ぶり起こしが、ぶりを美味しく育てる

能登の家は外浦といわれるところ。冬は厳しい。梅茶翁のある能登町は反対に内浦といわれ、
富山湾に抱かれるようなやさいい海居(かいきょ 三居(さんきょ)という言葉があるけど、能登暮らしは
どちらかというと、こちらのほうが似合う)。
昨晩は、大きな音の雷と豪雨があった。この季節の雷を「ぶり起こし」という。そのたんびに、ふくらぎ、がんど、ぶり
と名前を変えて出世していく。富山湾までたどりついたぶりは、氷見港で水揚げされ「氷見(ひみ)の寒ぶり」は、正月のはれの宴の
千両役者になる。

昨日は、そのぶりになる手前の「がんど」を切り身にし、梅酢をふりかけ、表の洗濯干しのところに、青い網の魚干し網に
いれて、夕食の「きのこ湯豆腐」をつつきながら、酒を飲んでいたら、表でばたばたという音がした。
「あっ」と思ってすぐに表にでたら、野良猫たちが、がんどを盗み食いしていた。
さすが、小さな港町で、漁師たちがくれるお裾分けの雑魚を食べて育った美食猫たち、この季節のがんどのうまさを
見逃すわけはない。なんとなく、怒る気がしなくて、思わず笑ってしまった。

というわけで、今日の朝のちゃぶ台にあがる予定の魚がなくなり、台所で代替えとなった「納豆」の薬味を
切るまな板の音がしている。
明日は、梅茶翁にいって、仕事の打ち合わせ。
その帰りに、穴水の「どんたく」に寄って、何か食料を調達せねば・・
天気がよければ、タコや雑魚たちを、朝飯前に釣ってくるのであるが・・・

厳しい自然の中にあるこの冬は、都会ではあまり感じられない「生きている」を
喜ぶような感性が鋭敏になるように思う。九州産で、寒さはあまり得意でなかったばってん、
能登の冬は、一番よかばいの季節。
「ゆたかさ」とは、自然とふれあい、その自然の一部として生かされている「今ここ」を
感じる力であったり、それに感謝する素直なこころなのかも知れないと、つくづく思う。

IQ(知能指数)やEQ(こころの知能指数)のことは、よく話題にでるけど、
AQ(逆行にある時、それに対応する力)が、これからの時代はものをいいそうな、そんな気がする。
昔から「なにもかも捨て去ってみたら」という禅語に 「放下著 (ほうげじゃく)」
というのがある。そのような気持ちになるこころまで捨て去ってみろ、と言っているように聞こえてくる。
寒い冬は、着るものが増える。でも気持ちは反対に着るものふくめ、荷物を減らす時代かもなんばん。感謝。

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