目で殺す、そんな美人たちが・・

今朝も朝からいい天気だ。世間では「猛暑」という。いわくつきのオリンピックも、そんな最中におこなわれている。
元気に蕎麦を打った。昨日の夕方、京美人?の常連さまが、
珈琲を飲みにきはった。スレンダーで、言葉にまだ京都弁が残り、
とくに、ぼくとしゃべりだすと、「ここ京都とちゃうの」というばかりの
雰囲気に包まれる。京都弁は、百難隠す?

ぼくが通ったころの立命館は、京都御所の隣にあった(昭和51年には、文学部と法学部がそこに残っていた)。
そこから賀茂川に向かってすぐのところに、「山紫水明処」(さんしすいめいどころ)というのがあった。
今でも、事前に申請すれば、中を見ることができる。江戸時代の文人・頼山陽(らいさんよう)の屋敷。旅が好きで、引っ越し好き?だった詩人は、終の棲家
にそこを選んだ。煎茶をこよなく愛し、大分の田能村竹田との往復書簡は、「一楽帖」として、国宝になっていて、今でも煎茶を愛する
人たちの聖地のような存在。現代は煎茶よりも、珈琲のほうが日常茶飯の飲み物になっているけど、日本人の「茶の間健書斎兼居場所」
の参考になる空間がそこにはある。

昭和40年代、北九州の引野中学、というとことろで中学生をしていた。
国語の福田先生が、「頼山陽のこの詩が、起承転結のある詩として、有名なんだ」といって、

京都三条糸屋の娘 姉は十六 妹は十四 諸国諸大名は弓矢で殺す 糸屋の娘は目で殺す

というのを教えてくれた。この詩を知った瞬間、大学を京都(そのころは、京都大学にいこう、と思っていたけど、ノータリン
で・・)にいこうときめた。

小中学の運動会の最大のイベントは騎馬戦。なぜだかそのころの北九州では騎馬戦のことを「川中島」といった。
赤白にわかれ、上半身裸の短パン姿で、ガチンコの騎馬戦をやった。普段から「S肉弾」(エスニクダン)とかいって、
校庭にSの字を竹でかき、赤白に別れ、Sの陣地の中では両足OK牧場。そこからでるときはケンケン、二個
くらい島をまるで描いてつくっておき、まるで巌流島の戦いのように、そこへいくと、両足OKで、その丸い
線が土俵になって、出したら勝ち、みたいな単純な遊びが流行っていた。こう書くと、平和な昭和の時代のわんぱく子供たちの放課後、
みたいだけど、上級生ともやるし、血の濃い大陸のDNAをもった輩も多く、審判も先生もいない時間にやるので、
「血を見る」のは日常茶飯だった。北九州という街は、今でも、ヤクザが多いし、成人式であばれまくる人たちのことが
話題になるのは、そのあたりに源流があるように思う。

すこし明後日の方向に話がいったけど、この騎馬戦「川中島」では、頼山陽の詩が吟じられた。
あの有名な「鞭声粛粛、夜、川を渡る」という詩。上杉軍が、夜中に静かに千曲川を渡って川中島
に向かう姿を吟じているのだ。

田能村竹田が大分にいたので、頼山陽は九州を幾度も旅している。今でも「頼山陽先生が泊まった宿」
みたいな看板があちこちにたっている。大分の耶馬渓(やばけい)というのも、頼山陽が名付けた地名だし、
南島原の有名な麦焼酎「青一髪(せいいっぱつ)」も、「青い海と空が、髪の毛一本で繋がっているようだ」
とうたった頼山陽の詩からとった。

文学的だったり、ヤクザチックになったり、茶人きどりになって話が乱高下するけど、その京美人な常連さまが、最近「水素茶」を
飲み始めた。10日くらいたつ。
軽い気持ちで
「どや、汗がかわってきーへんか?」と質問したら、
「うちな~、汗はくさないけど、屁(へー)が、人を殺すくらい臭かったんやわ。
そやけど、ここんとこ、匂わんようになったわ」と涼しい顔して、言わはった。

「それは、腸内環境がかわったいうこっちゃね。屁の話もなんやけど、『人を殺すくらい臭い』という
表現どうにかせんか?顔ににあってへん」とお返ししたら「ほんまのことしゃべって、なんがあかんの」とかえってきた。

江戸時代からこっち、京都のいとはんやこいさんは、「目で殺す」がそうばやったけど、今日日の京美人は「屁で殺す」らしい。
どちらかいうたら、目で殺されてみたい!感謝。

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