う~ん マンダム

今月19日に、「ワークマン女子」がスカイツリーのところへできた。
開店日からしばらく整理券がでるくらい、お客さんが殺到したらしい。
毎年7月には梅林ガールズたちと、能登で梅仕事をする。その時は、地元の
農協とかスーパーなどにいって、長靴やウェアーなどをワイワイいいながら調達していたけど、
今年は「ワークマン女子」にて、流行りの長靴やかぶりもんをゲットして能登にこられる女子も
増えるのかしらん?

巣ごもり生活の中で、東京でもプランターで野菜や花を育てたりする人が増えているらしいが、
みんなが「野良着」を着てやるほどに至ったとは思いがたい。
昨日カウンターに座って蕎麦を手繰っていたヨガのチカ先生に「なんでやねん?」と質問したら、
「土屋アンナが、かっこよく宣伝した効果ですよ」という。
「あ、あの梅宮辰雄の娘」と答えたら、「あれは梅宮アンナです~」といって、ワークマン女子
のニッカポッカを着こなした「土屋」のインスタを見せてくれた。
名前に「土」がついているけど、土くさくなく都会的でスレンダーで、ニッカポッカがよく似合っている。
でも、普通の女子、とりわけ界隈に住んでいる下町のガラッパチの女子たちが、ニッカポッカはいて、
どこへいくのでしょう・・・?なんて、想像力を働かせようとがんばったばってん、な~んも浮かんでこんかった。

一時期、ゴルフ場にいったら、みんなジャンボ尾崎よろしく、麦わら帽子をかぶって、ゴルフに
興じていた。それと同じだ。本人は「ジャンボ」になった気持ちなんだろうけど、どう見ても、
ゴルフ場の横の畑で、瓜の世話をしているじいちゃんと瓜ふたつだった。

その少し昔の昭和の時代。男女を問わず、鏡を見ては、頬をなでて「う~ん マンダム」
をやっていたことも、同じ現象だ。「なりきりスタイル?」
明日は休みなので、「ワークマン女子」をのぞいてみたい気分なのだが、たぶん
男子禁制なんやろうね。おかまのMくんといってもアカンのやろか?「う~ん、いってみたい」

春はウキウキのてんこ盛り

来週から4月。光陰矢のごた~(これ標準語?九州弁)

今日は「卵かけごはん」から始まる。
この春、近くに千葉大学の「建築デザイン?」そげな学科ができる。
そんな関係で、新入生、その家族、大学のしぇんせーたちが、よく蕎麦を手繰りにこられる。
はやばやと、味噌作りに参加した男子生徒もいたし、昨日は「来年お願いします」と鬼が
笑うような約束をした男子まで登場。「新しい人生の門出」の若い面々とふれあい、子供と
孫の中間みたいな新しい家族がいっぱいできて、幸せな毎日である。
飲食業は、今、大変な状況にあるけど、「みんながふれあう家族」みたいな癒場を味わえる、
という点で、「いい仕事」だと痛感する。

先日、久保さんから「新作」の荷物が届いた。コーヒーカップやミルクピッチャー、にぎり仏、にぎり不苦労(昔から、
手のひらに収まるくらいの仏、とか、ふくろう、とかを旅の安全を祈願したり、自分の苦労や重荷を変わりに
ひきうけてもらうために、身につけていた「お守り」みたいなもん」などが届いた。
営業外時間にきた「おっさ」(有名なデザイナー)が、値段も決めていない珈琲カップを見て「このカップやばいっすね。ください」ともっていった。
あまり数をつくっていないので、バズらないことを願う。なんか、爆発しような予感。

この春から「TENKOMORI」という、「楽しさやウキウキがてんこ盛り」になりそうなブランドを発足した。
昔とった杵柄で、ニューヨークやヨーロッパのギャラリーとも連絡をとりながら、「世界に通用する器」
を、久保さんやこれからの若いアーティストたちとタッグをくんでやってみようと思っている。

久保さんもぼくもロートル(気持ちは若いばってん)なので、企画や運営や営業は、押上文庫の
文庫ちゃんの若い(今ではいいおっさんか?)にゆだねようと
思っている。
今日は押上文庫はお休みだけど、「新作」の打ち合わせをする日になるかもなんばん。

「TENKOMORI」というブランドは、「(天)真庵」と「押上文(庫)」から一文字づつとってつけた。
日本語にすると「天庫森」である。感謝。

引っ越しそばととんさま

昨日は、ふたりの「そばもん」が蕎麦を打ちにきた。
生まれて二回目のそば、きしめんからソーメンまで混じったようなんを、
「お嫁にください」と挨拶にいく家にもっていって、猛反対されていた先方の
両親をくどいたお弟子様がいる。しばらく蕎麦打ちを休み、実業家して活躍しておられた
けど、今年は鼻息荒く毎月蕎麦打ちにきている。

昨日のくんは、お姉さまが引っ越しをされるので、自分のそばを「引っ越しそば」にして
新居の厨房で茹でて振る舞おう、という企画のそばを打った。自分で打ったそばは、形や長さは
問題外で、世界で一番うまいそばに違いないだろうが、人に食べてもらって、喜んでもらうと、
豚が木に登るごた~うれしくなるもんだ。「ごちそうさまがききたくて」の気持ちで、気持ちよい。
なかなかいいそばを打った。

ふたり目のくんは、昨年末に、空き家になったおばあちゃんの家に、押上から引っ越した新婚のおっとくん。
12月29日に「自分で年越しそばを打つ」に参加し、蕎麦打ち初体験。2月には味噌を仕込み、昨年仕込んだ
ものが成功して、5月には家族がひとり増える。おばあちゃんの家には、小さな畑があって、野菜も育て、子育て
をし、ときどき晴れの日にはソバ、という晴耕雨読の現代版みたいな田舎暮らしをはじめたふたり。
水回しという、そば粉と水をまとめていく最初の作業が、30分以上かかり、汗をかいていたが、
身重の新婦がさっとタオルをもって、ぬぐう所作がういういしい。みな新婚のころは、そんな感じ
なのに・・・・春夏秋冬をかさねた人生の秋のころ、「濡れ落ち葉」になったり・・

今日の東京は朝から曇り空。昼から雨らしい。

「晴好雨奇」

この処 これ道場
道窮りなし
出逢いは 人生の宝
雨も奇なり 晴れも好し

蘇東坡(そとうば)の有名な詩。中華料理のトンポーロは東坡肉と書く。
政治的に隠居させられた時、彼は風流に花鳥風月を詩にし、トンポーロを発明した。
それが今でも中華料理で残り、長崎では卓袱(しっぽく)料理になり、天真庵では「とんさま」になった。
天気も「巣ごもり」も、こころひとつのおきどころ。感謝。

明日の朝は「卵かけごはん」

筍が旬

「たけのこがしゅん」

昨日、一年ぶりに織田流煎茶道の先輩夫婦が京都から蕎麦を手繰りにこられた。
千葉に住んでおられるころは、毎週のように、自宅の庭に咲いている季節季節の
花を持参くださったので、天真庵においてある久保さんの掛花などの花器に投げ入れ、花を
愛でながら「そばやの昼酒」を楽しんでおられた。2年前に京都に移住し、
銀閣寺近くの古流の華道などに通いながら風流な隠居生活を満喫されている。
さすがに、昨年は一度も上京する状況ではなかったので、一年ぶりにあいなった。

手土産は「上林」のお茶と筍のたいたん。織田流煎茶道のご用達のような茶。
お返しに、「小うめ星」をあげた。京都の家の庭で、茶花を育て、畑もやっているようなので、
それをペットボトルに入れて、植物にあげると、元気に育つだろう。奥方が「私がその水を
飲んでもいい?」と聞かられるので「もちろん、OK牧場ドス~」と答えた。
「隕石の力」は、植物や犬猫ちゃんには抜群の力を発揮する。人、とくに殿方は「?な顔」するのが多いが、女性は
「平塚らいていさま」の言葉、『元始 女性は太陽であつた』を引用するまでもなく、宇宙と繋がっていはるような気がする。最近は特に、顕著になってきた。

筍は、すぐに能登産のワカメといっしょに「若竹煮」にした。
これをつくっておくと、「即飲み」ができるし、残ったものは、すぐに筍ごはんにできる。
能登の春は、近所の人たちに、やまんごと(たくさん)筍をいただくので、昨年はそれを
メンマ風にしたりもした。能登の春は、魚も山菜もたけのこも美味い。

今朝は、「塩鮭」を食う予定だったけど、急遽変更。
ごはんを研ぎ、早朝につくった蕎麦の出汁に使った、昆布と能登の椎茸をきざみ、
お揚げもきざみ、それらを炊飯器にいれ、甘醤油(醤油・ミリン・砂糖)を少々、「塩鮭」も切り身のまんま入れて、「炊飯」のスイッチオン。
焚きあがったら、鯛めしをつくる時のように、鮭の骨と皮を取り、しゃもじでまぜる。
このブログを書いてから食べる予定だけど、美味いと思う?

池袋にいるころは、3月いまごろに「南條観山展」を二週間くらいやっていた。
京都の「画廊天真」が、長岡京の近くにあったので、そこの主人が開催中に必ず、朝堀の筍を
新幹線で運んでくれた。しかも寝かさず、畑にあったまんま立ててもってこられた。彼は京野菜の目利きで、成功した後、画廊を運営していた。
長岡といえば、「錦水亭(きんすいてい) という筍料理の老舗があるくらい、
筍が美味い。京都の長岡にいく時は、いつもそこで筍料理に舌鼓を打ったものだ。

今日明日は16時までの営業。その後は、「蕎麦打ち教室」
今日明日とも、二組の「そばもん」が、びん棒を振り回し、
おいしい蕎麦を打ちにやってくる。
志ん生さんの名言ではないけど「貧乏はするもんじゃない、楽しむもんだ」と思う。感謝。

ヘッケルとジャッケル

昭和30年代の昔?、そんなアニメがテレビで放映されていた。カラスが二羽でて、おもしろおかしく、
ドタバタしているようなアメリカのアニメ。トムよジェリーほど人気を博さず、
記憶の底からも消去されていた名前を浅草で思い出さされた。

水曜日に、合羽橋の蕎麦道具まで歩いて、くるみ油を買いにいった。「びん棒」という名の
のし棒につける油。おかまのMくんとこから、12年ぶりにもどってきた檜の無垢のテーブルと椅子も
それをつけて拭いてあげると、ピカピカによみがえってきた。

東京の緊急事態宣言も解除され、桜も満開になったので、仲見世をぶらぶら徘徊していたら、後ろから
「おとうさ~ん」といって、肩をたたかれた。産んだ記憶も、仕込んだ記憶もないけど、飲み友達で
三味線のたまちゃんの弟子だったT子だ。仲見世のお店で働いているけど、時短で3時まで働き、
週何日かは、近所のカフェでアルバイトをしているらしい。観光地のお店や宿泊飲食、などどこも
まだ緊急事態宣言だ。「ちゃでも飲むか」と誘ったら、「新橋にジャンボプリンのおいしい喫茶店があり、
来月からそこでもアルバイトすることになったので、いきません?」と逆提案さて、銀座線の人になり、
その喫茶店に到着。

キーコーヒーのロゴの入った看板に「ヘッケルン」と書いてある。
懐かしい喫茶店。玄関のドアには「コロナに負けるな」と主人の手書きの文字。主人の気骨があふれている。
カウンターには、懐かしいサイフォンの器具が並んである。「眠るな」「タバコは三本まで」と書いた張り紙。4時過ぎなのに、ほぼ満席で、しかもほとんど
の人が「ジャンボプリン」を食べている。今年で50周年というお店が、50年前からやっている看板メニュー。
どこの喫茶店にいってもビールしか飲まないことを知っているT子が、そっと「ここはビールはないので、
珈琲かココアにしてね」というので、ジャンボプリンと卵サンドにサイフォンのブレンド珈琲を注文した。
プリンもおいしいけど、混雑している中で、注文を受けてから卵をゆで、パンも手入れのいい牛刀で切り、
卵サンドをつくる気骨に負けた。奇跡のように東京に残っている「純喫茶」を満喫した。「娘をよろしくお願いします」
というと「わかった。びしびし鍛えてやる」と笑った。
ヘッケルンは、「ヘッケルとジャッケルからとって、運がつくように最後に「ん」をつけたそうだ。

素敵な喫茶店を紹介されたお返しに、駅前ビル二階の「ビーフン東」へいき、ビーフンなどをつまみながら、
サッポロ黒ビールと紹興酒を一本あけた。
ここは創業73年。お店には戦後のバラックから始めたお店の写真が飾られてある。このお店は「九州気骨の会」のみんなの集合場所やった。
会長や副会長の松崎くんがフジテレビで働いていたので、自然とそこに集まって、一次会が始まり、
若いころは、梯子して、最後は池袋の餃子楼で朝8時閉店まで飲んだ。駅へいくと、通勤ラッシュ。
それを見て、また踵を返し、駅前の喫茶店にいってビールを飲む。そんな「気骨」のある会だった。
大酒飲みが多かったけど、50の坂や60の坂を超えずに、逝った仲間もいる。化けてでてきても
また飲みたいくらい、いいやつばかりだ。

そんな昔のことを思い出しながら、「銀座サンボア」にいき、バーボンの水割りを2杯づつの梯子酒。
壁に「マリオネットライブ」の張り紙があった。ポルトガルギターとマンドリンのデュオ。
天真庵でも5回くらいライブをやった。4月15日なので「能登休み」にひっかかりいけないけど、
頑張っているようでうれしくなった。

銀ブラの途中に「モンブラン」の本店があったので、入ろうとすると、「作務衣でいいんですか?」とT。
「こないだ浅草のふぐやがいれてくれんかったな!でもインクをときどき買っているので、顔もわれている」と答えたら、
「高級時計のメーカーかと思った」とのこと。いつも使っている「ロイヤルブルー」というインクを買って、
お堀の桜を見ながら、大手町まで歩き、半蔵門線で押上までかえっていった水曜日。
押上駅で「今年の春から近畿大の通信教育を受けるんです」という。「へ~!女子大なんやね。今日は、大学入学祝いね、じゃ~おやすみ」でお開き。

お堀端 二羽のカラスが 千鳥足    南九

引っ越しそば 引っ越し祝い

昨日は、おかまのMくんが「やっと引っ越しが無事おわったわ」の報告に、
三味線の「わかんさん」を連れて珈琲を飲みにきた。
先週能登にいるとき「引っ越し記念の三味線ライブだったはずが、まだおわんないの」
と泣きのメールが入ったけど、昨年10月から始まった、蔵書一万冊の引っ越しが
なんとか終わったらしい。

手に空の短冊の額をもっていて、彼が10月においていった玄関脇の短冊ケースと勝手に入れ替えた。
そして丁寧?に「ほんとうは、引っ越し祝いを10万くらいいただきたいところだけど、いつもお世話になっているので、
この敏さんの書、大兄に私の引っ越し記念として、進呈するわ」といって、笑った。へんな話だけど「ありがとう」と答えた。

カウンターでは、来週から北陸を車で旅する常連さんが、酒を飲んでおられた。
彼の亡きお母様の実家が北陸出身で浄土真宗だという話をしていたタイミングだったので、ときどき
おかまのMくんの、たくまざる不思議シンクロニシティーみたいなものを感じて、お説教じみた
話だが、その短冊の「敏(はや)」さんの話を少しさせてもろうた。
常連さんは、不思議な話と奇妙なMくんとぼくの会話に目を丸くしていた。
「奇遇というか、世の中、不思議なことがあるんですね」というので、「旅の友にどうぞ」と、神棚の上に並べた本の中にあった敏さんの本を一冊お貸しした。

暁烏 敏(あけがらす はや、明治10年金沢の白山市生まれ。真宗大谷派の僧侶、宗教家である。院号は「香草院」。愛称は「念仏総長」。 真宗大学在学時から俳句を作り、号は「非無」
「十億の人に十億の母あらむも わが母にまさる母 ありなむや」この母を思う歌が人柄を表わしている。一昨年の春、金沢の松任駅前にある「中川一政美術館」にいった際に
出逢い、書、とくに途中で病気で視力をなくしてからの字がすごい、という感想をMに話したら、その日の夕方に、「これ引っ越しがおわるまで貸しといてあげる」
ともってきたものだ。
うらぶれた十間橋通りにある、倒れそうな長屋に、一万冊の蔵書と、茶人や文人や宗教家の掛け軸と同棲する不思議な「おかまのMくん」である。

彼の住んでいた旧長屋と、越し先の長屋の途中に、古い米屋さんがあり、昨日のブログに登場したGくんが音頭をとって、その場が
「イベントスペース」になる予定。その改装中の場所のちょっと早い「こけらおとし」として、おかまのMくんが、わかんさんの三味線ライブを
企画したお話。40人以上の人が集まって、三味線に興じたということだ。三味線の音が似合う街、というのも絶滅危惧種にしたいくらい、少なくなった。感謝。

月曜の朝は卵かけごはん

今月のはじめに、105人目の味噌作りが終わり、ほっとしている。
大豆の産地、麹の種類、各ひとりひとりがもっている菌、収納する器(タッパー・甕・ホーロー・樽・・)
、保管する場所によって、味がかわってくる。105種類の「手前味噌」ができあがる、ということだ。

今年はじめて能登にいって、納屋で一年寝かせた味噌をあけて、近所のかたにお裾分けをした。
おかえしに、ざざえ、なまこ、ハチメ、こんかずけ(さばのぬかずけ)、能登名物味噌饅頭、大根、にんじん、ブロッコリー
など、やまんごと(たくさん、という九州弁)がきて、10日間、一度も買い物にいかなかった。
大豆は地元能登の珠洲の大豆、麹は茨木。来年は、能登町の麹やさんのを使うので、身土不二により近くなる。

昨日は蕎麦打ちふたり。ひとりは、3回目くらいの新人さん。夜奥様さからメールがきて、
「3人で7人分食べました」とのこと。もうひとりは、5年選手のG。5年前、二回目の蕎麦打ち
のそばを、フィアンセの家に持参した。猛反対されていた先方の家族も、キシメンからそうめんまで
の不ぞろいのそばだけど、それをわざわざもってくる人間性に惚れて?めでたく結婚し、昨日は
4歳になる嫡女のMちゃんといっしょに蕎麦を打った。

Gは、界隈の長屋の保存をライフワークにしていて、カフェにしたり、シエアハウスにしたり、その道では
有名人になってきた。ぼくのお茶のお弟子さまでもあり、原田先生のもとで花の修行をした同志でもある。
「なんとか、この長屋の街で天真庵のそば打ちを広めていきたい」と鼻息が荒い。
こちらは、そろそろ、「びんぼう」という名の「のし棒」を薪ストーブにくべて、酒でも飲もうか
なんていう境地でいるけど、このところ蕎麦打ちにくる人が増えている。
能登まで追いかけてこられても困るので、あちらには蕎麦道具を運んでいない。
ゆっくり、お茶とおちゃけの晴耕雨読の生活をしたいと思っている。

今日の「卵かけごはん」の味噌汁の味噌は、能登で寝かせた味噌。

顎の話 ぱあと2

顎博士の直してくれたドイツ製の柱時計が、快調に動いている。
「この音を大切にして、まっつぐ(左右にずれるとチクタクの音もずれるらしい)を保ってね」
といわれたように、そこを意識すると、これまで以上に静かだけど、躍動感のあるチクタクが続いている。
しかも、3時には3回のボンボン、5時には5回のボンボンが鳴る。ここで14年近く動いて
いるけど、3時に2回、5時にはサービスで12回、とか不規則なボンボンやった。

魚のアゴは飛び魚のこと。九州では、焼きアゴにして、うどんやそばなどの出汁に使う。
丸干しにして使うのがならわし。能登のアゴは、開いて炭火であぶって干す。
旬は夏で、能登の寿司屋では、アゴのにぎりを出すところが多い。そらをビュンビュン飛ぶ
ような躍動感ゆたかな身は、アスリートのそれのように引き締まっていて美味い。

東京に戻る日の朝、縄文真脇遺跡にいき、その近くの麹やさんを訪ねた。
これまで茨木のおばあちゃんに「生麹」を頼み、味噌作りをしていたけど、寄る年波におされ、
今年でおしまいになった。「きっと醸し文化の聖地」みたいな能登のあるはずだ、とネットで探していたら、
近くにあった。社長さんと名刺を交換した瞬間に「生まれる前から知り合いだった」という感覚になって、
いろんな話をして、麹を実験的に買わせてもろうて、昨日それで味噌を仕込んだ。
また来年の「菌活の会」に、新人の役者麹くんが登場する。

あまりにうれしくなって、「つくしさん」に鮨を食べにいく。12時過ぎだったけど・・木曜平日・・
このコロナ時代に、行列ができている。
挨拶だけだと思い「またくるわ」と声をかけたら、「今年はじめてなんで、ぜひ食べていって・・寂しいこといわんで」と引き止められ、
しばらく待って、鮨を食べた。久保さんの焼き締めの長皿に、12貫の地魚の鮨がのって、岩ノリのお吸い物、
朝どれ雑魚の小鉢がついて、750円。小皿も久保さんの焼き締め。8貫の握りは、550円(もちろん小鉢・吸い物付き)!
いっしょに並んだおばあちゃんが「このお店すごいんですね」と、聞かれたので、手のひらを頭の上でパーにして「大将が算数できんのです」
といったら、すこし間をおいて笑った。回転すしより安く、銀座の高級店に負けない器に、能登前の鮨がのってくる。
間違いなく、能登一の寿司屋になった。

これから5月の連休くらいまで、富山湾のイワシが美味い。
日本で最初につくられた辞書「言海」にも、「氷見のいわし」のことが記載されているくらい。
お金が動くから、イワシより「氷見のブリ」のほうが、有名になっているけど、同じ海の能登側
を泳ぐイワシは、筆舌を超えたうまさなのだ。昨日はまたグラリと大地が揺れた。10年前と
変わりないのは、原発がまだ動いていることだ。世界一魚が美味しい国のまわりの海を、もっと
大切にしたい、と、みんなでまじめに考えたいものだ。感謝。

顎の話

ネットで「顎の話」と検索すると、草市 潤さんの本が紹介される。
佐賀に在中の作家で、99歳までで生きて、おもしろいエッセーと
を残した。
私ごとだけど、昨日宮崎の美々津の叔母が99歳で、天国に引っ越しをした。
叔父と養蜂と製麺所を経営し、幼いころ幼稚園を中退して、しばらくお世話になった。
そこで体験した養蜂や、叔母さんのいりこ出汁のそばが、ぼくの原点になっているように思う。
叔母さん、ありがとう。

話はアゴにもどすと、昨日は朝から仕込みに追われていた。珠洲で「あご」を買ってきて、
そばつゆをつくる準備をしていた。九州でもトビウオを使って「あご出汁」をつくる。
「顎が落ちるくらい美味い」から、九州でも能登でも「アゴ」というようになった。

洒落ではないけど、その時、お店に常連さんで、世界的な「顎の研究家?」のお医者さんが
「っちわ」といって入ってこられた。j医大を今月で退職される、という挨拶。
この奇人先生、巣鴨地蔵通りの縁日(4がつく日)には、にわか骨董屋として、縁日にお店を出していた。
そんな縁で、ときどき「骨董屋みたいで落ち着く」といわれ、天真庵にきて、蕎麦を手繰り、「これ売ってくれる」
とかいって、カウンターの上にぶら下げてある久保さんの珈琲カップなどを持ち帰ったりする。

昨日は、柱時計がとまってあるのを見て、目を輝かせた。世界的な建築家・故・白井晟一先生が
死ぬまで愛用した時計。昨年の暮れあたりに止まった。世界中がとまっているので「いいや」
と思い、一番幸せな時間(3時 おやつ時間)にして、そのままほっといたものだ。
骨董屋というのは、いろいろ古いものを修理して命を蘇さす仕事でもある。
「人の顎を治す」のと「時計の修理」をライフワークにしているその不思議な奇人先生は
「これ、一度修理したいと思っていたんよ・・・いい?」というので、「どうぞ」と
いうと、ポケットからマイナスのドライバーをとりだし、時計の文字盤をはずし、
「今貴重なものになったけど、ビニール袋ちょうだい」といって、オリンピック(近くのスーパー)の袋に入れてお店を
でていかれた。

そして、幸せ時間になったころ電話があり「なおったから、もっていっていい」といい、
生き返った時計をもってきて、またマイナスドライバーでとりつけた。
焙煎したての珈琲を飲みながら談論を風発。30分ほど過ぎたら、「30分は動きました」
「人を治すときは、文句がでるけど、時計は文句をいわないところがいい」と笑い、
十間橋通りをゆっくり闊歩しながら帰っていかれた。なんとも、不思議な骨董屋、もといお医者さんだ。

草市翁の「顎の話」は、

いつものように、安全カミソリでひげを剃っていたら、血がでたので、お店に電話をした。
するとお店の人が「ひょっとして、ひげを剃る時、入れ歯をはずしとなんね?」と言われ、よくよく考えたら、
そのとおりで、入れ歯を洗面所に置いたまま、顎をいろいろ動かし、剃り残しのないように剃って
いたら血がでた・・・・そんな年寄りの日常を、九州弁を交えながら、おもしろおかしく綴ったエッセーだ。

「アゴアシ付き」の講演などすることは、なくなったけど、せめて生きている間は、
顎を使っておいしく食べ、入れ歯ではないけど、髭をそり、自分の足を使って元気に徘徊したいものです。感謝。

今日明日はいつものように12時から16時まで営業。
その後は「蕎麦打ち教室」。

梅茶翁3周年

今週の20日に、梅茶翁の三周年のイベントがある。
今朝は三輪福さんから、梅林の梅が開花した写真がおくられてきた。
「この花さくや姫」よろしく、華憐な花たちが春を告げる。
ペチカをつくる手伝いをしてくれた人や、この3年の間にいろいろ
縁を紡いでくれた面々が集まる。
なんとか都合をつけて、その日に伺いたく思ったけど、「そばもん」
たちのスケジュールがおしていて、あきらめた。

今朝は、波が高く、釣りはあきらめて、近くの里山を散策。
熊はいないけど、イノシシと遭遇する可能性が高いので、マキリ包丁を
もって歩く。ヤブツバキが旬を迎えていて、蕾の枝を一枝ちょうだいする。
玄関に置いてある久保さんの信楽の花器に投げ入れると、家いっぱいに生気が満ちる。
梅茶翁の三周年記念にも、久保さんの信楽の花器をひとつ贈呈した。
きっと今朝は、瑞穂の里山の椿が投げ入れられていると思う。

帰りに野良仕事にでかけるおばあちゃんと会った。
「おはようございます」と挨拶すると、「はーい」と笑顔のお返事。
ニュアンスが伝わりにくいと思うけど、こちらの人の挨拶は、
「はーい」と返すことが多い。真民さん風にいうと、「はい、は、一番きれいな日本語」
だ。

そのおばあちゃんは、金婚式を過ぎたらしいが、結婚するまで、じいちゃんと
あったことがなかった(そのころは、普通らしい)。
じいちゃんは、遠洋漁業の船乗りで、定年までの間、ほとんど海の上の単身赴任。
留守の間に、3人の子供を育てながら、畑をやったり、海藻をとったりしながら
して家をまもってきた、という苦労話を、「このへんの人はみなそう」
と、笑いながら話す。「いつ終わるかしれない余生をゆっくりじいちゃんと過ごしています」
とのこと。

おじいちゃんが、横浜や横須賀の港に着く、と連絡があると、三明(ここから一番近くにあった駅)までバスでいき、
それから羽咋と金沢で乗り換えて、夜汽車で港町まで子供を連れて、合いにいった話を、懐かしそうに話していた。
大正の終わりか昭和のはじめに、ここ富来から新橋まで、二日かけて上京した筆子さんのおばあちゃんも、
同じような感じで東京にでたのだと思う。
♪花嫁は夜汽車にのって・・・だ。

金沢から東京まで2時間ちょっとでいける。能登空港をつかえば、ここから東京もあっという間だ。
便利な時代にはなったけど、不便だったころの「ロマン」みたいなものは、薄れてきたのじゃないかしらん。
なんでも「お金」で買おうとする習慣から、少し事の外に身をおいてみると、「ゆたかさ」の価値がかわってくる。
明日は東京へ。感謝。