陶九郎のいる茶会

織田流煎茶道のお稽古に表参道ヒルズ裏の茶室へ、10年くらいまじめに通った。
池袋にいたころは、埼京線で渋谷で降りて歩いていった。途中に今は閉店してしまったけど、
いいオヤジがやってる古本屋があった。そこには「銀花」という雑誌がときどき積んであった。
ぼくが、あるだけ、根こそぎ買っていく姿を見て、「そんなにいっぱい買っていくと、だぶっているのも
あるんじゃない?」と主人は心配した。実際、「あ、これあるわ」というのもたまにあって、その時は、
文庫くんや、おかまのMくん、とか、まわりの銀花フアンにお裾分け?したりした。
押上に移ってからは、半蔵門線で表参道で降りて、まずその古本屋にいって、リョックに銀花や気に入った
本をいっぱいしょって、お茶のお稽古、という日が続き、銀花も、創刊から最終まで、ほぼそろった。

能登の家は、本棚はなく、押し入れが本置き場だ。一階の押し入れには「茶と花の本」、台所付近の棚には「料理本」、
茶箪笥の上には、「能登」とか雑誌類、そして二階の寝室の押し入れに「銀花」が全巻収まっている。
能登の冬は寒い。一階の和室の囲炉裏の炭火に鉄瓶をのせ、その中に錫のチロリを入れて、ぬる燗
で体の外と内の暖をとった後、寝るにはまだはやい、という時、布団にもぐって、「銀花」を読み直す。
至福の時間。窓の障子をあけ、UFOの登場を待つが、いっこうに見えない。もっとも、目線は
銀花の記事を追っているので、先方が近づいていても知るよしもないけど・・

昨日は1985年第六十一号「陶九郎のいる茶会」を読んだ。加藤陶九郎、桃山陶の志野・黄瀬戸・織部
を、蘇らせた名匠、といっても今は鬼籍に入っておられるけど・・。
35年も前に、岐阜の建築家や料理人など若い文人たちと、陶九郎翁が茶会をする、という企画。
陶九郎さんといっしょに記念撮影をした写真が大きくのっている。その中に、作務衣をきたクマモン
の若かりしころの雄姿がひときわ光ってでている。
彼は、「金豊舘」の主人だ。招福楼で料理の修行をし、名古屋一、というくらいの名にしおう料理屋だった。
もとより金豊舘は、久保さんの器がふんだんに使われていたこともあり、IT関係の人たち
も時々、舌鼓を打ったもんだ。もっともIT業界の人たちに、器や軸や懐石料理がどれだけわかったか・・疑問だけど(笑)
残念なことだけど、35年前に「若者」だったご主人もこの一月に、旅立たれた。
ぼくが知る限り、日本一の料理人だった。

友を悼み 寝床にはこぶ 手向け酒     南九

今朝は早朝に釣ったハチメめばるの塩焼きを、久保さんの絵志野の長皿にのせた。
金豊舘の夏は、この皿に鮎が踊った。鎮魂。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です