昨日は広島に原爆が落とされて75年。
押上天真庵の建物もその年の東京大空襲で焼けた後にたったので、75年歳になった。
カウンターの横に、「おじいさんの時計」のような古い時計がある。
建築家の白井晟一さんが、生前使っていたものだ。
白井晟一さんの「原爆堂」計画は、1955年に「新建築」紙上で図面とパースが発表され、
大反響だったが、実現することはなかった。75年たった昨日の阿部ちゃんの貧弱なスピーチが
「今のにっぽん」を、チャチャチャ、と揶揄されるような内容だった。
アメリカでは、「あの原爆は必要ではなかったのではないか」という意見が若者中心に沸騰し始めているらしい。
ほとんど知られていないが、原爆が落ちた後、時の大統領のトルーマンが記者会見し、その時に
アメリカにいた日本人の女性記者が「なんで、勝敗がわかりきっているのに、あなたは原爆を落としたのですか?」と質問
し、愛のないトルーマンの答えに立腹し、柔道の有段者でもあった彼女は、その場でトルーマンを背負い投げした。
でもその瞬間にSPに銃殺され、記事にもならず、歴史から抹殺された、そんな事件があった。熊本生まれの女性らしい。
不思議な縁で、白井さんの嫡男の白井昱磨さんと知り合いになり、今はなき江古田のアトリエによくお邪魔した。
彼が広島に「雪花山房」という、蕎麦の聖地を設計し、その施主である蕎麦の神様・高橋さんのところで、
蕎麦打ちの特訓をした。そんな無駄のない縁から、ぼくは「そばもんのはしくれ」になった。
もうひとつの被爆地、長崎には、白井晟一さんの代表作の「親和銀行」がある。
広島の原爆堂で実現したかった「平和への祈り」が込められているような建物で、
今でも建築家の卵やひなさんたちは、その建物を見に、現地へ足を運ぶ。
ぼくも長崎では、4回蕎麦会をやった。その折には、必ず親和銀行へ足を運ぶ。
今では「親和銀行」もなくなり、神話のような話になってしまったけど、建物は残っている。
白井晟一さんのエッセーで「無窓」というのがある。江古田にあったアトリエ兼住居には、
窓がなく、重い玄関のドアをあけると、そこに「月光」(白井晟一さんの揮毫)が飾って、窓の明かりの変わりをしていた。
その「無窓」の中に「豆腐」と「めし」というエッセーがある。ぜひ巣ごもりの間に、アマゾンで
「無窓」を買って読んでほしい。
原爆記念館には、ある「お弁当」が展示されている。母親が、食べ物のない時代に、子供と大豆をつくり、
米と麦と大豆を使ってお弁当をつくった。その子は被爆地に近い小学校だったので、楽しみなお弁当を
食べることなく、召された。
あらためて、「めし」を読み返してみたら、「見返りをもとめない、母親の無償の愛」を
しみじみ感じた。
巣ごもりが長くなり、家族の三度の「めし」をつくるお母さんは、たいへん苦労なすっている。
でもそこには「恒久平和の原点」みたいなものがある。感謝。