月曜の朝は卵かけごはん

今年最後の卵かけごはん。
そして、今日が最終営業日。明日からは「自分で年越しそばを打つ」
のと「年越しそば」の引き渡し、地方発送。珈琲豆の販売は、OK牧場。
田舎へ帰れない人が多いので、今年は「東京で年越しそばを喰う人」
が多いみたい。

コロナコロナで明け暮れ、働き方、生き方、これからを、「哲」する一年やった。
人と接する機会が少なくなったぶん、人と接したり、出会ったり、ふれあったり、ハグしたり
することが、いかに大切かを痛感した年でもあった。
これまでバブルがあり、バブルが崩壊しても、グルメのブームがあり、ミシュラぬ国の星印
なんかに右往左往したり、「おいしいものを食べる」に躍起になってきたけど、自宅で慣れない味噌汁をつくり、
ごはんをちゃんと焚き、自家製の梅干しや、香のものを食べてみて、「外食よりも、自分ちの一汁一菜のほうがうまくて、健康てき」
だと気づいた人もあまたいたのではないかと思う。
「おいしいものを食べる」よりも「おいしく食べる」ほうが、各段にうまい生き方。
そして、おいしく食べるコツは、「いい友達(家族)」と食べることが一番。
「いい友達」を作るコツは、「自分がまず、一番いい人になる」ことだ。

坂村真民(さかむら しんみん)さんに、「一番いい人」というのがある。

「一番いい人」

何も知らない人が
一番いい
知ってても忘れてしまった人が
一番いい

禅の話もいらぬ
念仏の話もいらぬ
ただお茶を飲みながら
鳥の声を聞いたり
行く雲を仰いだり
花の話などして帰ってゆく人が
一番いい

別れたあとがさわやかで
過ぎた時間が
少しも惜しくない人が
一番いい     (真民)

鴨も笑う?

6年くらい前、末期がんの鮨職人のKさんが、
毎月8人限定で「気骨のすし会」をやってくれた。「死ぬまでやります」といって、
亡くなる直前まで3年間やってくれた。
ずっと満席やった。おかげで、酢飯の仕込み方や、鮨の握り方まで教えてもらったので
ときどき、「なんとなく鮨を食べる会」をやっている。
K氏を紹介してくれたのが「合鴨農法」でお米をつくっているHさん。
すし会の米も、彼女がつくったお米で、鮨との相性が抜群だった。

合鴨農法とは、田んぼの虫たちを鴨が食べてくれる循環型の無農薬農法。
秋の収穫が終わると、お役目ごめんで、鴨たちはおしめをされ、つまり〆られ、収穫祭と同時に謝肉祭
がおこなわれる。残酷のような話ではあるが、「死」の場面が目隠しされた都会の生活には、無縁な話
のようだが、わたしたちが毎日3食食べているのは、ほかならぬ「ほかの命」ばかりである。
「いただきます」というのは、料理をしてくれた人ではなく、いただく命に向かってするご挨拶。

その合鴨農法でできたお米は、普通にお米として流通しているけど、米粉になったり、とある酒蔵が「笑いかも」という酒に
したりする。昨日は、年末恒例で、Hさんが笑いかもと、鴨肉をもってきてくれた。
いつもはざるそばを所望されるのだが、年末だけは「アレお願いね」といって、鴨の霊が憑依したような笑顔で笑う。
フライパンを温め、鴨の油をひき、鴨肉をさっとあぶって、だし汁の中に、刻んだネギといっしょに入れる。
「鶏そば」と同じ要領だけど、鴨のほうが鶏よりもクセがあるので、かえしに少し薄口醬油を足して味を調整。
H氏は、自分が育てた鴨にネギをくわえて、左手で「OK牧場」のサインをした。
夕べのうちの「まかない」も、鴨なんばん。鴨もあの世で、笑ってくれたかもなんばん?

年末の風物詩のひとつ、「いぶりがっこ」も昨日、酔香の店主・すがちゃんがもってきてくれた。昨日だけで。10本くらい売れた。
彼はぼくより3つ下で、大学はいっしょの立命館。「グレーター立命」を歌いながら、青春を謳歌した同志。
となりの同志社とは、魂をことにする。今年10周年を迎え、「だんちゅー」にも大きく取り上げられた。
うらぶれた十間橋通りにあるお店だが、酒道を歩む人にとっては、目標のお店である。10年前までは、雑誌の編集長の顔を
してたが、今では気骨のある居酒屋の親父さん、といった風格になった。

忘年会もなくなり、年の暮れの感じもうすれているけど、いきつけの「一杯の珈琲屋」や「いっぱい飲む居酒屋」
があることは、幸せな人やと思う。正月も家に帰りにくい雰囲気がただよっている。
「いただきます」と笑って挨拶できる場をもつことは、これまで以上に大切かもなんばん。
常連になると「ただいま」と自分の家に帰ったような気分になる。「ただいま」というのは、今ここ、に
お互いが生きているを喜ぶ挨拶。
「いただきます」「ただいま」が素直にいえるようになったら、もう立派な日本人。
「ありがとう」という日本語がこころに染みるようになる。

今日は日曜日なので16時まで。
二階では復活祭。みんなを健康にするぶん、体調をくずしていたまーくんが、3か月
ぶりにもどってきて「満まめの会」

明日の朝は今年最後の「卵かけごはん」いよいよ年越しそばモード。

年越そばを自分で打とう!

そんな企画をはじめて10年以上になる。
月曜まで通常営業をして、火曜日からは「自分で年越しそばを打つ」という
モードになる。シンコロのおかげで、自分の生き方を変えよう、という気づきの
ある人たちが、蕎麦打ち教室にあまた通ってくるようになった。
暇にかまけて、食っちゃ寝、食っちゃ寝して、シンコロメタボの人が多いなか、
みあげたものだ。自分の命につながりるものを、自分の責任でつくる、というのは
とても大事なことやと思う。一月から始まる「味噌作り」も未曾有の数になるかもなんばん。

プライドだけ高く、うんちくをウンチのように垂れ流す
ような連中が時々入門してくる。そんな連中も、「神様」とは思わないけど、「お客さま」ではあるし、
気合を入れて指導してさしあげる。珈琲は、プロであろうがアマであろうが、珈琲豆にお湯を注ぐと、
同じような液体ができあがる。(味はまったく違っても)。でもそばは、できあがったものが
プロとアマでは「同じそば粉でやったの?」というほど違いがでる。そんな違いがあるので、
うんちくたれオヤジみたいな人たちは、それっきり蕎麦打ちにも、お店にもこない、という人が多い。それもまたけっこう。

クリスマスも「らしくない」日だったけど、年末「らしさ」を感じることが少ない。
やっぱり、シンコロの神様が、わたくしたちの世界を、あっという間に変えて、ゴールデンウィークも、
秋の行楽シーズンも、クリスマスも年末、正月・。・ひょっとしたら、来年も・・・
この一年の延長みたいな日が続くのかも知れない。というか、そんな感じだろう、と思って毎日を過ごし、
明日もしもシンコロさんが「天国にいきませんか」と微笑んだら、こちらも「はい」と微笑み返すくらいの覚悟で、
悔いのない人生、人に打たれようが杭ある人生をせいいっぱい生きていくのが、一番ではなかろうか、と思う今日このごろ。

久しぶりに「今日の真民(しんみん)さん」 こつこつこつこつ、自分らしく一歩一歩・・よね!感謝。

「こつこつ」

こつこつ
こつこつ
書いてゆこう

こつこつ
こつこつ
歩いていこう

こつこつ
こつこつ
掘り下げてゆこう    (坂村真民)

明日で世界がおわり の時がきたら お茶会をしよう!

ネットで「喫茶 茶会記」と検索すくると、不思議なカフェがでてくる。
天真庵で年二回、えりちゃん、こと上原英里さんがシャンソンの弾き語りライブを
やってくれる。「喫茶・・」では、毎月彼女がライブをやっていて、10年になる。
四ツ谷三丁目にあるので、彼女の手書きの新聞を「月刊3丁目新聞」という。
先月天真庵でライブがあった時、その新聞に「茶会記が、12月で緞帳を下げる」とあった。

ちょうど昨日が最後のライブになった。前日に焙煎や年末もろもろ仕込みを頑張り、
昨日の夕方錦糸町から四ツ谷まで総武線にのり、「喫茶 茶会記」にたどりつく。
ぼくが最初に東京にきたころ、ソフトバンクという会社が市ヶ谷の東郷公園のところにあった。
仕事が終わったら、駅前にあったうらぶれた「こまちゅう」とかいうお店でよく飲んだ。
飲みたらない時は、四ツ谷まで足をのばし、「しんみち通り」あたりの一杯飲み屋で遅くまで飲んだ。懐かしい街。

その当時は荻窪に住んでいたけど、仕事が忙しかったので、会社の近くにあったマンションが寮がわりになっていて、
月の半分は寮にいた。そこの寮をねぐらにしていたのは、みな酒好き、仕事好きで、その後、ソフトバンクの
重鎮になった人もいて、ときどき、押上にポルシェやベンツなどにのって、蕎麦を手繰りにやってくる。

ぼくは、一年ちょっとでソフトバンクをやめ、秋葉原で会社をつくった。今の天真庵も、その時つくった株式会社
で運営している。39歳の時、ネット21という業界団体の理事長になり、自分の会社はスタッフにまかせ、
オタクや成金が多い業界人たちと、いろいろ精神的文化力を強化しよう、なんていう若気の至りもあって、ギャラリーをはじめた。
毎日のようにIT業界の人たちやアーティストが集うサロンみたなたまり場。天真庵の原点。皮切りは、南條先生の「寒山拾得ワールド」だ。

昨日四ツ谷を歩いていて、南條先生の画集をつくってくれたイメージライフという会社も四谷三丁目だったことをふと思い出した。
ぼくのエッセーみたいなものを出版してくれた会社も、そのへんにあった。今は昔だ・・・
かみさんの筆子さんも、うちにくる前は、しんみち通りの「すかっしゅ」というステーキ屋で働いていた。4年前にサントリーホールで
N響のコンサートにいった後、しんみち通りから引っ越した「新すかっしゅ」にN響の知り合いを連れていった。その後は、N響メンバーもちょくちょく
肉を食べにいったらしいが、3年くらい前に閉店した。どこの東京の街も、個人で運営する飲食店が少なくなり、チェーン店が幅をきかせている。

7時に「喫茶 茶会記」についた。ワンドリンクつきだったので白ワインを頼む。自分の店でライブをやる時は、そばやつまみや珈琲
の段取りなどが頭にあって、ゆっくり飲めないけど、昨日は客人としていったので、ワインを4杯飲んだ。
3杯目をおかわりする時、お店のカウンターの上には「小林秀雄全集」が並んでいて、その横に井伏鱒二先生の「鞆ノ津茶会記」が
あるのを見つけた。先生の晩年の本。このお店の名前の由来かな?不思議な縁を感じたので、南條先生が揮毫した「寒山拾得美術館」の名刺を店主に渡し、「この先生の先祖は、毛利家と戦った戦国武将で、この本の中に、毛利家と南條家の茶会がでてきますね。あの南條です」と紹介したら、目を丸くして
びっくりしていた。

はじめていったお店が、最後になってしまったけど、不思議な「えにし」を感じる一日だった。
戦国時代という、人殺しや、国とり合戦の時に、浮かばれずに死んでいった魂たちが、こんな不思議な
出逢いを演出しているのだろうか?

親子は一世 夫婦は二世 主従は三世 
  
ひととひとが出会っていく、というのは永世。まことに妙なものです。

クリスマスの不思議なことを書いたけど、シンコロはキリスト教圏内のみならず、全世界をとめた。
一神教、というのは、どこか排他的で、人間の原罪とかエゴを、正当化させるような便利さと危うさを持ち合わせている。
このシンクロで、東京もロンドンもニューヨークもパリなど主要都市の昨日も、ピタリととまった。
シンと静まりかえった自然の中で、ひたすらみんな瞑想をしているようなもの。自然の中にいるのと同じような感覚になる。
自然の中にいることは、自分を見つめていること。これまでのように、仕事や遊びに追われているときは、
自分さがし、や、自分を見つめる時間などない。
ひょっとしたら、自分を見つめたり、見つけたりすることが怖いから、みんな忙しがったり、ひがなスマホの
中でうずくまっていたのかしらん。もしかしたら、シンコロさまは、神にかわって、そんな人間に、大事な警鐘を鳴らしてくださっているのかもなんばん。
これを機に、いろいろ変わらいとね・・アーメン。

冬は熱燗 熱燗つける宇宙人・・

昨日のお昼過ぎに、「かっぽれ女(じょ)」が3人、カウンターに並んだ。3月から寺子屋はやめたけど、
ときどき同窓会よろしく、昼酒を飲みにきてくれる。
ひとりは、K先生。サマーズの三村くんのおばさん。昨年は川口葉子さんがある雑誌に、「かっぽれ」を取材してくれ、大きくのった。
彼女の「カフェ本」は、読んでいるだけで、そのお店の珈琲の香りや、カウンターの中でのミルの音や、
音楽、人の会話、店主のあたたかみ、までが伝わってくる。
一月には新しい本がでるらしい。出版社に10冊注文した。

にぎやかな女子会のようなカウンターに常連の紳士(大会社の社長さん)がとまられた。
天真庵が押上にできたばかりのころ、川口さんの「カフェと器の旅」がでて、その中に紹介され、
その社長(当時は、部長さんやった)が、その本に紹介された全国のカフェ約50店を全部まわられて、
店主のサインをその本に書いてもらう、というお遍路さんみたいな旅をやられた。
その縁で、京都の「好日居」さんところで、お茶会をやることになったり、全国で無駄のない縁でつながる仲間
たちが増えていった。「ひとり」の奇人が動くと、世の中はおもしろくなるもんだ。

昨日は寒かったので、ひとりの女子が「熱燗を飲みたい」といった。ちょうど、「燗つけUFO」という
焼き締めの熱燗器に、能登ジェラトン(隕石粉まじりの器)をのせたセットがあったので、それで竹葉を
つけた。カウンターにだすと「これいい~」ということになり、3セットが嫁ぐことになった。しかもみんなそれの
お仕覆をつくる、という。国宝級の奇人ぞろい。
「うめ星」(能登ジェラトンのはじまり)ができた時も、かっぽれの日に、カウンターにすわった女子たち全員が
「もってかえる」となった日があった。来年は、久保さんと温ため中の「新作」があるので、
また彼女たちがカウンターに座る日に、お披露目しようかしらん・・
酒も旅も、究極的には、「ひとり」がいい。そこに、いい酒、いい器があれば、孤独のグルメ以上の至福がある。

今年はシンコロのおかげで、飲食店での日本酒の消費が落ち込み、酒米もだぶついているらしい。
ぼくなんか、好きな酒蔵にいったら、一升瓶で6本くらい買う、のが普通だけど、一般的には
「四合瓶」の人気が高まっているようだ。お酒も飲みやすいように、アルコール分を減らしたものや、
スッキリした味のものが好まれている、と今年の「ダンチュウー 日本酒」にのっていた。
四合瓶にすると、そのまま酒器に入れて飲むので、片口や徳利の出番がない。
「お風呂に一升瓶といっしょに入り、共にあたたまりながら、そこで酒を飲む」のが、熱燗を
最高にうまく飲むコツだと豪語した立原 正秋という作家がいた。それは極端だが、ヒャッキン器に入れて、チン
する今日日の家飲みからは、そろそろ卒業してもらいたいものだ。柳美里さんの「JR上野駅公園口」
の中で、ホームレスさんがブルーシートの家の中で、カセットコンロで湯を沸かし、そこにワンカップ大関を入れ、熱燗を
飲むところがある。チン酒とは似て非なるくらい、美味いと思う。

シンコロのおかげで、国も企業も、家族も個人も・・・みな「浮き草稼業」の様相を呈してきた。
恐慌や災害がきて、だれもが、避難所や野宿をするのが当たり前、の事態もるかも知れない。
「貯金」も大事だけど、そんな中で生きていくコツは、ホームレスさまとふれあうことも大事だと思う。

月曜の朝は卵かけごはん

例年と違い「忘年会」というものが、この季節になくなったことにより、
年末という雰囲気がどこにもない。
天真庵も「寺子屋」という、月に一度づつの勉強会が3月からなくなったので、
「また来年もよろしく」という区切りみたいなんが、なくなっている。

あえて季語を探すとなると、「年越しそば」とか「今年仕込んだ味噌をあけた」という声
が日毎に増えることだろうか。昨日は、一日で味噌が1k以上売れた。
外食が減って、家ごはんが増えている証だと思う。

東京にいる時は、朝はやくから蕎麦を打ち、焙煎をし、営業時間帯は立ちっぱなしで、
口も体も動かしながら頑張っているので、さほど寒いと感じないし、珈琲の味見と、
夕方になると、蕎麦焼酎のそば湯割りなんかで、のどの渇きをうるおすことが多い。

能登で生活する時は、午前中に釣りや畑仕事をやり、午後は本を読んだり、書き物をしたり
の時間が多くなるので、朝いっぱいの珈琲を飲んだ後は、蕎麦猪口に黒豆茶を10粒ほど入れ、
囲炉裏の鉄瓶か湯をさし、色がなくなるまでお茶を飲みながら過ごしている。3杯くらい飲むと、
蕎麦猪口の底に鎮座した黒豆茶(黒豆を焙煎したもの)を食べる。
朝に具たくさんの味噌汁とごはんの一汁一菜の朝飯を食べた後は、昼はおなかがすいたら、果物とか非常食用のビスコ
を食べたりすることがあるけど、ほとんどが「黒豆」をポリカリするだけで、夕食までおなかがすくことはない。
「豆」とか「果実」というのは、量的には少ない感じがするけど、エネルギーとしては、充分で無駄がない。
「おなかを満たす」というのに錯覚している部分があったな、と反省。

今日の味噌汁の実は、能登の家の畑で収穫した大根やブロッコリーがいっぱい。
それに、輪島の総持寺の近くで買ってきた豆腐。この豆腐は、能登の大地の大豆と、きれいな海からつくった「にがり」
がきいていて、うまい。

香のものも、能登の大根と人参を、梅酢でもんでつくったものだ。お米も、近くの棚田でまじめにつくったお米。
「能登の役者そろい踏み」のような朝ごはん。

年越そばモード

毎年、海の日に大石さんがピアノのライブをやってくれる。今年はコロナ禍で中止になった。
大石学トリオでドラムを担当していたセシル・モンローさんが2011年
の夏に、千葉の海で死んだ。それからこっち、毎夏の海の日に「追悼ライブ」
をやるのがならわしになった。セシルは、ご近所で、駐車場も天真庵の敷地内にあったので、
ときどき駐車場で井戸端会議をしたり、一度テレビにいっしょにでたこともある。
ニューヨーク生まれでいつも陽気で、「この街はブルックリンみたいね」が口癖やった。
確かに、このうらぶれた十間橋商店街はずっとうらぶれているけど、独特のモンローウォクで歩く姿は
、さながらブルックリンの路地裏、といった空気が流れていた。

来年で10年か・・・光陰矢の如しだ。

上原英里ちゃんのシャンソン、国貞雅子、大石学、3つを年末にやれてよかった。
世界中のアーティストたちが、「ライブ」という活躍の場を失い、配信ライブに切り替えたり
しながら、孤高に自分の世界を構築されているようだ。ライブハウスというのも、「三密」の
権現みたく思われ、閉店の憂き目にさらされているのが、実情である。
「三密」のほんとうの意味での「みっつのこころ温まるあつまり」が、来年できるかどうか心配だけど、
「生きてる」を実感する音楽のライブが、世界中でまた日常茶飯になることを、星に祈りたい気分だ。

今日は日曜日。日曜は16時まで営業。その後は「蕎麦打ち教室」
3年間、毎月通ってきて、「もうすぐ師範代?」みたいなそばもん君が、
31日の「自分で年越しそばを打つ」前の仕上げに、本日そばを打ちにこられる。
蕎麦打ちも「職人」のイメージがあるけど、なんとか「芸術」の域まで高めていきたい、と思う。
なにもパリやニューヨークやブルックリンで生きるのがアーティストではない。島国ニッポンの
うらぶれた下町や地方都市、どこでもかまわしない。「ここで生きる」ときめた場所で、
自分らしく生きる人たちは、みな芸術家ではないかしらん。感謝。

大雪の車の中で悟る?今日はライブなので16時閉店

最近はお寺や座禅の道場よりも「車の中で悟る」ことのほうが多いらしい。
坐禅をしていて、表から風が吹いてきた瞬間に悟る、とか、後ろに壁があると思って、
もたれようとしたら、なくて体が床につこうとした瞬間に悟る・・・とか
そんなことが言われたり、書かれたりしたけど、事故にあう瞬間などに「あっ」
と悟ったりすることがままある、らしい。凡夫でのほほんと生きてきたので、
そんな悟りの瞬間を、今だに体感したことはないけれども・・

能登を出発する日は朝から雪が降っていた。畑も雪一色だったけど、辛味大根を収穫。
葉っぱは手でちぎって、畑の畝においた。そうすれば、来年の土になる。畑も、雪と混ぜるように、
鍬をいれた。そうすることによって、新しい空気が入り、細菌や養分がまた活力を発揮するようになる。
今日からの蕎麦は、とびきり美味い辛味大根がつく。(ただし、ざるか梅おろしそば)

いつもと違う海沿いの道を走りながら、走った。山道は積雪が多いのと、除雪ができてない感じだった。
冬の日本海は、鉛色の雲が低い位置に漂い、波はモノクロのまるで八岐大蛇(ヤマタノオロチ)のように
ゴーゴーと音をたてて迫ってくる。能登暮らしも3年。冬も三度目の正直。

ラジオでは、立ち往生の情報や、妙高高原あたりが通行止め、だという。「あわててもしかたないな」と
悟り、和倉温泉の「総湯」という、加賀屋なんかにもお湯を提供する共同風呂にいって、500円で
のんびり朝ぶろ。さすがにお客さんも少なく、露天風呂でショパンやラフマニノフなどのピアノ(このお風呂は年中、クラシックのピアノが流れる)
を聴きながら、この世とあの世の区別がわかなくなるくらい、ゆっくり瞑想。
冬にここの温泉に入ったら、しばらく車の中で暖房しなくても、ホカホカ弁当になったようにホカホカだ。

通行止めの手前のパーキングで、ラーメンが食べたくなった。東京では、年に一度か二度くらいしかラーメンは
食べないけど、雪景色を見ると、パブロフの犬みたいに食べたくなる。
ちょうど、食堂のテレビで通行止めが解除になるニュースが流れ、アイスバーンの妙高高原あたりを走った。
もちろん、車はスタッドレスタイヤ、車の中には、スコップとチェーンも積んでいる。食料も、向こうの冷蔵庫に
あるあまりものをクーラーに積んでいるし、畑と海釣り兼用の長靴を履いている。車の中には、珈琲と煎茶が
いつでも飲める道具が小さな茶箱に積んであるし、七輪と炭まで積んでいる。辛味大根も蕎麦粉も。

トラックはチェーンか、全部のタイヤがスタッドレス、というのが通行止め区間の条件だ。普通車は
冬用タイヤ(スタッドレス)でOK牧場、という条件やった。でもトラックはほとんどが、チェーンをしてなく、
スタッドレスで走っていた感じ。お金はかかるけど、あの大きなタイヤにチェーンをするのは大変な労力だ。

アイスバーンの下りをゆっくり走っていた時、ラジオから、ゆずの「夏色」が流れてきた。

♪この長い長い道を 君を自転車のうしろにのせて ブレーキをいっぱい握りしめて ゆっくりゆっくり下っていく・・

「これだ」と悟った(笑)
還暦過ぎたら、モテキも遠い昔の夢物語みたいなもんやし、ゆっくりゆっくり下っていくのがよろし・・
世界の経済も、これからしばらくの時代は、ゆっくりゆっくり斜陽みたいに下っていく。
ゆっくりみんなで下っていく時代に、「新しい政策でV字回復」とか「コロナ禍でも貯金を殖やす方法」とか、
なんかベクトルが明後日の方向むいているような気がする。力を抜いて、みんなでゆっくりゆっくり下っていくのがけっこう。

今日はあまり集まってないけど、大石さんのライブがある。来年はライブなどがやれるかどうかわからないけど、
「今ここ」に感謝しながら、自分でできること、したいことをやっていこうと思っている。感謝。

19日(土) 「大石 学 ソロ LIVE」

演奏:大石 学(ピアノ)

18時開場 18時半開演 ¥5,000(お酒・肴・蕎麦・珈琲 付き)

記録的な大雪になって・・・

今日は能登町の梅茶翁にいって、先月に引き続き、梅の木の剪定をやる予定でいた。
さきほど、三輪福さんから、メールーが来て、瑞穂の家の周りの雪景色がおくられてきた。
残念ながら、志賀町から山を越えて、たどりつけるかどうかが心配だし、たぶん梅林の
ほうは、50cm以上の積雪だろうから、軽トラでたどり着くのも大変やし、木にのぼれないし、中止になった。

こちらは、囲炉裏の部屋で読書をしたり、音楽を聴いたり、年末の掃除をしたりできるけど、
こんな大雪の中でも外で、大地を踏みしめ、春を待つ梅の木の魂に畏敬と感謝の気持ちがあふれてくる。

こないだ珠洲の大野製炭工場に炭を買いにいった帰り、雪降る能登路を小学生たちが、元気に
歩いて家路を帰っていくところに遭遇した。遠い子は、スクールバスで通い、近くの子は徒歩で
元気に通っている。自然の厳しい能登で生活する小学生たちの学力や体力は、全国平均をかなり上回っている、
ひょっとしたら、トップレベルにあるらしい。脳と体の動かしかたが、都会の子とダンチだ。

そんなことを思っていたら、小さな靴の跡が、長~く歩道についているのを発見。「この道をひとりで帰っていったんだ」
と感慨深くながめていたら、その足跡が突然消えた。気になって、運転手の筆子さんに車をとめてもろうて、
足跡がきえた場所まで歩いていった。そこには小さな祠(ほこら)がある神社で、小学校の低学年らしい男の子が、
雪のつもった小さな傘を傍らに置いて、神様にお祈りしていた。
御簾(みす)というか、とても神聖な気持ちになって、こちらもこうべを45度垂れた。普通にあちこちに「祈り」がある能登。
今の文科省の教育では、行き届かない「根源的な学び舎」を垣間見た気がした。

珠洲の大野製炭工場から山道を降りた海岸線に「みさき小学校」がある。
校庭に大きな標語がかかげてある。ここを通るたびに、大きな声で標語を読み上げる。

「早寝 早起き あさごはん」

こんな小学校に通う子供たちは、しあわせだと思う。
自分も九州で生まれ育った。田舎はいいな、とつくづく思う。
明日はまた東京に出稼ぎ巡業。蕎麦粉をお願いしている農家さんから
「雪で帰れますか?」と電話。どげんしてでも、帰らないと・・・
ライブもあるし、「年越しそば」の注文も例年以上になってきた!感謝。

19日(土) 「大石 学 ソロ LIVE」

演奏:大石 学(ピアノ)

18時開場 18時半開演 ¥5,000(お酒・肴・蕎麦・珈琲 付き)

雪が降る日は・・・

昨日は日本海側は雪になった。
志賀の家を出発した時は、3度くらいたったけど、輪島に入ると1度
になり、珠洲に入ると0度になった。家からすぐにある海岸でも、冬の風物詩
のような「波の花」が雪に交じって、宙を舞っていた。

毎月のように珠洲にはでかける。塩やさん、ジャム屋さん、陶芸家さんのところへいくのが
コースになっていて、もうナビがなくてもいけるようになった。その塩やさんと、ジャム屋さん
の途中の山の中に「大野製炭工場」がある。雪の中で、若き製炭人・大野さんが頑張っておられる。
ネットで「大野・・・」で検索すると、イケメンの大野さんが、炭にかける様子が紹介されている。
30万年前に人類が発見した「火」と「炭」。今では、化石燃料や原子力におされ、石川県でも
専業でやっておられるところは、稀有な存在になっている。

くぬぎの炭を30k買って、雪の能登路をゆっくり帰ってきた。
雪の日はベートーヴェンの「エロイカ」がいい、と伊那で暮らした老子のような先輩がいった。
昨日は「タイム・トウ・セイ・グッバイ」のオーケストラの曲が車のラジオから流れてきた。
クワラントットの作曲したものだが、サラ・ブライトマンの歌が大ヒットした。
20年くらい前、四国の南條先生の家に初めてうかがった時、瀬戸内海の橋を渡っていた時、急に
大雪が降ってきて、「こんな時は、吉幾三を聴こう」というと、筆子さんが猛反対して
「サラ・ブライトマンにして」といわれ、折れて聴いたことを思い出した。

家について、「埋み火」を灰から出して、大野さんがつくった「くぬぎの炭」を置いてみた。
部屋中が、凛とした空気が漂ってきた。昨日釣ったタコの残りの足を、タコ引き(タコ専門の包丁)で
さしみにして、ユズをしぼって、新しい炭の上に置いた鉄瓶に、竹葉を人肌にして一献。
知らず知らずのうちに「雪国」を、鼻歌にしていた。夫婦(人間関係)が持続可能になる真ん中には「忍」が必要。感謝。

寒い日に、大石さんのピアノもいい。一時間はやく始めます!

19日(土) 「大石 学 ソロ LIVE」

演奏:大石 学(ピアノ)

18時開場 18時半開演 ¥5,000(お酒・肴・蕎麦・珈琲 付き)