こんにゃく問答

落語に「こんにゃく問答」なるものがある。
上州のこんにゃく屋六兵衛が、ひょんなことから空き寺の大和尚
になりすまして、永平寺の禅の坊様と禅問答をたたかわせて、
さいごにこんにゃくやが勝ってしまうお話。笑える話であるけど、
深いものも感じられる落語だ。今日日の落語家に、演じられるのか?と思ったりする。

昨日の真民さんの詩にでてくる「隻手(せきしゅ)の公案」というのも、白隠の
「隻手音声(せきしゅおんじょう)」、つまり片手でたたいた音はいかに聞こえまするか?という公案だ。
かいつまんでいうと、「両手を打ち鳴らしてみると、パチパチと音がするけど、片手でやると、
音はでない。でもよくよく集中して瞑想などしていると、空気の音、静かな気配、から一点のくもりない天真(ほんとうの自分)、
まで聞こえてきて、まったく迷いのない境地になる」みたいなことか?禅は、説明しようとすると、すべからく難しいし、むずむずしてくる。

今日のトイレにかかっている日めくり真民カレンダー。

「かなしみはいつも」

かなしみは
みんな書いてはならない
かなしみは
みんな話してはならない
かなしみは
わたしたちを強くする根
かなしみは
わたしたちを支えている幹
かなしみは
わたしたちを美しくする花
かなしみは
いつも枯らしてはならない
かなしみは
いつも湛えていなくてはならない
かなしみは
いつも噛みしめていなくてはならない     真民

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