長崎原爆75年

今日はそんな日だ。ほんとうは小倉に落とす予定だったのが、天気が悪く、
長崎になった、という記録が残っている。要するに、どこでもよかっった、
勝敗はきまっていたけど、どうしても落としたかった、いうことだろう。
まるで、トランプのカードをめくるような感覚。ゆるせんな~ 毛唐やな。

朝からみんみんみんせみ(ひとつおまけ)が、暑い夏をつげている。
長崎は大好きな県だ。でもはじめていったのが、小倉の予備校に通って
いた時だ。正確には、まだ未成年だったけど、魚町あたりの居酒屋で友達と
酒を飲み、11時くらいの最終電車にのった。「鉄の街」と呼ばれた北九州は、
新日鉄の城下町で、ヤクザも多い街だが、労働者が三交代で、溶鉱炉の火を
消さぬように働いていた。夜勤の人たちが、仕事が終わる朝に、飲む場所がないので、酒屋の
隅のカウンターに立ち飲みの居酒屋ができた。「角打ち」(かくうち)の原点は、北九州。(パンチパーマも・・どこかヤクザチックよね)
ちょっと東京でも流行っているけど、似て非なるものがある。

その最終の電車は「長崎行」で、別名「酔っ払い電車」と呼ばれていた。まだ飲み足らない
飲んべえたちが、ワンカップ片手に、もくもくさろんよろしく、タバコを吸っていた。
終戦というか、昭和を彷彿させる電車やった。気持ちよく酩酊した野村少年は、降りるはずの
「東郷駅」を乗り過ごし、博多も経過し、目が覚めたら「長崎」だった。それがぼくの
「初長崎体験」。
朝6時過ぎに公衆電話から家に電話したら、母がでた。ぼく「今長崎!」 母「はじめてじゃない?ゆっくりまわってくればよか」
ひとつ下の妹の門限が午後6時やった。ぼくの門限は午前がついた。妹がよくそげなイヤミを言っていた。

その旅で一番印象的だったのが、島原の千々和(ちじわ)の海。かの頼山陽先生が島原の青い海を「青一髪」と
表現したような感動があった。
頼山陽と田能村竹田の書簡が「一楽帖」といって、国宝になっている。「またまた一楽」とお互いに
四季折々折の風俗や旅の感動などをやりとりしたものだ。煎茶道では、そんな光景を憧れにしてきた。
彼らとも交友があり、千々和で生まれた南画家がいる。釧雲泉(くしろ うんせん)。やはり煎茶人あこがれの文人。

名は就(じゅ)、字は仲孚(ちゅうふ)、通称は文平、号はほかに魯堂、六石(りくせき)、磊落居士など。一般に知られる号の「雲泉」は雲仙岳にちなんだもの。肥前国島原野田名(現・長崎県島原市千々石町)にて島原藩士の子として生まれる。幼い頃から絵を好み、いつも絵を描いていたという。その後、父に同行し長崎に遊学し、清国人から中国語と南画を学んだ。父の死後は諸国を遍歴する生活をはじめ、その後、江戸で居を構えた。やがて再び旅に出て、備中や備前、京坂、信越を遊歴、晩年は越後国に転居し同国出雲崎で急死した。旅に生きた雲泉は、頼山陽、浦上玉堂、谷文晁、木村蒹葭堂といった当時の文人や画家と各地で交流を結んだ。几帳面で気難しい性格だったといわれ、酒と孤独を愛した孤高の画家として知られる。山水画を得意とし、代表作に「風竹図」「秋深江閣図屏風」などがある。

諸説あるけど、号にあるくらい、豪放磊落で大酒飲みで、預かった神社か寺のお金を使いこんで、ふるさとを後にし、53の時に、新潟の
蕎麦屋で飲んでいて、そのまま召された、という。ちょっと、他人とは思えぬような人生を歩んだ人だ。
先月、雲仙で蕎麦会をやった時にも、彼の石碑がたっている神社を参拝した。
「うまれる前にも、きたことがある」ような「この街はかつて住んだことがありそうだ」とか思える土地がある。
長崎、とくに千々和の海を眺めていると、そんな気持ちがこみあげてくる。なので、そんな風光明媚な土地に住む、
普通の人たちを一瞬にして殺すような原爆を落とした「毛唐(ケトウ)」たちを、魂レベルで許すことが、できんとよね。鎮魂。

明日は旗日だけど、8時~10時まで「卵かけごはん」

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