今日から12月。いきなりステーキみたいに、いきなり12月らしい天気になった。
熱燗がおいしい季節だ。
20年くらい「ぶくろー」に会社があり、住んでいた。
正確にいうと、上池袋。大塚も池袋も目白も歩いていけた。
仕事は上池でやり、夕方になると歩いて目白にあったヨネクラボクシングジムで体をつくり、夜は大塚の「江戸一」
や、池袋界隈のきれいなお姉さんがいるクラブ(今ごろの若いもんがいう、抑揚のない、く・ら・ぶ、ではない。
まだキャバクラなるものがない時代、ぶくろにも座っただけで2・3万くらいはする「接待を伴う飲食店」が10件以上あった。)に
いったりしていた。
その当時、「居酒屋の名店を三つあげなさい」、と言われると「江戸一」(大塚)「シンスケ」(上野)「笹周」(池袋)
をあげる左党が多かった。笹周は、池袋西口の商店街の中にあって、囲炉裏の炭火で、魚を焼いてくれた。猥雑な池袋
の盛り場の真ん中にあったけど、お店ののれんをくぐると、別世界。そのお店でよく素敵な女性が酒を飲んでおられた。
「池袋のお母さん」と呼ばれる名物女将。「池袋 やきとん」で検索すると、ロサ会館近くの「千登利」(ちどり)がでてくる。
知らない人も知ってる?くらいの名店だ。ここの名物の「肉豆腐」は、牛肉を煮たうま汁をまるごと吸ったような豆腐一丁がお皿
にでてくる。それだけで、二合半はいけて、ついつい千鳥足で、梯子酒をしたくなる、そんなお店だ。
昨日の夕方、その名物女将が、そば前(能登の竹葉のぬる燗)を飲み、蕎麦を手繰りにきてくれた。齢(よわい)80歳になるけど、現役でお店に立ち、
いつまでも子供のままの飲兵衛たちを鞭をふりふりチーパッパーで、鞭撻(べんたつ)するお母さんだ。
シンコロ禍で居酒屋の苦境が伝えられる昨今だが、どこ吹く風のごとく、矍鑠(かくしゃく)として飄々(ひょうひょう)だ。
いつも選ぶお猪口が久保さんの斑唐津(まだらからつ)。昨日は、おそろいの片口(かたくち)の小皿に、ささみを煮て、
梅味噌をつけて出したら、大喜びされ、梅味噌も買っていかれた。「酒のつまみのお皿に、口のある器(片口)を出すお店も
少なくなったわね」と褒めてもろうた。ぼくも大好きなラッキョウをのせたりする時に使う器である。
目白にお住まいの相方さんに「昔の目白はよかったわね」といった。ぼくの蕎麦の師匠・高橋さんのお店も最初は目白にあった。
師匠もよく通った「古道具坂田 」の店主・坂田さんに、蕎麦農家を紹介してもらって、天真庵のそばがきまった。
天真庵の柱時計が鳴っていた建築家・白井晟一さんの事務所兼家も、その近くの江古田にあった。彼のエッセー「豆腐」は、極上の文章だ。
「白井晟一 豆腐」で検索すると読める?でも「無窓」という本を買ってやってください。何度読んでも至福な気分になるし、人生がゆたかになる。
千登利の「肉豆腐」、白井晟一さんの「豆腐」を紹介したついでに、どこかの小学生が書いた素敵な豆腐の詩をご紹介する。
わぁ~ おかあさん
すごーい
おててのうえで おとうふきって
ち でないの