無花果とサラスポンダ

一か月ぶりに能登の家にきて、まず駐車場(二階建ての小屋)についたら、
その小屋の浦にある「さつきの畑」にいく。一月でこんなに伸びるの?といった
具合に名無しの権兵衛草が、あたりいっぱい元気に生い茂っている。
里山に続くこの土地は、肥沃な土があり、徒歩3分の里海からミネラルいっぱいの塩風
が運ばれてくるので、野菜や果物といっしょに、名無しさんたちも元気に共存できている。

昨年は、そこに夏は枝豆、秋に辛味大根の種を植えた。月一の畑仕事なので、蒔く種には限界がある。
もうひとつ、家の横にも小さな畑があり、そこにはネギ、紫蘇、さつまいも、しょうが、などを植えている。
「さつき・・」がぼくがやっていて、家の横は、筆子さんが担当している。

辛味大根の種をまく季節が近づいてきた。先月は畝をつくり、その畑の外に無花果の若木を植えた。
梅茶翁に自生しているものをわけてもろうた。その木の向こうには、栗の木があり、今年もたわわに毬栗が
丸いとげでたくさんぶらさがっている。シンコロや猛暑や大不況と世間は騒いでいるけど、自然の運行は
さらさらと、人の浅知恵を笑うごとく、静かに悠々、である。

公害で廃校になったけど、小学校の3年から6年まで、北九州の城山小学校に通っていた。
西に城山、東に妙見山(火山)、北に洞海湾があり、八幡製鉄所ができるまでは、豊かな漁港だったとこだ。
公害の街として有名になり、よくテレビの取材にきていた。コロロといううがいぐすりで、あまった教室を
「うがい教室」(教室に水道菅をめぐらせ、みんなでうがいができるようにしていた)にして、うがいをする映像
がよく紹介された。

ぼくは、ソフトボール部に所属していて、5年からピッチャーやった。女房役のキャッチャーは笠間くん
で、学校までの途中の妙見神社の脇に住んでいたので、毎朝いっしょに学校に通い、陽が暮れるまでソフトボール
に興じていた。笠間くんの家に大きな無花果の木があった。ときどき、名バッテリーが悪ガキに変身し、ふたりで、熟れた無花果を
もいでおやつにした。きまって、その時に、笠間くんのオヤジが見ていて、つかまり、タバコのパイプで
頭をくらされた(なぐられた、の北九州弁)。ときどき、その雷オヤジの晩酌につきあった。(そのころの
九州では、小学生高学年になると、晩酌の相手をする、のが当たり前やった。北九州の条例でも酒は11才から、とあったのでは?)
上機嫌になると、おやじさんは、自慢のパイプをくゆらせながら、♪サラースポンダー サラースポンダ サーラスポンダー レッセッセ・・
を歌った。教科書にもなく、ラジオやテレビでも聞いたことがない歌だったけど、それがはじまると、手拍子をして、いっしょに
うたう、がならわしになった。オランダ民謡の「糸巻きの歌」だということを後から知った。

大人になり、時々、八百屋に無花果の実が並んだりすると、白みそで酢味噌をつくり、あえて酒肴にして一献することがある。
一説では利休が考案したということで、茶事などにお目見えすることがある。
しかし、無花果の実を見ると、味の記憶よりも、こめかみあたりに残るパイプの痛さや、サラスポンダーの歌
が、パプロフの犬よろしく、蘇ってくる。
うちの無花果(イチジク)が実をつけたなら、サラスポンダーを歌い、収穫祭をやろうか、なんてほくそえんだりする今日このごろ。
ひとの「こころ」とは、不思議なもので、コロロの縁でそんな遠い記憶がもどってきた。

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