能登にくる前から「あいたい人」というか、必ず出会う人が5人くらいいた。
その一人が、合鹿碗を復元したMさん。昨日ははやくもおそくもない、ちょうどのタイミングで出会えた。
三輪福さんが彼と知り合いだったので、能登の「へそ」みたいなとこで待ち合わせ。
「天領庄屋中谷家」で検索すると、いろいろ興味深い記事がでてくる。「黒川」という場所。
そういえば、地球のへそ、みたいな熊本にも「黒川(温泉)」がある。
4000坪のお屋敷の門の前に駐車場があって、そこで三輪福さん直伝のカタカムナ深呼吸を
やっていたら、屋敷から男の人がでてきて、自然と話が始まった。中谷家の12代当主さん。
「今日は?」と聞かれるので、「三輪福さんとここで待ち合わせをして、Mさんにあいにいきます」
と話していたら、三輪福さんがやってきて、そこから里山をしばらく上った里山に、自分でつくられた
「アトリエ」についた。仕事がら木がいっぱい積んであり、薪ストーブ用の薪も薪棚にいっぱい
ある。人生フルーツの能登版よろしく、庭には、栗や桃やさくらんぼの木のほか、こしあぶらや、
りょうぶ、うどなんかも群生している。
薪ストーブのある応接間に、ジャズが流れていた。とても素敵なボーカルだけど、ピアノは
「彼女に違いない」と思い、「ピアノは片倉 真由子さんでは?」と聞いたら、ピンポンで
はじめて会うMさんも私もびっくり。天真庵でも3度ほど弾いてもらったことがある。
Mさんの復元した合鹿碗(ごうろくわん)は、合鹿という能登のへそのところで生まれた。
もともとは庶民が普段使う生活雑器だったけど、陶器が一般になり、陶器も大量生産で中国で
生産されたりして、ひゃっきんもののようにチープなものが幅をきかし、ところ狭しの日本の家の中で
氾濫している。漆ものも、明るすぎる暮らしの中では不似合いな存在となり、ばりばり化学洗剤で
食洗器で洗う生活から遠ざかる運命にある。そんな漆器の原点みたいな「合鹿碗」をつくるために、
この地に移り住んだMの「思い」が、家の中に満ちている。
彼の合鹿碗は、日本以上にヨーロッパやアメリカのレストランで使われている。コロナ禍で、いくこと
もままならないけど、ランチで3万から5万(日本円)のクラスのお店で使われている。とても
素敵な器。使えば使うほど、古色が醸し出され「あじ」がでる。これまでは、「何年待ち」というのがあたり前だったけど、だめもとで
「在庫ありますか?」とおそるおそる聞いたら「嫁ぐはずだったものが、コロナで待機待ちのが、少しあります」
というので、「では、いただいていきます」といって、ヘソクリをだして、あこがれの合鹿碗を手に入れた。
これからのテーマ「一汁一菜」の原点器でもある。蓋つきの器。土台が「飯椀」と蓋が「汁椀」。きわめてシンプル。
一生もの、というのは、こんなモノをいの一番にあげたいものだ。買うときは少し勇気がいるけど、一生つかって、一度の
「使用料」と「幸福料」を計算したら、タダみたいなものだ。
宇宙の「へそ」みたいなイドコロで談論風発し、庭に自生している、こしあぶら、りょうぶ、あさつき、うるめなどを
土産にいただいた、その瞬間、「ぼくたちの周りにある、椅子、テーブル、陶器や漆器・・はみんな人の「思い」から
できていて、「何か」が振動してそれらを「創造」させている。波動ともいっていいけど、それらが宇宙のすべてを
作り出すのではなかろうか?みたいな声が聞こえてきた。
とても幸せな気分になり、家にもどって、「山菜めし」を酒肴に、能登の地酒を飲んでいたら、友達から
「ニューヨーク州立病院・・」を読んだ、というメール。
あの詩は「人はオギャーと生まれた時から、母や父、空気や風、海や山・・・この世の
すべて享受されていますよ。だから、あらためて幸せを求めることはありませんよ。
幸せをすでに手にしていることに感謝すると、いつまでも幸せに生きていけますよ」と教えてくれる。感謝。