あさちゃんと打ち合わせ

今日は、朝5時半に起きて、お店の前の植物たちに水をあげる。その後、香取神社に詣でる。
休み中は、頼まくても隣のおっちゃんが毎日水をあげてくれるし、文庫ちゃんが
水甕にたまった雨水をまいて面倒を見てくれる。おふたりには、朝まで能登の家の近くの海に生きていた「さざえさん」
をお礼した。原始的ぶつぶつ交換。資本主義が終焉を迎えたら、「原始的ぶつぶつ交換」が主流になると思う。

10日前に、佐久平で仮眠した時は、22度だったけど、昨日は夕方5時過ぎに立ち寄ったら
30度あった。「これだと避暑地とはいえへんな」とひとりごとをいいながら、汗がTシャツを濡らす。
シンコロで世界がすっかり変わってしまったけど、異常気象も日常茶飯になってきた。
「50年に一度」が毎年になり、「記録的な〇〇」が頻繁に更新、上書きされる。
昨年の冬に妙高高原とか雪深いところに雪が降っていなかった。そのまま年を越し、シンコロで、梅雨は
日照時間が少なく、あけたら命の危険な猛暑。右を向いても、左を見ても、サバイバルな毎日。
人を蹴落としてまで、生き延びようなんて、思いたくなくないけど、政治家やその道の専門家とかいわれている人や、
学識経験者とかいう変な職業の人たちが、上から目線でおっしゃるような「画一的なハウツー生き方」ではないもの。
自分で考え、行動しながら切り開いていくような生き方をしていきたいものです。

今朝はあさちゃんと打ち合わせ。会社を昭和の終わりころ設立してからこっち、35年以上
「たつき」(会計)を「あさちゃん」にお願いしている。ぼくは27歳の時に会社をつくった。あさちゃんは、10歳
年上。もうじいちゃんといわれる年になった。そろそろ「あさじぃ」とよぼうかしらん。
あさちゃんは、ぼくのことを「社長」とよぶ。そろそろ「えーちゃん」と呼ばせようかしらん。
一応、会社は存続しているけど、これからは「会社」とか「社長」とかいう組織の世界ではなく、
それぞれの「個」の力が大切で、その人らしく生きている人は、みんな「アーティスト」のような世界
を歩んでいくのではなかろうかしらん。真・善・美が大事になってくると思う。みんな「この花さくやひめ」
花は咲かんでもいい。「生きる」という気持ちがあれば、花咲かじいさん、ばあさん。

その昔、会社の寿命が平均35年説というのがあった。平成のころはそれが10年未満になった。
きっと令和になり、これからシンコロ時代は、限りなく3年に近い?そんな感じだろうか?
もしかしたら、これまでの「経済学」や「経営学」や「貨幣経済」など、まったく役に立たない世界が、もうすでに
やってきているような気もする。でも会社がつぶれても、自治体がつぶれても、国がつぶれても、みんな生きていくのです。

あさちゃんが、ほぼぶらじるを飲みながら、会計ソフトの数字を見ながら首をひなりながらひとこと・・
「社長・・・3月から夜の勉強会やライブをやっていないんですか?」と聞くので、
「そうですよ」と答える。「能登では、なんか利益をあげることやっていますか?」
と聞くので「いえ、毎日タコを釣ったり、畑をやったりしてますが、お金は稼いでいませんよ」と答えた。
「え・・・!!それで、どうして、食べていくのですか?」と、真剣になるといつもそうするように
黒メガネのふちに手をあて、ワンオクターブ高い声で質問してきたので
「かすみを食べて生きていける方法を能登で身につけた」と答えた、ら、一瞬間をおいて
「ぼくには手におえない世界に到達している・・」とぶつぶついって
「今度能登に遊びにいかせてください」といい、かえっていかれた。十間橋通りを歩いて帰る後姿を
しばらく見送った。3回くらい、首を右に傾けていた。確かに、新しい時代というのは、とかく
わからないことばかりだ。ぼくも残った珈琲を飲みながら、首を右に傾けてみた。「これ」という答え
はないけど、なんか毎日いろいろなことに感謝しながら通っていけば、「なんとかなる」と思う。感謝。