来年は、珈琲で世界に飛翔します!

さすがに、年末のそばや(うちは、そばや?)は忙しい。
この2日間は、朝4時から、ばんばん蕎麦打ち・・・
年越そばや、自分で年越しそばを打つ人の蕎麦汁なども用意しながら、
老体に鞭打ち、貧棒というそばののし棒を振り回しながら、年末を迎えている。
あげくに、この年末らしからぬ空気のせいか、突然ドタサンみたいに「年越しそばください」
との注文が、この3日に怒涛のようにやってきて、近くの「霧下そば」さんに、師走よろしく
駆けこむ毎日・・・

年賀状をかく暇もないので、新しくできた「サンクスカード」を年賀状かわりに手渡している。
能登の家の近くで、ネコ(一輪車)に珪藻土七輪をのせ、炭火で焙煎している写真。
そうすると「え、天真庵って、珈琲もやっているんですか?」と、こっちのほうがビックラ
するような反応があり、年越しそば+年越し珈琲みたいに、お豆も嫁ぎ、沖縄ガラスの瓶に
入った珈琲豆も、空になりそうな気配。
明日の朝は「そばの初打ち」と「はつ焙煎」の元旦になりそうだ・・・

そんなわけで、天手古舞な年の瀬だが、藤瀬の霊水でそばや珈琲を淹れ、いろいろな差し入れをいただき、
なんとか年が越せそうな感じ。お経は読んでないばってん、托鉢の僧侶になったような気分。

明日明後日明々後日・・・正月は12時開店から16時閉店で、営業しております。
4日からは、能登休み。

ほんとうに、今年もいろいろなご縁を賜りありがとうございました。
能登で半分暮らし始めて3年。
珪藻土七輪、大野製炭所、藤瀬霊水・・・半世紀近くやってきた珈琲道のご褒美
みたいな邂逅で、「ほぼぶらじる」が、力道山を破った・・そんな快挙の連続の1年。
来年は、トラタヌですが、フタバみたいに、珈琲で世界に飛翔したいと思っております。
もちろん「そば道」も、もう少し先を目指したいと思っておりまする。感謝。

京都の縁結びの洋菓子

京都の「からふねや」は、1972年に下鴨神社の近くで創業した。
同じく、下鴨で1955年創業の洋菓子屋がある。「バイカル」。
昨日、煎茶の先輩で3年前に千葉から宇治に移住した先輩夫婦が
蕎麦を手繰りにきてくれた。お土産に「京都の洋菓子です」と少し京なまり(まだ80点)
で笑いながら奥様がバイカルのケーキを持参してくれた。京都から上京して40年近くなる。
その間、ちょくちょく上洛するけど、「バイカル」にいく用事もなく、京のみやげ
は「阿闍梨餅にして」と顔に書いてある(ウソ、漬物とかもってこられると・・・・
「長い付き合いになりそうなので言うけど・・漬物は薬ずけみたいなもんやし、これからは
阿闍梨餅にして」と自己申告したりしてきた。土産をいただく時に、大変失礼な話ではあるが・・)
ので、だいたい京都からの到来者は、阿闍梨さまが多い
(笑)

65歳になり、認知予備軍みたいな症状がときどきでる。最近のこと、人の名前、明日やろうとしていること・・
などを失念するのが日常的になってきた。あまりに日常茶飯になったので、「あれ、何しにここにきたんだろう」
と立ち止まっても、平気の平左状態のことが多い。
「バイカル」という言葉を40年ぶりに聞いただけで、瞬時にその時代の京都にもどることが可能だ。
あたかも、ほんやら洞(今出川にあった老舗の喫茶店・そこの主人の写真は秀逸やった。「笑う賀茂川」などの著作もある。)
の甲斐さんの写真のように、脳裏に浮かんでくる。

3つ下で、ぼくの親友の「まったい」の弟のつよしくんが、立命館に入学し、下宿を探していたので、元田中(当時はあまりがらのよくない街やった。
そやから、アパートの家賃が安く、学生に人気があった)を紹介した。そこの大家のおばあちゃんは、その当時すでに古希(70)を超えて
いらっしゃったので、もう今は天国に引っ越されたと思う。そのアパートには、都合3名の「からふねやマン」を紹介した。
ぼくのアパートは、下鴨西本町にあったので、いつものようにおばあちゃんの大好物のバイカルのケーキをバイカル本店に買いにいき、挨拶にいった。
その時、おばあちゃんがなにげなく、「ちょうどこんどの人(つよしくん)の部屋の上に、きれいな人がはいられはった
わ」とおっしゃった。個人情報がなんじゃのかんじゃのない時代だ。そのことを、弟くんに告げたら、引っ越しの挨拶(こんな風習もなくなった)
を、両隣さんにするのが普通だけど、しかも、両隣がたまたま同僚になるからふねやマンだったので省略して、真上の部屋の女性に
「バイカルのケーキ」をもっていったらしい。大分出身で、府立医大の看護婦をしていた美人で、その縁でふたりは結婚し、3人の子供と孫も
できたりして、幸せに暮らしている。

夕方、飲みともだちのともちゃんが珈琲を飲みにきたので、バイカルのケーキをいっしょに食べながら、そんな遠い昔の
「縁結び物語」を思い出したりした。ニヤニヤしていたのか、ともちゃんが「助平なこと考えているでしょ?」といった。
普通営業は今日でおしまい。明日からは「年越しそばを自分で打つ」モード。
年越そばも、「つなぎ」をいれて打つ。「来年もこの縁が、切れませんように」という縁起からきた。天恩感謝。

ぼへみ庵に続き、新しいそばやができた?

昨年の7月に雲仙の茶店で、蕎麦会をやった。
その時に、一生懸命そば打ちをやっていた若い長崎のそばもんが
出張そばやを始めた、というのを風のうわさに聞いた。「ぼへみ庵」
というらしい。まだまだ若いのに、おじさんの風格をもった名前だ。

昨日は、新人(といっても、還暦越え)のそばもんが入門してきた。
奥様はときどき蕎麦を手繰りにこられる。ご主人はどちらかというと、うどん派らしい。
ときどき、東北出身の父親直伝の「はっと」(九州でいう、だご汁みたいなもん。
あまりに美味いので、ご法度(はっと)になる、からきた、という説がある。どちらにしても
昔からおじさんギャグと文化とは深くかかわりあってきた)を作るらしい。

「では、なぜそばを打とうと思ったと?」と尋ねてみると、
「今年の3月末で退職して、次の日、つまり4月1日のエイプリルフールに、
『小生、昨日定年退職をいたし、長年の夢だった蕎麦屋を押上に開店いたしました。屋号は英里庵(エイリアン) 感謝』
という挨拶分を友達たちに出したらしい。すると、何人かの人が、ジョークとは気づかず、胡蝶蘭などのお祝いが
おくられてきたんです」とのこと。
「じゃ~ ほんなこつ、押上でエイリアンをやるとね?」と尋ねたら、「できたら・・・」と半分真顔だ(笑)
夏に、熊本の「そばもん」がふたり、「実家を改装してそばやになります」と特訓をうけにきた。
還暦オヤジの3度目の正直そば道場・・・・・
でも、けっこういいそばを打っていかれた。瓢箪から駒、冗談から駒板生活・・・そんな人生も悪くない。

今日は通常営業。ひさしぶりに九州の実家に里帰りするそばもんが、夕方そばを打ちにくる。
今日打って、冷凍してもってかえるらしい。こんひとも将来、実家の長崎でそばやをやる予定である。
悲喜こもごもの年末のそば道場。感謝。

イブリガッコが入荷したばい

今年は異常気象のため、毎年頼んでいる自然農の九州の大豆がほぼ全滅やし、自分が
つくっている鼠大根も昨年よりでぎが悪かった。自然のことは
人間がああだこうだいったって、あちらさまのほうが偉いし、天地自然の理に利がある。
こちとらちっぽけな人間としては、「ありがとうございます」と感謝して通るのがいい。
ご近所の居酒屋「酔香」の店主・すがちゃんが、いぶりがっこを
もってきてくれた。やはり今年は不作で、「はやいもんがち」の様相になった。

彼は立命館の3つ後輩で、ぼくと違って優秀な成績で卒業し、大手出版社の編集長を
していたが、50歳を期に早期退職して、うらぶれた十間橋通りにお店をだした。その勇気と行動力と努力に脱帽する。
日本の社会は、「会社」に属していないと、給与も失業保険も年金も・・つまり
この国で生きていくセーフティーネットから外されるシステムになっている。
「野に下る」というけど、世間からは「くだらない」という冷ややかな目の中で生きていくしかないのだ。
でも「会社人間が幸せか?」というと、さにあらずが大半のようで、ぼくのところにも、「会社やめたい人間」
がよく相談にこられる。そばや珈琲のお弟子さまたちも、ほとんど会社に属しておられるのが現状だ。
「死ぬ気になったら、そばやでも珈琲屋でも、居酒屋でも食堂でも喰っていける」と叱咤する毎日。
ぼくは、幼稚園も大学も中退で、しかも「会社」というところに属したことがない、いれてくれる会社もなかったと
(正確には、ソフトバンクという会社が、まだ日本ソフトバンクといった時代に一年間だけ社会人らしきことを経験したばってん)

そんなぼくも、今月から「年金」が入るようになった。65歳。でも日本年金機構さまから
「70歳からの需給にすると、得します・・・みたいなスマホ(ぼくはガラケーですが)
プランみたいなラブレターがきた。そもそも自分が払ってきたお金を、予定通りに返してもらう約束
が債務不履行になりそうな気配・・
この手紙の内容からして、年金制度がそろそろ限界にきていることがうかがえる。
迷わず、「65歳からもらうばい」と返事した。

ほとんど自営の人は、「国民年金」に入っている。名前は日本国家を代表するような立派な
名前だけど、毎月16000円を40年払って満額(家のローンに比べたら楽?)になるけど、
毎月もらえる額が65000円。これだと、東京や大阪のみならず、田舎にいって暮らしても、
厳しいな~。でもこれから後の人たちは、きっとどちらの年金も、破綻しているかもなんばん。

でも会社をこれから辞めよう、という人は、おおいに結構だし、ぜひ決行してください、といいたいけど、
ちゃんと、そのへんのところや、保険(これも、会社があるから、セーフティーという仕組みで、会社を
辞めた人は「国民年金」に加入するしかないばってん、保険料が高く5世帯に一世帯が滞納し、いざ病気になっても病院にいけない、という現実)
のことも頭に入れて、会社を辞してくだされ。な~に、飛び出したら、飛び出したで、なんとかなるもんだし、
「人間って、こんなに自由なんだ」という基本的人権の原点みたいなものが、体でわかる。

それに加えて、コロナで経済がとまり、国がばんばんお金を印刷して、いろんなところに「給付金」という名前の
ものをくばりまくっている。昔習った「社会」の本には、「そげんこつになったら、その後インフレとかハイパーインフレがやってくるばい」
みたいなことが書いてあった。これからまた税金とかが高くなりそうな気配。

高齢者社会になって、新しい資本主義がどうじゃらかあじゃら、よくわからないことを新しい総理が
説明しているけど、スマホ(しつこいけど、ぼくはガラケー)の割引プランや乗り換えプランみたいで、
いくら聞いてもチンプンカンプン・・
やっぱり、我が国そのものが、後期高齢者みたいなもんになって、おぼつかなくなってきているんだと思う。

そんなわけで、この国は「会社」に依存し、わたしたちも、そんな国を頼りになるもんだという「妄想」を抱いてきた。
そろそろ「現実」を見極めながら、自分たちの未来を切り開いていくしかない。来年はそんな年になるのではないかな~。
そんなことを思いながら、昨日はすがちゃんがくれたおまけのいぶりがっこをポリカリしながら、遊穂(ゆうほ)を飲んだ。
ポリカリするイブリガッコの音も、年年歳歳、すこしトークダウンしてきた。
来年は老体を鞭打ちながら、世界初だと勝手に自負している「ノマド型七輪焙煎」をガラガラやりながら、旅を続けよう
と思う今日このごろ。感謝。

風興の会

2007年の4月1日に、池袋から押上に天真庵を移した。
来年は15周年になる。そのころ小学校に通っていた近所の子どもたちも、
「成人しました」とかいって着物姿で珈琲を飲みにきたり、このお店で出会った
カップルの家族が増えたり・・・大人の15年は、白髪がふえた、足がいたい、腰がいたい、ハメマラが云々・・
とかだけど、子どもはしばらくあわないと、みな刮目してあうべし、と👀をパチリとさせられることが多い。
昨日は、天真庵の椅子や玄関などをつくってくれた般若くんの娘たちから、クリスマスのメッセージが届いた。

今日は「風興の会」といって、原田先生が教えてくださった花の会の会報誌をつくっていた武内由希子さん
が突然風のように召されて4年目になる。まだ50代やった。
天真庵がまだ改装中のある日、おかまのMくんが差し入れ持参でやってきた。
「ここで、お花の教室をやらない。すごい先生を見つけたの・・・東京で稽古場を探している・・」とのこと。
翌日に、おかまのMくんと、九段の喫茶店で待ち合わせをして、武内さんとあう。
そして、9月から原田先生が月イチで、山口の宇部からお花を教えにきてくれるようになった。
N響の人やピアニスト、アーティスト、料理人・・・多士済々の人たちが、集まって季節の花を生ける指導をうけた。

天真庵のメニューの中に、その時のことを書いた会報誌が残っていれてある。

風興の会の同心、「おかまのM氏」(実際には、本名が書いてある)のご縁で、2007年9月に
原田先生のいけばな教室がスタートした天真庵。実はいけばな教室が開講した、ほんの数か月前に池袋から
墨田区文花の地に越してこられたばかりという絶妙なタイミングで出会いは実現したのでした・・・(略)

「『和楽』2004年5月号に池袋時代の天真庵の記事が掲載されたことがあり、ちょうど原田先生の
師匠・岡田幸三先生の立花が掲載されていて、いつかこんな花を習ってみたいと思っていました。
不思議なご縁ですね」という筆子さんのコメントも残っている。

風の時代になった、とかいわれる。昔から風興、とか、風狂という言葉が使われる。
花鳥風月の中にも、目には見えない「風」の文字。
この二年で世の中の仕組みや、生活の様式や、いろいろな勝手がまったく違う世界になってきた。
風流にいきる「ゆとり」が、だんだん薄れていくような流れではあるけど、
自分で風を吹かせ、その風にのっていくように、飄々と生きていきたいものである。
たとえ、どんなに小さな微風であっても、「自分流」がここちよい。感謝。

ひとり飲みで生きていく

そんなタイトルの本を古本屋でゲット。
アフロお姉さま、「稲垣えみ子」さんの本だ。
朝日新聞の社員(といっても、論説などを書いていた優秀な女子)が、アフロヘアにし、
50にして会社を退職し、冷蔵庫もエアコンもない部屋(もちろん、貧乏ではなく、彼女の流儀)
に住み、令和版「おひとりさま」よろしく、酒場にて「一人飲みデビュー」をすることによって、
人生がかわった、というエッセー。下のページには、笑いながら赤鉛筆で塗り手繰った。

「人生を大きく見せる」という愚
。。。
だってですよ、ふと世間を見渡せば、私だけではない、この根本的な問題に気づかず居場所作りに
ことごとく失敗し、人生を棒に振っている人がいかにたくさんいるいることか!
何しろ人は居場所さえあればなんとか生きていけるのだ。現代人はすぐ「お金さえあれば」
と言いたがるけど、金が唸るほどあったところで、居場所のない人生は間違いなく地獄である。
(略)
だが「自分を大きく見せる」が通用するのは、実は「競争社会」だけだったんじゃないだろうか。
なんと世の中には「競争していない社会」といういうのが存在していたんだよ実は!
それは例えば、家庭であり地域であり・・そして、そう居酒屋である。

水曜日、歯医者への往復の電車の中でこの本を読み、
お店にもどったら、お仕覆女子たちが、忘年会をしていた。
一年かけて、「ぬる燗陶器」を持ち運べるお仕覆をやって、ようやく完成して、それで燗酒を飲む、
という企画。残念ながら完成は年をまたぐことになったが、「ひとり飲み女子」が3人、
盛り場に羽ばたく年になる前夜祭みたいな忘年会やった。

その本「ひとり飲みで生きていく」(朝日出版社)の結びを紹介しとく。
今年は「ソロキャンプ」が流行ったけど、来年は女子の「ソロ飲み」が流行りそうだ。

そう一人飲みとは、人生の罠から抜け出し、真に自由な人生を歩きだすための第一歩なのである。感謝(この二文字はねつ造)

火曜日の朝は、純喫茶モーニング?

「月曜の朝は卵かけごはん」が始まったのが、311のあった2011年の一月
からやった。10年過ぎた。
昨日はそのころからずっときてくれるともちゃんが、卵かけごはんを食べに
きてくれた。こないだは、いっしょに新橋のヘッケルンにいって、卵サンドとプリンを
食べた。そこの主人は、もうすぐ80になるけど、矍鑠としている。
今月は「有吉散歩」にでたらしい。昨年の3月に天真庵も同番組に紹介され、
半年くらいの間、うらぶれた十間橋通りにある、古色蒼然としたお店の前に行列ができた。
ときどき、卵サンドやフレンチトースト焼いて、珈琲をだしたくなる。
「火曜日の朝は純喫茶しませんか」とともちゃんが笑った。いいかもなんばん。

天真庵は、そばと珈琲がメイン。メニューの最初のページに珈琲(といっても
「ホボブラジル」しかないけど)がのっているけど、そばのほうが注文もメニュー
も幅をきかせていて、貞本さんが揮毫した「天真庵」の看板を、ほぼほぼ100%読めない
こともあり、街の人は「十間橋通りのそばやさん」みたいな風に呼んでいる。

先月、名刺をあだっちゃんに新しくデザインしてもろうて新調した。彼女も書道家といいくらい
書がうまい。うちの店に扁額がかかっていて「喫茶去」(きっさこ  まあ一杯お茶を召し上がれ、という意味の禅語)は
彼女が書いてくれたものだ。日本人の「おもてなし」の精神を凝縮した3文字を、飄々と揮毫してくれた気持ちがでていて
ときどき自画自賛するように、通りの向こう岸にいって眺めたりしている。

先々月くらいから、能登珪藻土七輪を使って炭火焙煎を始めた。きっかけは、そのあだっちゃんが、大きな紙袋に
能登の珪藻土七輪をいれて、もってきてくれた、のがきっかけ・・
足立家で永いこと愛用されてきたものだが、母親が旅立たれ、あまり使わなくなったので、「能登でつかってください」
とのことだった。さっそく能登の家にもっていき、ざざえとか、肉などを焼いた。
切り出しの珪藻土の七輪は、遠赤効果が半端でなく、魚や肉を焼いたときに、本領を発揮する。
冗談半分で、その七輪に炭火をいれ、手回し焙煎機で、ブラジルを焙煎してみた。炭は全国にその名が轟く
能登の「大野製炭所」のもの。信じられないくらい、中までカリッと焼けて、これまでとは
似て非なるものができあがった。ちょうど、知り合いが銀座でカフェを始めたというので、お祝いに
「世界一美味い炭火焙煎である」とメッセージを入れて、能登からユーパックでおくったら、気にいって
くれて、毎週ごとに、だんだん量も増えて注文がくる。

昨日も代々木でカフェを始めるという若いくんがきて、カウンターに座って「ホボブラジル」
を所望されて、静かに飲んでいた。帰り際に1k買っていかれた。
あまり忙しくなるのは、よくないばってん、また新規のお客さまになるかもなんばん・・?

そんなかんなで、毎日、ガラガラでうらぶれた十間橋にある古色蒼然たる建物の一階で、
ガラガラと手回し焙煎機をまわすところから、一日がはじまっている。
来週は年越しそばモードになって、老体に鞭打ち、貧乏というのし棒を振り回しながら、
ひがなそばを打つ一週間がくる。今のペースでいくと、来年末はお店の張り紙が
「年越しそば」から「年越し珈琲」になりそうな、そんな気もいたす。
「自分で年越しそばを打つ」というのは残りそう(笑)
その傍らで、ぜんべいやのじいちゃんみたいに、ちゃんちゃんこかなんか来て、UNA帽をかぶり、
ガラガラやって年末を迎えているかもね。      感謝。

月曜の朝は卵かけごはん

昨日の夕方は、元気な女子たちがゆるゆるヨガにやってきた。
いつものように、二階でヨガっている。一階でジミー宮下さんのCDを
かけながら、能登牛すじカレーを食べながら、往年の大女優・高峰秀子さんの流儀なる
本を読む。4歳の時に母親を亡くし、そのお葬式の次の日に東京の叔母に連れられ養女になり、
一年後に蒲田の映画撮影所のオーディションに受かり、小学校もいけず、
55歳に引退するまで、日本の銀幕の大女優として活躍するかたわら、素敵なエッセーも
数多く残した。

その中に、老人の「三種の神器」の話があった。まさに「そのとおり」だと合点がいく。

「昔話」(ほとんどが自慢話で、ジコマ。それに、薬自慢、孫自慢、病気自慢・・)
「愚痴」(前向きなオーラでないので、まわりまで元気をとられる)
「説教」(時代も環境も違う相手にたいして   「こうあるべきだ」「おれたちはこうしたもんだ」・・)

平均年齢は上がってきてるけど、老人力を発揮する年齢も、少し早まっているような感じもする昨今。
壁やPCの画面に「三種の神器」を貼って、「そうならないよう」に精進したいと思う。

今朝は朝から焙煎をしていた。卵かけごはんの常連女子がきたので、ホボブラジルを淹れにいこう!感謝。

おでんのルーツ

昨日は、茨木で合鴨農法をやっている友達が、収穫したお米で
つくった「笑鴨」という日本酒をもってきてくれた。毎年暮れの行事。
今年は能登で、開墾から田植え、収穫まで、機械を使わずにやった。中退したけど、北九州の「さゆり保育園」に通っていたころ、
お昼になると、みんなで「お百姓さん、ありがとうございます」といってから
お弁当を食べていたことを思い出した。ほんとうに、お米を食べられる、というのは、ありがたいことだ。
最近は、マックとかケンタッキーとかを弁当なんかにする母親もあるらしい。
「カーネルサンダーさん、ありがとうございます」というのかしらん。
時代はどんどん変わっていく。

昨日今日と寒くなってきた。そんな時は、「おでん」に「熱燗」がいい。
だれかのエッセーに「おでん 熱燗 むかしの女」というのがあった。
おでんのルーツを若いもんに問うと、「セブン」とか「ファミマが先じゃない」「いや、ローソンでしょ」
みたいな会話になるいそうだ。
諸説あるけど、熊本の「田楽豆腐」が原点というのが、有力説?確かに「でんがく」に「お」をつかると、「おでん・・」。
もともと、田楽、というと、田植えや稲刈りの時に、お囃子や唄や舞をやっていた伝統文化で、歌舞伎のルーツ
だともいわれている。その後、「猿楽」に移行するけど、猿が烏帽子をかぶって舞う「三番叟」(さんばそう)
も、原点は五穀豊穣を祈る儀式である。お米つくりと日本の文化は、きってもきれない縁で繋がっている。

大学も中退(といっても、6年も在籍していたけど)、立命館の広小路校舎という御所に隣接している学び舎に
通った。歩いて5分のところに、「シャンクレール」という有名なジャズ喫茶があった。かのマイルス・デイヴィスも
来日すると通ったほどの名店。ぼくもその名の由来のように、ジャズを聴きながら思案に暮れた・・。
そこから100mくらい下った(京都では御所を中心に、上にいくのを「上がる」、下にいくのを「下る」という)
ところにおでんの名店「安兵衛」があった。いつも「とうふ こんにゃく 名誉冠(伏見の酒)」というのが入り口で、「うすあげ 名誉燗」
が出口。アルバイトのお金が入ったりすると、徳利を10本ほど並べた。給与前は「おいといて」といって、つけがきいた。
のんびりした時代。安兵衛の「うすあげ」は、手焼きしたうすあげ(おあげ)に、九条ネギの刻んだんがぎょうさん入っていた。
それに、和辛子(自分で練ったもん)をつけた酒肴にすると、3本くらいは飲めた。
今は夜の勉強会はやらなくなったけど、ときどきおでんをだした。みんながお勉強をしている時に、豆源郷(ここの主人は京都の豆腐屋で修行)
の大きなうすあげを、たっぷりのネギを刻んで、厨房の中にしゃがんで、一杯やることが極上の独酌タイムやった。

今日は夕方「ゆるゆるヨガ」
ヨガと蕎麦と珈琲がついて、2000円。
二階でヨガをやっている間、下でそばの準備をしながら「能登牛すじカレー」を食べるのがならわしになっている。
昔、京都の木屋町に「いんであん」というカレーやがあった。カレーの上に、牛肉がトッピングみたいに
ころんとのっかっていた。50年以上続いたけど、ある日閉店した。牛肉は贅沢だけど、牛筋で「いんであん風」。
「長く続くお店」には、そこにしかない流儀、みたいなもんがあるように思う。今だに「いんであん」のスパイシーな味が
脳裏にうかぶことがある。まるでボボブラジルからヘッドパット(頭突き)をされたかのように。。。
ぼくのお店は来年15年。珈琲歴を京都の「からふねや」から数えると、47年目になる。

寒気と換気は二律背反するばってん、大事ばい!

木曜日に能登からかえってきた。
高速道路では「明日は大雪になる予報です。冬用タイヤやチェーン
の装備を御願いします」と電子掲示板。車のナビも同じようなメッセージ。
最近のナビはおしゃべり。渋滞情報のほか、工事規制や、道先案内人
みたいに、「どこどこパーキング何分かかる」とか・・・饒舌すぎて、ゆっくり
音楽を聴くこともできない。慣れると、そんなおしゃべりが聞こえないのが寂しくなる?
と車やさんはいったけど・・・
セルフレジで、もたもたしていると「お金を投入してください」と、まるで万引きでもするかのような声
で急き立てられることしばし。反射的に「わかってるわ、きさん・・」とか声をあがたりするので、筆子さん
はぼくといっしょに買い物にはいなないのが、我が家の慣習になりつつある。

昨日は朝はやくから焙煎。途中、できあがった珈琲豆を木の風呂桶に入れて、ふーふー
とチャフを飛ばしていたら、懐かしいばあちゃんが歩いてきた。
近所のマンションで、看板も名前もないけど、自宅をカフェのように開放して、近所の独居老人や
認知の人たちを世話しているスーパーばあちゃん。
福井の兄やんが、末期がんで、先月中ごろから帰省していた。「兄は先月末に召されたわ。
寂しくなったわよ。北陸に大雪の予報がでたので、昨日帰ってきて、これから美容院」
とこと。「帰りによって」というと、「だって仕込み忙しいでしょ?」と気遣かってくれる。
「コーヒしかないけど、一杯ごちそうするわ」といったら、ニコッと笑って、1時間後に
べっぴんさんになって、お店に入ってきた。「ひさしぶりのほぼブラジル、美味しいわ。
能登もそうだけど、北陸には美味しい珈琲を飲ませる店がすくないので、やったらいかが?」
といって笑った。「いやニューヨークかシアトルに出店しようかと思っとるの」と返すと、
「横文字の名前にするの?」と質問されたので「フタバってどうやろか?フタバのホボブラジル・・」
しばらく沈黙があって・・「若いって、いいわね」だって。ぼくももう65歳。フタバよりカレハ?

コロナ渦で、東京から田舎に帰る、というのは、いかなる事情があっても、これまでとは
勝手が違うことが多い。身内であっても、病院や施設には、いれてくれないし、親戚の家
といっても、これまでのように気軽に泊めてもらうには、すこし遠慮したくなる気持ちになる。
新しいなウィルスも、水際作戦を笑うように、どうどうと入りこんでいるようだし、今年
二年ぶりに帰省する人たちも、いつもとはちょっと違う心境をかばんにいれて帰る、そんな感じだと思う。

今日は冷え込んだので、この冬はじめてペレットストーブをつけた。
昭和20年の建築物なので、アルミサッシではなく、木の窓枠がはめてあり、そのままだと
すき間風ですーすーすーな状態。いつもは、そこに養生テープを貼って冬をしのいだ。
ばってん、コロナがこられたので、昨年から、寒気の換気に冬も、すーすーすーのままだ。
昨日は、そんな中で、能登珪藻土七輪で、炭火焙煎をしていたら、もくもくサロンと化して、
東京ガスが設置した警報機が、ウーウー鳴った後に、「空気が汚れています。ご注意ください」
とデジタル声で3度くらい、おらんだ。(おらぶ・・雄叫び?九州弁?)
こちらが、おらぼーごた(おらにたい気分)ある。
「ガスは使っとらんばい。炭火で焼いとると~」・・・なかなかナビとか、スマホとか、
デジタルもんについていけてない今日このごろ・・      感謝。