五一ブランディーと一六タルト

もうすぐ秋だというのに、うだるような暑さが続く。
でも暑い日中に、エアコンもかけず、焙煎をするのは、至福の時。
誰のためにやる、というのではなく、自分らしく生きること、そのもの。
そばを打つのも、茶を入れるのも、花をいけたり、本を読んだりする
ことも、同一線上にある。
絵も書も陶芸も少しかじったりしたけど、才能は皆無に近く、「作品」となるにはに何十里も先な気がした。
でも、「自分らしく生きる」というのは、そのまま「芸術」ではないかしらん。何も美しいものを残す
ようなものはないけど、「らしく生きる」だけでいいか、とか勝手に思っている今日このごろ。

昨日、焙煎をしていたら、突然トビラが空き、おかまのMくんが手土産をもって、
「おかげさまで、新しい住まいがなんとかキープできたわ。今不動産屋にイチロクタルト
をもっていったのよ。ふたつ買ったので、ひとつはおすそわけ」といって、カステラ生地にあんこを
まいた一六タルトをもってきた。彼(彼女?)の母がたのルーツが愛媛なので、ときどきその愛媛の銘菓
を自慢しながら持参してくれる。そのまま久保さんの志野の銘々皿にのせ、焙煎したての「ほぼブラジル」を
飲みながら談論風発。

先日雨の中Mくんが、とある禅僧の揮毫した「天真」という掛け軸をもってきた。坊さんの字
にしては説教くささがなく、飄々としていていい。その掛け軸といっしょに「読んでみて」
ともってきた「無門関」を解説した本がおもしろく、毎夜に五一ブランディーのロックを
飲みながら読んでいる・・・・そんな話を、ときどき、おかま言葉に感染されそうになりながら、話した。

無門関に、こんなくだりがあった。

朝に晩に自由に飲んでいたお茶が一杯のお茶が、改まった茶席に坐ると、
もう無心に飲めなくなる。この有心、この「不自由」を知ってはじめて、
人間は人間になる。この即非こそ、否定を通してふたたび本当に「自由」に茶が
飲めるようになる。この肯定。そこが茶道だ。

*余談だけど、黄檗三筆に、隠元・木庵・即非、という三人の中国人の僧
があげられる。

猛暑の中で、そんなこと真剣に考えていたら、熱中症やシンコロの餌食になりそうだ。
残りのタルトをパクリとやって、パラダイス酵母のシードル飲みながら、ガラガラと
焙煎を再開。
ガラガラという音の先から声なき声が聞こえてきた。
「びょうじょうしんこれどう」(平常心是道)