能登に生きる

昨年は、東京や大阪のみならず、能登に住んでいる家族も、能登の実家に「里帰り」
という現象は稀有だった。さすがに今年は、金沢ナンバーの車(能登は「石川ナンバー」)
が近所の駐車場でよく見られた。
金沢からM子が一泊で遊びにきた。ぼくらが、タコを釣っている間、となりのばあちゃんが海にもぐって
さざえをとっていた。お昼過ぎに「これ、お孫さんと食べて」と、さざえを30匹くらい
くれた。「今日の午後一の電車でかえるので、お土産にわたします」といって、到来もののお菓子と
ぶつぶつ交換。それを見ていたM子が「能登はゆたかだ」と叫ぶ。

M子は、青の旅行バッグと、白い紙袋に、大きなスイカとさざえを15匹いれて金沢までかえることになった。
「孫ばか日記」よろしく、羽咋駅で入場券を買って、ホームまで重たい荷物を運んだ。
「帰りたくないな~ えーちゃん駅は寂しいところやね」と叫ぶ。
この子も大きくなったら、金沢の駅から、どこかの街に住むことになるかも知れないし、いろいろな出会い
と別れを繰り返し、いろんな駅で、悲喜こもごもの人生をおくっていくのだろうな、と思い、手をふって
電車を見送った。

「能登で生きる」という雑誌(能登町が移住者が増えるようにつくった)に、5年前に移住してきた
梅茶翁のしんごちゃんがのった。彼らは、東京で暮らし、ぼくに蕎麦打ちと煎茶道を学び、能登へ移住した。
そこにあった梅林の仕事を手伝っているうちに、うちも「能登病」に感染し、能登に暮すようになる。
前日知り合った「地球知足」の人たちも、「農業を職業というより、生き方
として、農業と向き合いたい」といった。「食べる」という一番大事なものを、見知らぬ国やひと
にゆだね、お金で買って調達する、が、当たり前の暮らしに「これでいいのだろうか?」と疑問した答えとして、家族4人
で能登に移住し、自給自足を目指して「地球知足」という生き方を選んだ。

移住する時に、一番心配するのが「どうやって、どうゆう仕事をして、生計をたてていこうか?」
ということ。都会にいると、まず「お金」のことが一番になる。
そんなこと無視して、「田舎で暮らそう」と強く思うと、固定観念で重たくなった足が少し軽くなって、
前にでる。そして「よし、きめた」になれば、なんとかなるもんだと思う。
「その街で生きる」と決めたら強い。
会社つとめもそうでしょ。「違う生き方ないかな?」といつも思っていても、なかなかやめられない。
ある日会社にいったら、自分の会社が倒産していた、または、突然解雇、みたいになったら、その瞬間から次の人生
を歩みはじめるよね。今は、みんなにとって、そんな出発点やろね、きっと・・

「能登で生きる」で、早朝漁船にのって働き、昼は畑をやりながら、古民家を改装し、
カフェをつくるのを夢みていたしんごちゃんの雄姿が紹介された。天真庵のHPで
テレビ金沢の取材を受けた映像を残している。その時も、ペチカを自作し、梅林で働く映像が
紹介されている。そのしんごちゃんが、この8月で舟から降り、カフェと養蜂と農業に専念
することになった。今日はそのお祝いを我が家でやる。
「タコ焼き」、といっても、生地は小麦粉でなく蕎麦粉。しかもタコは、能登前(海つきの家の前で
とったばかりのタコ)、そして海女さんのように、もぐってとったさざえを「さざえ飯」にして、
「竹葉」で乾杯したいと思う。この秋20歳になるミニチュアダックスの「市松」の長寿も
いっしょに祝いたい。感謝。

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