能登にこんな蕎麦屋があったなら・・

昨日は、栗の収穫祭。
ほんとうは、毎朝畑にいき、落ちた栗を拾う、というのが自然で、おいしい。
でも月に10日しか能登で暮らしていないし、歳月人を待たず、というか自然の
運行は人知を超えたところで営まれているので、また東京にもどる日が近づいたので、
昨日一気呵成(といっても、木の上の方はとれない)に、収穫した。
山の生態がかわってきているので、落ちた栗は、イノシシも食べにきて、イガグリの外のトゲトゲ
だけがころがっているのも多い。野菜と同じように「これは、いのししさんの分よ」と、昨日は
少しお裾分けをした。今朝、畑にいったら、ちゃんと空になって「ごちそうさま」という声が聞こえた。

栗のとなりに、大きな柿の木がある。まだ青いので、たぶん来月はじめくらいが食べころだろう。
ときどき、まわりの雑草やまとわりついた蔓をのけたり、切り上げ剪定をしたりするけど、
水やりも肥料もあげず、里山の中で悠々と春夏秋冬を迎える栗や柿の木の生命力に感謝感激。

今朝も防災用の有線放送が「さざえさん」をうたって、集落の朝6時の目覚まし。スクールバスなどの関係で、
子育てママたちは、ちょうどそのあたりが目覚ましタイムなのだろう。アオリイカが旬を迎えているので、男
たちは釣りのゴールデンタイム「朝まずめ」を狙って、もう沖に伝馬船が連なっている。やはり伝馬船からも
「エギ」というエビの疑似餌でアオリイカを釣る。もともとは木などで自作の疑似餌をつくっていた伝統漁法が
進化発展したものだ。能登半島の秋は、エギングがお祭りのように盛んだ。

今日は徒歩3分の浜でタコを狙ったけど、タコエギの釣果はゼロだった。
朝ごはんは、いつものように「そばピザ」。そば粉を水で溶き(うちはそばかすに水を入れ、ブレンダーでガガガ)、
それをIHの調理器の上のフライパンに流し、刻んだタマネギ、トマト、ピーマンをのせ、とろけるチーズをかぶせ、その上にケッチャプ。
蓋をして5分。その間に、ホボブラジルを入れる。

一枚焼けたとこで、近くの海女さんが「今日は釣れんかった」といってアオリイカを3尾もってきてくれた。
残りの一枚を急遽「アオリイカがれっと」にしようと一瞬考えた。でもそしたらワインが飲みたくなる。夕べも
スペインのワインを一本半あけて、少し二日酔いぎみだったので、「そばぴざ」を作り、残った「そばかす」と「チーズ」
を、アオリイカのお返しにした。この集落のおばあちゃんたちは、みな「がれっとの達人」になってきた。
近い将来、空き家が増え、自治体の力衰え、みんなで共同で「たつき」をやらねばならぬ事態(今、まさにどこもそうかもなんばん)に
なったら、船小屋の空き家を改装して村営みたいな「集落営のそばガレット&直売所」を提案しようか、なんて考えている。
春は「山菜の天ぷら・そば」夏は「夏野菜のそばぴざ」、秋は「アオリイカ(もしくはタコ)がれっと」、冬は「たら鍋の蕎麦だご汁」
・・・・妄想しているだけで涎がでてくる。

今日の夜は、いただいたアオリイカの刺身と、栗ご飯。普通にごはんを炊く準備をして(うちは土鍋)、栗の渋皮をむき、
適当な大きさに栗を切り、能登の揚げ浜式の塩を適宜いれて、はじめちゃろちょろ、なかパッパ、赤子泣いても
蓋とるな~で、15分したら火をとめ、10分ふかしたら、できあがり。
シンコロのおかげさんで、東京から田舎暮らしにシフトする動きがある。「都落ち」などと、首をうなだれることなく、
「自分らしく生きるチャンス」をもろうたという天恩に感謝して、一歩一歩新しいくらしを切り開いていってもらいたい。
「田舎暮らしは、パラダイス酵母みたいに無限の宝がおっぱい、いやいっぱい」なのだ。感謝。