昨日、梅茶翁(ばいさおう)の梅の木の剪定。
春一番を告げるような梅の花は、桜ほどの華やかさはないけど、
昔から俳句の季語や、絵の題材に文人たちが好んで使った。
梅の木にうぐいす、など茶人といわず、日本人なら花鳥風月の代表選手
みたいなものだ。よく目白がとまっているけど、ほとんどのひとは「あ、梅の木にうぐいす」
と思いこんだりするものだ。目白と隣の池袋くらい、違うものだけど・・・
こないだまで、目白、池袋、押上、錦糸町・・なんていってた「東京人」たちが、能登で暮らしている、不思議。
売茶翁にいくと、倉庫の前に、先月刈り取った稲が干してある。少し田植えも、収穫もおくれたけど、
昨年はイノシシに食べられ収穫Oだったのが、二年がかりの収穫をあげることができた。
開墾から、田植え、収穫まで、まったく機械も農薬も除草剤も使わず、自然農でやった。昔はそれが当たり前だったけど、近代農業が
「便利と効率」を旗揚げしていらい、そんなのやり方をしているところは農家の1%くらい。
近所の農家さんたちも「あげなやりかたは続かんばい」と冷ややかな目線で見ておられるけど、馬耳東風、
「自分たちらしく生きる」のが、わらわれ流。脱穀したあかつきには、珪藻土の竈に羽釜で収穫祭をやる予定だ。
昨日は近所に香川から移住してきたSさん家族といっしょに忘年会。先月いっしょに稲刈りをした同志たち。
「おなじ釜のめしを喰う」という言葉を、より深く味わう絆だ。
半日、梅林で剪定の肉体労働をしたばってん、まったく疲れない。梅の木の精や、その土地に住む地縛霊
たちが応援してくれるのだろう。都会の疲れは寝たり、だらだらして癒す、が普通だけど、田舎では体を
動かすことによって癒す。なかなか言葉で伝えられない感覚だけど、65歳の老体が、そんな感覚を当たり前に
感じている。不思議な能登くらしの実験室、みたいなもんか?
梅林の横には蜂の巣箱がおいてある。昨年、そこに日本ミツバチが巣をつくって、みんなで小躍りをして喜んだ。
天敵のスズメバチがきても、集団でスズメバチの身体に集まり、命がけの防衛をするミツバチさんにみんなで
拍手をおくった。でも、夏にミツバチは全滅した。山紫水明の代表みたいな瑞穂(みずほ)という土地に、
稲と梅と無農薬野菜にプラスでハチミツをと願った夢が破れた。
昔から養蜂ができる場所は水がきれいな場所。そのきれいな水に農薬が流れるとミツバチの命は育たない。
でも、農薬はミツバチには猛毒だけど、人間には平気なのだろうか?同じ兵器じゃないの・・?そんな疑問がわく。
人間の「便利と効率」の陰に、絶滅していくものに枚挙にいとまなしだ。そのうち、人間もその末席に座るのだろう。
自然に寄り添いながら生き暮らしていると、都会にいた時に気づかなったことの当たり前に、「えぇ!」
と考えさせられるものがいっぱい。ちこちゃんに「ぼーと生きているんじゃないよ」と叱られる以前の問題かもなんばん!