今朝の朝日新聞の一面に、そんな紙面がのっていた。
シンコロ時代になって、いろいろな事情で離ればなれになったり、離れたところに住む
恋人たちが、ときどき、「リアル」にあって、昔流行ったシンデレラエクスプレスを待つホームで
ハグしたり、マスクしたままキスをしたりする刹那の週末が書かれていた。音楽もエンターテイメントも恋もリアルがいい!
今年の年賀状で、皮ジャン来てバイクにのった友達Sの写真があった。小学校時代からの親友で、
名古屋郊外に住み、悠々自適な隠居さま生活をおくっている。
高校は別々の福岡県立の高校だったけど、予備校は、いっしょに小倉の「北九州予備校」に通った。
厳しい予備校だったけど、授業が終わると、よく茶店にいき珈琲を飲んだ。
小学校のころ、彼の家には、立派なサイドボードがあり、ジンとか目面しいウィスキーなどがそろっていて、
三交代(新日鉄の城下町だったので、親が不規則に働くのが一般的やった)で、親がいない昼間に、
よく酒をくすねて飲んだ。大人になってからは、彼は下戸に限りなく近いことが判明し、小倉の街では珈琲を飲む思いでしかない。
大学は地元の大学に入学。ぼくは京都の大学にいくことになった。普通なら、このあたりで、別別な人生をおくるようになるハズだが・・
昭和52年大学二年の時、「彼女が名古屋にできた」と告発された。新幹線は福岡-名古屋は昭和50年に開通していたが、学生の分際でちょくちょく
いく余裕はなく、若いふたりの交際を親が認めるような時代でもなく、悩んでいた。それに比べ、小生は、そのころから、ノー天気で、極楽トンボ
よろしく生きていた。アルバイトだけど仕事もちゃんとしていたので、大学一年の時は、車ももっていた。帰省するのも、車を走らせ関門海峡を渡る時に、
「無法松の一生」などを口ずさみながら走ったものだ。それから2年、帰省した後、京都に向かう車にSが同乗した。お金がなかったこともあるけど、そのころは山陰道
は全部できていなかったし、山陽道はまだなかった。だから京都までは、下道の国道を走っていった。
京都のアパートまでたどりつくと、そこで雑魚寝の一泊をし、Sはぼくの車を運転して、名古屋までひとりでいった。
「惚れて通えば、千里も一里」とは、こんなことだろう、と身をもって教えてもろうた。残念ながら、
それからこっち、そんなロマンティックな恋物語が自分の歴にはないけど、Sの恋物語を少しシェアしたような気分やった。
彼女と会うまでの時間、喫茶店でその当時流行っていたインベーダーゲームをやっていたらしい。「名古屋打ち」
という名古屋のご当地戦略法も身に着け、一度見せてもらったけど、元来方向音痴と機械音痴なので、名古屋も京都も
明後日の方向やった。
その後、名古屋の建築会社に就職し、その子と結婚し、ふたりの子供に恵まれた。
名古屋と能登は近いので、今年あたりは能登で飲もう(珈琲か)とか思っている。感謝。