昨日は鳴神のことなんかを考えていたら、夕方ザーッと夕立がきた。
畑の野菜や果物たちが、ひさしぶりのシャワーを浴びてうれしそうだった。
今読んでいるガスト氏のエッセーの最後のほうに、山口瞳さんの「女の匂い」のことを書いてある文があった。
仲の良いふたりは、よく野山や海にでかけ、写生をした。とある日、浦安の桟橋で絵を描いていると
、横に少女が座ってふたりの絵をのぞいた。その時のことを山口瞳は「女の匂いがするので、ふりむいた」
とエッセーに書いた。また「この汗臭い少女と所帯を持っているような気分になった」とも書いた、とのこと。
たかが、10歳くらいの少女のことを「匂い」にする視点というか、嗅覚がすごい。
でも、不思議なアロマを使っていると、「ひとり」の存在が、点、とかでなく、その街、または
その国、この星全体の「匂い」になることがある。そんな不思議な感覚になった。
もともと人間のDNAの中に組み込まれているひとつの、「感」のひとつなのかしらん。
五感の外にある。もうひとつの「予感」のようなもんかしらん。
能登のような自然豊かな中に身をおいてみると、そんな太古の感覚が蘇ってくる時があるようだ。
今日はこれから梅茶翁。春に植えた稲の収穫祭、の予定だったけど、猪に食べられてしまったらしい。
たぶん三輪福さんはご存知だと思うが、猪と共存していくためには、まず猪の食べ物を、
用意しておく必要がある。「これは、きみのぶんだよ」といって、収穫祭の前に、前夜祭をすると、
人間さまの収穫祭は、シンコロの影響もない世界のように、無事おこなわれる・・・・
こんな話をすると、今どきの人は、まゆつばか、へんなスピリ男のたわごと、などと思うだろうが、
ほんとうの話。鳥たちは、木の実をぜんぶ食べつくさず、「来年の分」をちゃんと残す。
晩秋の枯れた柿の木に、ポツンとなんこか柿が残っているの、あれがそう。
畑の野菜、田んぼの稲もおなじように、人間が根こそぎ取っていくのではなく、「きみらのもの」
をちゃんと分け与えていると、和敬清寂な世界が実現できる。もっとも、人間は、自分たちの
社会でも、自分だけ「ねこそぎ主義」が横行しているけど。
来年は、梅茶翁の田圃をお借りして、ぼくらも稲をつくる予定。前夜祭が楽しみである。
昨日、能登の家の近くに東京から移住してきた若者からメールがきた。
若い人の視線は、またいろいろ新しい発見があっておもしろい。感謝。