくった人。
スーチーさんと同じか、それ以上に世界中の人が知っているのだけれど、
「不思議な現象」が起きているらしい。(例)新潟でよく朝鮮から拉致されるので、朝鮮半島は新潟の北あたりにある・・とか

世界中の政治や経済やオミクロンはじめもろもろの異常気象・・・「信じがたい現状」というのも、
もしかしたら、どこかでみんなが錯覚しているような悪夢?と思いたくなることしきりの今日このごろ。
地を吸う蚊、くらいは、かわいいものだ。すごい時代になったものだ。でもこの先には、きっとすばらしい未来が
待っていると信じたい。そう思う人が増えれば、なんとかなると思う。感謝。

月曜の朝は卵かけごはん

押上小学校の子供たちが、元気にお店なの前を並んで登校する。
お店は15年になるので、開店当時ランドセルをしょって通って
いた子たちが、「成人しました」とかいって、着物やスーツ来てくれる
ことがあり、歳月人を待たず、を感じることしきりだ。

今日は、その小学生たちが、すぐに逆流のように、親が同伴で
家路に帰っていく。聞いてみると「学級閉鎖」だとのこと。
フルタイムや、パートで働いているお母さんは、大変あわてたことだろう。
職場や学校や家庭・・どこにいても空気感染するオミクロンが容赦なく
迫ってきてる感じがひしひしと伝わってくる。

昨日は、近所のマンションで、看板も名前もないカフェの80歳のおばあちゃんが
夕方お茶を飲みにきた。朝早くおきて、朝ごはんの用意をし、近所の認知症のおばあちゃんに届け、
薬を飲ませ、家に帰ってくると、常連さんたちに朝ごはんを無料で提供し、洗い物を台所に寄せたら、
認知症のおばあちゃんと散歩する、が日課。
お昼は、「原始的ぶつぶつ交換」みたいに、朝ごはんをごちそうになったおばあちゃんたちが、自分の
得意な料理をつくり、みんなで食べる。おおざっぱにいうと、そんなルールがあるらしい。
成人病にも、インフルエンザにも、シンコロにも負けず、齢(よわい)90前後まで、元気に生きて
こられた強い女性たちの生きざまが見え隠れする。

昨日の昼は、炊き込みごはんの好きな江戸っ子ばあちゃんが「深川飯」をつくってくれたらしく、
そのお流れを頂戴することになった。いつものように、「深川飯は好き?」と聞くので
「大好物ですよ」と答えたら、にっこりして、手提げから、深川飯の入ったタッパーをだしてくれた。
「入れ歯の年寄りばっかりなので、ネギは入っていないわよ」とのこと。どうも総入れ歯になると、
ネギも大敵になるらしい。いずれいく道のコンシャルジュみたいなおばあちゃん。
閉店した後、入れ歯になった時の訓練みたいに、ゆっくりと噛みながら食べた。
ネギのかわりに、梅干しを刻んだものが入っていて、慈悲深い味がした。感謝。

令和の原始的ぶつぶつ交換・・

昨日のお昼に、ひとりのご婦人が蕎麦を手繰りにこられた。
「『能登』を見てきました」とポツリ。
まさか雪の中を・・と思っていたら、妹さんが能登でカフェをやっていて、雑誌を見て
東京に住むねえちゃんに「いってきて」と頼んだということ。
二月は能登にもどらないけど、3月にそのカフェを訪問する約束をする。
なんか新しい時代の「原始的ぶつぶつ交換」の上級編みたいで、うれしい邂逅。

その後、食品関係の会社に勤める女性が蕎麦を手繰りにきた。
「お願いがあります」というので、聞いてみると「まんぼう、のために、新年会が
中止になり、会社の主力商品を進呈することになり、米沢牛のしゃぶしゃぶ肉をもらったんだが、
食べきれないので、食べてくれませんか」ということ。間髪をいれず、「OK牧場」と発し、
彼女の好物の「甘酒」と交換。

4時で閉店。てっちゃんが、蕎麦打ち教室にくる。同伴の奥方が「お土産」といって、大好物の豆源郷の
豆腐をもってきてくれた。お返しは天真庵が紹介されている「能登」。
「あとはネギをしょってきてくれる子がいたら、今晩はしゃぶしゃぶだ」と思っていたら
、福岡の母親から電話。「能登、が届いた。なかなかよか内容・・・」みたいな会話を
お店の外でしていたら、水色の車がお店の前でとまり、運転手のきみが手をふってくれた。
昨年から千葉に畑を借りて、野菜をつくっているお弟子様で、手にネギをもって
降りてきた。お返しは「そばかす(ガレットの材料)」真民さんの言葉に「念ずれば花ひらく」というのがあるけど、花ある女子3人の
女子に、しゃぶしゃぶセットの主役たちを、べつべつにいただいた(笑)

蕎麦打ち教室がおわり、しゃぶしゃぶを酒肴に、能登の「竹葉」のぬる燗を飲んでいたら、携帯がなった。
近所の洗い張り屋(この界隈には、まだ、そんな昭和のお店が残っている)の女将さんで、織田流煎茶道の同心のMさん。
「そろそろお店を閉めようと思い、古い家具なんかを整理したいんだけど・・・」とのこと。
能登の茶の間にある鎌倉彫の飾り棚や、桐の手あぶりも彼女の愛用品をいただいた。お店の椅子は、天真庵
とおなじく般若君作のとうの椅子だし、もっている家具たちの品格がすばらしい・・・
断捨離が大流行だけど、ぼくはあまりこの言葉が好きでない。捨てるようなモノは買わず、捨てたくないようなモノを身のまわりにおき、必要でなくなったら、またつぎの人に
、受け継いでもらう・・・そのほうが、「もったいない」もなく「ゆたか」だと思う。

「能登」にのむら暮らしが紹介された・・

昨日「能登」という雑誌に掲載された記事を、表紙にはりつけてもらった。
校正前のゲラで、珈琲の豆をひいている写真が、「蕎麦をひく」になっていたりするけど、ドンマイ。
発売された本には、ちゃんと「そば」になっている。能登の知人たちからメールがきたり、電話が
きたり、ホボブラジルの注文がきたり、で、東京の雑誌などに紹介された時よりも、
反応があって、半農半Xみたいな生活に加速がつきそうな風向きに、老体に鞭打ちながらがんばっている毎日。

昨日、たけちゃんが、道具をもってやってきた。15年前の改装の時、電気工事を請け負ってくれた職人。
それからこっち、古い建物(築77年)についてある、ソケットや電気器具・・・いろいろ故障した時に連絡すると、
すぐに飛んできてくれる。昨日は、碍子(がいし)まわりの漏電とか、アースみたいなものを点検しながら、今年の
やるべき箇所を提案してもらった。椅子のとうの張り替えを昨年夏、般若くんにやってもらって、あと15年は
大丈夫になった。碍子は京都の骨董屋から購入したものを、たけちゃんが上手に配置してくれて、古民家の風合い
みたいなものを醸し出してくれた。古い建物と同様、電気とか水回り、屋根なのどメンテをしっかりやっていると、
今どきの家よりも、持続可能なのである。

その京都の骨董屋は、もともと藍染で財をなし、人間国宝になった陶芸家・近藤悠三や芸術家を応援した。
福岡の玄洋社の遠山満翁が関西に行く時に逗留した家でもある。その家の床の間には「南開」と揮毫された頭山翁の書が飾ってあり、ぼくも
何度かその部屋に泊めてもらった。お礼に、その部屋の茶箪笥の中にあった近藤さんの宝瓶(ほうひん)で玉露を淹れ、
女将さんたちにふるまったりしたことが懐かしい。(能登の雑誌にのっている我が家の床の間の掛け軸で、ひとつは、南條先生の寒山拾得、もうひとつ「一・・・」は解説文はないけど、頭山満の書である。翁の大フアンのおかまのMくんが、見るたびに、「これ、頭山先生の字にしてはうますぎるので贋作だと思うから、うちにタダで頂戴、とおねだりされる・笑)

話が脱線した。
いろいろな職人たちが、がんばってくれて、この古い建物を維持してくれている。
ここの改装に参加した人たちが、その後近くでカフェやシャアハウスなどをつくって、街を
彩ってくれる。最初に「ぶんかん」ができた。昼の店長だった「なつきくん」は、島原
に移住し「くちのつ巷珈琲焙煎所」をつくり、そこの電気もたけちゃんが駆けつけて工事をした。
夜の店長だった「ユーホーくん」も、熊本に移住して無農薬の米をつくっている。
今月はそのユーホーくんが住む古民家の改装に、たけちゃんが駆り出されるらしい。
日本中に、負動産とかいわれる古民家がいっぱい空き家になっている。
うまく活用していけば、限界集落どころか、味のある「まち」や「むら」に、懐かしい未来の灯が
ともる。ほんとうの「ゆたかな生活」にもどす絶好のチャンス到来時かもなんばん。
アホな政治家が発するオーム返しの「持続可能・・・」の合言葉は、うすっぺらい。自分たちの毎日の暮らしの中で培っていきたいものだ。感謝。

今日から「まんぼう!」

シンコロ時代になって、みずから時短をし、ライブも夜の勉強会も
やらなくなって久しい。売り上げは半分以下になったし、10日は能登で
暮らしているので、うらぶれた街に、倒れそうな佇まいのお店は、まさに風前の灯火、
といった具合である。でも幸いに「霞を喰うレシピ」を公案し、能登でお金のかからない暮らしの実験中
で、「まんぼう」がきても「びんぼう」にならないような気がしている。(実際には、貧乏という棒をふりまわし
ながら、毎日そばと格闘しているのであるが・・)
今日から東京都も「まんぼう」。平日は18時閉店が当たり前なので、なんら変化なし。
「お酒」も昼からでも時間内ならOK牧場だ。

水曜日、小学校時代からの親友のまったいと、横浜駅南口で待ち合わせて、「そばやで一献」の新年会。
小学校、中学校時代は、北九州の黒崎という繁華街でよく「うどん」を食べた。もちろん酒は飲まない!
「横綱」というお店がふたりとものお気に入りで、「ごぼ天うどん」を食べるのが、ならわしだった。
お互いに、東京で暮らすようになったけど、「東京駅の地下に美味い博多うどんがある」といっては
行き、最近は有楽町の駅に近い「博多うどん」を食べながら酒を飲んだりしていた。

そんな「うどん派」のまったいが、週一ペースで横浜の「そばや」で、昼酒を飲むようになった。
三度目になる。一度目は、「このお店は、岸信介とか政治家が通った店だ」という説明をきいた。
政治家(昔の)は、「井戸塀」といって、民のために働き、けっきょく残るのが井戸と塀、
そんな格言に似た名前のお店だな~、というのが印象で、升に注がれる冷や酒をお替りするだけで、
「そば」にたどりつかなかった。

お店の名前は「いどべい」ではなく「かどへい」という。だいだいののれんに「角平」という字を
確認できたのが二回目にいった時だ。その時は、もうひとりの小学校からの友人の松下くんが、
社長に就任したお祝いをかねての「そば会」だった。彼も小学校高学年あたりから、親の秘蔵の酒を
くすねて飲むような左党で、3人で「そば前」(そばの前に飲む酒)を、学生飲みし、
そばを手繰るまでいけなかった。

「三度目の正直」だと勇んで、のれんをくぐる。
いつものようにそば前に、新潟の地酒「鶴齢」を一杯頼む。まったいが「のんちん(ぼくの小学校時代からのあだ名)、
ここのそば食べたことあったっけ?」と聞くので「なかよ」と答えた。
「じゃ、わすれんように最初に頼もう」ということになり、「つけてん、ください」と注文した。
何・・・?つけてん 漬物の天ぷら?今流行りのとりの天ぷら?不思議な顔をしていたのか
「ここは、つけ天」が名物だといって、メニューに「元祖つけ天」と書いた看板メニューの写真を見せてくれた。
ちょうど、升酒がなくなるころあいで、「つけ天」がでてきた。そのタイミングで、緑川政宗のぬる燗がやってきた。
もりそばの横に、平茶碗みたいな器に入った暖かい甘汁に海老天が、器からあふれるような感じでのっている。
「天ぬき」(天ぷらそばのそばぬき)みたいなんに、そばをつけて食べる、のが、流儀らしい。
なるほど、飲んべえには、たまらないそばの酒肴みたいな蕎麦だ。「ぬき」と「もり」の両方が楽しめるわけだ。

昔から、そばやは、いろんな人生や歴史の「変わり目」の舞台になってきた。そんな風情を久しぶりに
味わいながら、横浜の街を梯子しながら、徘徊した。鼻歌は♪横浜 たそがれ・・・
ふたりとも、65歳を迎えた。いっしょに梯子した仲間たちの何人もが、場所を天国に移して飲んでいる。
たそがれ、よりも、かわたれどき、に近い季節を迎え、足のおぼつかぬ猿が三番叟を踊っているがごとくであるが、
「死ぬまで生きられる」をモットーに、ときどきそんな酒を楽しんでいる。感謝。

「能登」にのっとーと

昨日、「能登」の新しい号がおくられてきた。
春夏秋冬、年4回発行される季刊雑誌。
最初は、梅茶翁の梅仕事にいった時、地元のスーパー「どんたく」(福岡みたい・・・神社や地名も福岡と同じものが
随所にある)。
昨年の秋に、突然「能登」の社長がカメラをもって、押上の天真庵にやってこられた。そして、11月に、はじめて
稲刈りをしているとこ、12月が能登の家の近くの海で、「ノマド型焙煎機」でガラガラ焙煎したり、それを自宅で
淹れている写真などが掲載されている。

おかげさまで、15年間、いろいろなメディアに紹介されてきた。途中は食傷ぎみ・・・という
感じの時もあったけど、今回は、まったく新しい切り口で、読んでいても楽しくなる。
能登の「スイーツやさん」もたくさん紹介されていて、けっこう移住や、Uターンして新規で始めたお店
などもあり、新鮮だ。
東京は「情報」が氾濫しているし、お店などもできては消え、またできては消えの繰り返しの感がある。
それにくらべると、都会生活に限界を感じたり、親の介護や家の事情で田舎にもどることになり、自宅の倉庫を改装
してカフェや、ジャム工場や、陶芸のアトリエ・・・に、変わっていく「ものがたり」が、ページや文字の間に
いっぱいこめられていて、楽しい。「新しい生き方」を模索している人には参考になるものがいっぱい。
人が生きているだけの「ものがたり美術館」を拝観しているような気持ちになる。

夕方、近くの押上文庫の文庫ちゃんが珈琲を飲みにきた。
いつものように、「おかわり」をして、二杯の「ほぼブラジル」を飲み、
カウンターに積んでる「能登」を見つけ、「これも一冊いただきます」とがま口から880円
だして買っていかれた。
押上文庫が、金沢文庫に引っ越しをしたり、故郷の松本に二店舗目ができたり・・・
そんな日がくるようなことも、あるやもしれない。またまた新規感染者の数が急増しているので、
近々営業形態の変更やむなしの東京の飲食業界。トンガの噴火と同じく五里霧中だ。