ななみときじばと

今日も天気がいいので、近くの里山を散歩しながら、となりの浜までタコ釣りに・・

藤懸神社の看板を右折し、神社を詣でて、釣り糸を垂らす。
釣果もそうだけど、丁か半かの賭け事も、その時の運によるものが多い。でも今日はそのご利益はなかった。
神社の手前に小さな寺がある。廃仏毀釈までは、神社といっしょだったに違いない。
今朝は、お盆なので、その寺の横にある墓地には、花が手向けれれ、坊さんの般若心経が聞こえてきた。
その墓地近くに立派な「ななみ」(七実)の木がある。九州では訛って「なのみ」という。

赤い実をつける木なので、南天や万両と同じように、昔の庭には、縁起がよいと、よく植えられた。
宗像の実家には、立派ななのみが庭の中心に華道の「真」のように、鎮座していた。ぼくが中学3年の時、
宗像に家をたて、延岡のなにしおう植木屋のせがれの父が、自分で作庭した。近くに山があり、そこに立派な
「なのみ」を見つけ、ふたりで夏の暑い日、一日かけて掘り起こし、レッカー車を頼んで、家に運んだ。
あまりなんでも、うるさくなく、ゆるーい昭和の時代のお話。
その後、赤い実のなるころ、なのみの木の梢にきじばとが、巣ごもりして、卵をあたためたりしていた。
今まさに「巣ごもり」の時代になったけど、自分の家の中の木に鳥が巣ごもりをしただけで、こころあたたまる
ような温かさを感じた木。

311の前の年の秋、愛犬のチワワが旅立ち、東京で骨にし、かば細工の茶筒の中に入れ、実家のなのみの木の下に、埋めた。
目印に「ふーじいさん」が石に刻んだ六地蔵をおいた。生前も元気を孫のようにかわいがってくれた両親は、
毎日仏様にごはんとお茶を手向ける時に、その六地蔵の前にも、水をそなえてくれた。父親が旅立ち、母が施設に
入ったので、実家を売ることになった。先月「これが最後」と庭と家を見て、頭を下げて、その六地蔵を車にのせ能登にもどってきた。
六地蔵を玄関前の小さな庭に置き、水をあげたら、「酒のほうがよか」という元気の声が聞こえた。水を植木にまき、竹葉を入れておいた。
10年くらい九州で暮らしたので、元気が酒飲みになり言葉が九州になっとーと。感謝。

無花果とサラスポンダ

一か月ぶりに能登の家にきて、まず駐車場(二階建ての小屋)についたら、
その小屋の浦にある「さつきの畑」にいく。一月でこんなに伸びるの?といった
具合に名無しの権兵衛草が、あたりいっぱい元気に生い茂っている。
里山に続くこの土地は、肥沃な土があり、徒歩3分の里海からミネラルいっぱいの塩風
が運ばれてくるので、野菜や果物といっしょに、名無しさんたちも元気に共存できている。

昨年は、そこに夏は枝豆、秋に辛味大根の種を植えた。月一の畑仕事なので、蒔く種には限界がある。
もうひとつ、家の横にも小さな畑があり、そこにはネギ、紫蘇、さつまいも、しょうが、などを植えている。
「さつき・・」がぼくがやっていて、家の横は、筆子さんが担当している。

辛味大根の種をまく季節が近づいてきた。先月は畝をつくり、その畑の外に無花果の若木を植えた。
梅茶翁に自生しているものをわけてもろうた。その木の向こうには、栗の木があり、今年もたわわに毬栗が
丸いとげでたくさんぶらさがっている。シンコロや猛暑や大不況と世間は騒いでいるけど、自然の運行は
さらさらと、人の浅知恵を笑うごとく、静かに悠々、である。

公害で廃校になったけど、小学校の3年から6年まで、北九州の城山小学校に通っていた。
西に城山、東に妙見山(火山)、北に洞海湾があり、八幡製鉄所ができるまでは、豊かな漁港だったとこだ。
公害の街として有名になり、よくテレビの取材にきていた。コロロといううがいぐすりで、あまった教室を
「うがい教室」(教室に水道菅をめぐらせ、みんなでうがいができるようにしていた)にして、うがいをする映像
がよく紹介された。

ぼくは、ソフトボール部に所属していて、5年からピッチャーやった。女房役のキャッチャーは笠間くん
で、学校までの途中の妙見神社の脇に住んでいたので、毎朝いっしょに学校に通い、陽が暮れるまでソフトボール
に興じていた。笠間くんの家に大きな無花果の木があった。ときどき、名バッテリーが悪ガキに変身し、ふたりで、熟れた無花果を
もいでおやつにした。きまって、その時に、笠間くんのオヤジが見ていて、つかまり、タバコのパイプで
頭をくらされた(なぐられた、の北九州弁)。ときどき、その雷オヤジの晩酌につきあった。(そのころの
九州では、小学生高学年になると、晩酌の相手をする、のが当たり前やった。北九州の条例でも酒は11才から、とあったのでは?)
上機嫌になると、おやじさんは、自慢のパイプをくゆらせながら、♪サラースポンダー サラースポンダ サーラスポンダー レッセッセ・・
を歌った。教科書にもなく、ラジオやテレビでも聞いたことがない歌だったけど、それがはじまると、手拍子をして、いっしょに
うたう、がならわしになった。オランダ民謡の「糸巻きの歌」だということを後から知った。

大人になり、時々、八百屋に無花果の実が並んだりすると、白みそで酢味噌をつくり、あえて酒肴にして一献することがある。
一説では利休が考案したということで、茶事などにお目見えすることがある。
しかし、無花果の実を見ると、味の記憶よりも、こめかみあたりに残るパイプの痛さや、サラスポンダーの歌
が、パプロフの犬よろしく、蘇ってくる。
うちの無花果(イチジク)が実をつけたなら、サラスポンダーを歌い、収穫祭をやろうか、なんてほくそえんだりする今日このごろ。
ひとの「こころ」とは、不思議なもので、コロロの縁でそんな遠い記憶がもどってきた。

能登の一日目

危険な暑さの中、車に本と陶器と絵と、クーラーボックスの中に、
保冷剤変わりに、そばと汁を冷凍したもの、カレーを冷凍したもの、
そばかす(ガレットの材料)、前のアコレで売ってる一袋98円のカチワリ氷、
パラダイス酵母・・・などを入れて出発。
水筒ふたつに、アイスコーヒーを入れて運転中のガソリン補給。

だいたいいつも、佐久平のパーキングで仮眠。気温が22度。さすが避暑地。
車用の網戸をネット買ったので、無駄なガソリンを消費することなく、心地よく寝れる。
小さなペットボトルに、「上喜元」を入れてきたので、それを「マイぐい飲みきんちゃく袋」
に入った久保さんの志野のぐいのみでナイトキャップ。
朝は鳥の声におこされ、さながら高原の別荘で過ごしたような気分になる。かたかむな呼吸法?
をして、顔を洗って出発。ナビの目的地は「神代温泉(こうじろおんせん)」。
深夜12時を高速上で迎えると、高速道路の料金が3割?くらい割引されるので、東京から
片道6500円で、OK牧場。

10時過ぎに、氷見の神代温泉に到着。無人の玄関入り口に、1000円(ふたりぶん)入れて入浴。
都塵がいっぱいの体とこころを洗い流してくれる。
その後は「すしのや」にいって、鮨ランチ。まだ12時前なのに、並んでいた。毎月くるので10%
の割引券があるので、ふたりで3200円のところが、3枚でおつりがきた。(ほとんど地魚のすし)
「ゴーツー トラブル」は、東京もんは、仲間外れにされたけど、それを使わなくても、たとえば
このコースの後、能登をぐるりとまわっても、けっこう思い出深い旅ができると思う。

一日目は、「何もしなくて、即飲み」と決めている。同じ集落に住むおばちゃんがやっている「タコ焼きや」
で、たこ焼きを買い、能登の家についたら、そく飲む。クーラーボックスのカチワリ氷が、まだ少し
凍っていたので、安土さんの「へちかんだグラス」に、角を注ぎ、水割りにして飲んだ。

今朝は6時に起きて、近くの港町まで15分ほど歩き、「たこやん」という疑似餌でタコを釣る。
先月最終日にタコを5分で2尾ゲット。今回も、釣りはじめの2投目にいい方のタコが釣れた。
客人の予定もないので、そのまま買い物袋にタコを入れ、神社にお参りし、近くの畑野良仕事をするおばあちゃん
たちと、少しエッチな四方山話(今日はタコとエロスの話などをしたら、おばあちゃんたちが入れ歯が落ちるんじゃない?くらい笑っていた)を
しながら、道草くって家にもどる。近所の人と、珈琲豆なんかとぶつぶつ交換した、トマトやキョウウリなどが、サラダになり、デザート
も畑つながりのおばちゃんにもらったスイカ。なんとも、身近な地産地消で身土不二な能登暮らし。
。吝嗇家もびっくりするほど、お金を使わない暮らしの実験室?
基本的に一日二食。夜は、島原でゲットしてきた島原ソーメン。梅味が大好きで、それを東京からもってきたソバツユで
食べる予定。今朝つってきたタコ・・・今冷凍庫。2時間くらいそうして、塩を使って洗うと、ヌメリをとる水の量が少なくてすむ。
明日の朝は「あこがれのタコガレ(たこのガレット)」
ぼくがまだ30代とか40代やったら、海辺の家を買って、「タコガレや」をやるけどな~。

日曜の夕方は蕎麦打ち 月曜の朝は卵かけごはん

3月から「寺子屋」とライブはず~~と中止。
読む本はいっぱいあるし、飲む酒も売るほどある。ので、けっこう
充実した夜を楽しんでいる。少し酒の量は増えてきてるけど、なあに、
どうせ人間一生に飲む量は、おおよそ決まっているし、そこまでは
毎日痛飲していきたいと思う今日このごろ。
久保さんも、いろんな酒器や茶器の新作をつくってくれるので、
エターナル新人よろしく、それに酒や茶を入れて、楽しんでいる。

「蕎麦打ち教室」と「そったく焙煎塾」は、この巣ごもり期間に「新人」
が入門してきた。「金継ぎ教室」も、このブログを読んで?なのか、新人が
入門してきた。
そろそろ能登で「タコ釣り教室」でも開設してみようかしらん。これからサバイバルな時代に、
貴重な「技」を伝えることができそう?

昨日の「そばもん」は、今きておられるお弟子さんの中で、一番古参になった。
マイのし棒を持参でやってくる。茨木の「くらしの実験室」での蕎麦打ち教室も手伝って
くれたりして、はたして師範代レベルになってきた。今はつまらぬIT業界とやらに身を
おいておられるけど、そろそろ横に卒業して、蕎麦道を歩く日も近いのではないかと、ひそかに思うている。
蕎麦打ちの時、そばの切れ端ができる。これまでは、それで「ガレット」をつくって食べる、が
、基本だったけど、昨日は「そばピザ」の作り方を伝授した。「くらしの実験室」から野菜を頼んで
おられるし、お店レベルの質のいい「そばピザ」を堪能したに違いない。

今日は「山の日?」いわゆる祝日だけど、8時から卵かけごはん。

勝手に自粛で、夜は暗くなったころ閉店(18時)にしている。
明日からしばらく能登休み。久保さんにつくってもらった丸い志野の皿を
まとめて能登の家に運ぶ。タコやイカを釣って、能登の家では毎朝「タコ(イカ)ガレ」にすることが
多くなってきた。志野の「燗鍋」(かんなべ)も車に積んだ。アニメの「風立ちぬ」で、戦争中に
主人公が祝言をあげるシーンを見て、久保さんに作ってもらったものだ。
今もある意味、戦争中みたいな時代。モノやコトを大切にする時間がもどってきそうな気配もある。
家で酒を飲む機会も増える。ヒャッキンのぐい飲みで飲むと、万年100円程度の「ゆたかさ」が均一。
作家もの、で酒を飲むと、飲むごとに「古色」がついて、知らぬ間に買った値段とは比べる必要もない
「ゆたかさ」がこころの歴の引き出しにたまっていく、そんな気分が味わえる。
これからの時代は、そんな「ゆたかさ」を日常のささいな一刻の中に見出して生きていきたいものだ。感謝。

長崎原爆75年

今日はそんな日だ。ほんとうは小倉に落とす予定だったのが、天気が悪く、
長崎になった、という記録が残っている。要するに、どこでもよかっった、
勝敗はきまっていたけど、どうしても落としたかった、いうことだろう。
まるで、トランプのカードをめくるような感覚。ゆるせんな~ 毛唐やな。

朝からみんみんみんせみ(ひとつおまけ)が、暑い夏をつげている。
長崎は大好きな県だ。でもはじめていったのが、小倉の予備校に通って
いた時だ。正確には、まだ未成年だったけど、魚町あたりの居酒屋で友達と
酒を飲み、11時くらいの最終電車にのった。「鉄の街」と呼ばれた北九州は、
新日鉄の城下町で、ヤクザも多い街だが、労働者が三交代で、溶鉱炉の火を
消さぬように働いていた。夜勤の人たちが、仕事が終わる朝に、飲む場所がないので、酒屋の
隅のカウンターに立ち飲みの居酒屋ができた。「角打ち」(かくうち)の原点は、北九州。(パンチパーマも・・どこかヤクザチックよね)
ちょっと東京でも流行っているけど、似て非なるものがある。

その最終の電車は「長崎行」で、別名「酔っ払い電車」と呼ばれていた。まだ飲み足らない
飲んべえたちが、ワンカップ片手に、もくもくさろんよろしく、タバコを吸っていた。
終戦というか、昭和を彷彿させる電車やった。気持ちよく酩酊した野村少年は、降りるはずの
「東郷駅」を乗り過ごし、博多も経過し、目が覚めたら「長崎」だった。それがぼくの
「初長崎体験」。
朝6時過ぎに公衆電話から家に電話したら、母がでた。ぼく「今長崎!」 母「はじめてじゃない?ゆっくりまわってくればよか」
ひとつ下の妹の門限が午後6時やった。ぼくの門限は午前がついた。妹がよくそげなイヤミを言っていた。

その旅で一番印象的だったのが、島原の千々和(ちじわ)の海。かの頼山陽先生が島原の青い海を「青一髪」と
表現したような感動があった。
頼山陽と田能村竹田の書簡が「一楽帖」といって、国宝になっている。「またまた一楽」とお互いに
四季折々折の風俗や旅の感動などをやりとりしたものだ。煎茶道では、そんな光景を憧れにしてきた。
彼らとも交友があり、千々和で生まれた南画家がいる。釧雲泉(くしろ うんせん)。やはり煎茶人あこがれの文人。

名は就(じゅ)、字は仲孚(ちゅうふ)、通称は文平、号はほかに魯堂、六石(りくせき)、磊落居士など。一般に知られる号の「雲泉」は雲仙岳にちなんだもの。肥前国島原野田名(現・長崎県島原市千々石町)にて島原藩士の子として生まれる。幼い頃から絵を好み、いつも絵を描いていたという。その後、父に同行し長崎に遊学し、清国人から中国語と南画を学んだ。父の死後は諸国を遍歴する生活をはじめ、その後、江戸で居を構えた。やがて再び旅に出て、備中や備前、京坂、信越を遊歴、晩年は越後国に転居し同国出雲崎で急死した。旅に生きた雲泉は、頼山陽、浦上玉堂、谷文晁、木村蒹葭堂といった当時の文人や画家と各地で交流を結んだ。几帳面で気難しい性格だったといわれ、酒と孤独を愛した孤高の画家として知られる。山水画を得意とし、代表作に「風竹図」「秋深江閣図屏風」などがある。

諸説あるけど、号にあるくらい、豪放磊落で大酒飲みで、預かった神社か寺のお金を使いこんで、ふるさとを後にし、53の時に、新潟の
蕎麦屋で飲んでいて、そのまま召された、という。ちょっと、他人とは思えぬような人生を歩んだ人だ。
先月、雲仙で蕎麦会をやった時にも、彼の石碑がたっている神社を参拝した。
「うまれる前にも、きたことがある」ような「この街はかつて住んだことがありそうだ」とか思える土地がある。
長崎、とくに千々和の海を眺めていると、そんな気持ちがこみあげてくる。なので、そんな風光明媚な土地に住む、
普通の人たちを一瞬にして殺すような原爆を落とした「毛唐(ケトウ)」たちを、魂レベルで許すことが、できんとよね。鎮魂。

明日は旗日だけど、8時~10時まで「卵かけごはん」

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しゃが

昨日は東京は35度の猛暑日。
いつも、能登休みの時、となりのおっちゃん(といっても、ぼくよりひとつ下)が、
自分ちのプランターに水をあげるタイミングで、うちのプランターや植木にホースを
使って水をあげてくれる。昨日はあまりに暑い日だったので、海水浴の後のシャワー
のように、朝一の水やりをやってもろうた。下町の人は、実に親切な人が多い。

夕方に文庫ちゃんが珈琲を飲みにきた。彼は自分ちの屋上にプランターを設置し、
野菜をつくっている。先週、トマト、きゅうり、万願寺トウガラシ、ハーブを
いただいた。おかえしに、「能登ジェラトン(隕石入り器)の瓢箪」をあげた。
昔から、左党(酒飲み)には、瓢箪がよく似合う。

お店の前には、有田の火鉢がふたつ置いてある。そこに雨水をためて、植物たちに水をあげる。休み中は、文庫ちゃんがやってくれる。
下町には、ほんなこつ、親切なおかたが多かこと。
「おかげで、しゃがも元気になった」というと、「しゃが?」と不思議そうな顔をした。
漢字で、射干・著莪と書く植物。アヤメ科の多年草で林下に群生 し、高さ50〜60センチ。葉は剣状で5月ごろ、黄色い斑点のあるアヤメより小さな白い花を咲かせる(不定期やけど)。お花の原田先生がよく教室で使ってくださり、いっしょに並んで花のお稽古をした美人のTさんが、吉祥寺の庭からもってきてもろうたものだ。
原田先生も、Tさんも鬼籍に入られた。ヤバネススキや、シャガなど、花材が残り、ときどきふたりに手向けるように、花器に飾ったりする。
昨日は、押上文庫に一鉢もってかえってもろうた。そのうち、ぼくも彼に手向けられるのだろうか。自然のうつろい、というのは、そげなもんだ。

今日も東京は33度の予想。
猛暑とシンコロ・・・・暑い夏は続く。
来週の火曜日から能登休み。

原爆堂

昨日は広島に原爆が落とされて75年。
押上天真庵の建物もその年の東京大空襲で焼けた後にたったので、75年歳になった。
カウンターの横に、「おじいさんの時計」のような古い時計がある。
建築家の白井晟一さんが、生前使っていたものだ。

白井晟一さんの「原爆堂」計画は、1955年に「新建築」紙上で図面とパースが発表され、
大反響だったが、実現することはなかった。75年たった昨日の阿部ちゃんの貧弱なスピーチが
「今のにっぽん」を、チャチャチャ、と揶揄されるような内容だった。
アメリカでは、「あの原爆は必要ではなかったのではないか」という意見が若者中心に沸騰し始めているらしい。

ほとんど知られていないが、原爆が落ちた後、時の大統領のトルーマンが記者会見し、その時に
アメリカにいた日本人の女性記者が「なんで、勝敗がわかりきっているのに、あなたは原爆を落としたのですか?」と質問
し、愛のないトルーマンの答えに立腹し、柔道の有段者でもあった彼女は、その場でトルーマンを背負い投げした。
でもその瞬間にSPに銃殺され、記事にもならず、歴史から抹殺された、そんな事件があった。熊本生まれの女性らしい。

不思議な縁で、白井さんの嫡男の白井昱磨さんと知り合いになり、今はなき江古田のアトリエによくお邪魔した。
彼が広島に「雪花山房」という、蕎麦の聖地を設計し、その施主である蕎麦の神様・高橋さんのところで、
蕎麦打ちの特訓をした。そんな無駄のない縁から、ぼくは「そばもんのはしくれ」になった。

もうひとつの被爆地、長崎には、白井晟一さんの代表作の「親和銀行」がある。
広島の原爆堂で実現したかった「平和への祈り」が込められているような建物で、
今でも建築家の卵やひなさんたちは、その建物を見に、現地へ足を運ぶ。

ぼくも長崎では、4回蕎麦会をやった。その折には、必ず親和銀行へ足を運ぶ。
今では「親和銀行」もなくなり、神話のような話になってしまったけど、建物は残っている。

白井晟一さんのエッセーで「無窓」というのがある。江古田にあったアトリエ兼住居には、
窓がなく、重い玄関のドアをあけると、そこに「月光」(白井晟一さんの揮毫)が飾って、窓の明かりの変わりをしていた。
その「無窓」の中に「豆腐」と「めし」というエッセーがある。ぜひ巣ごもりの間に、アマゾンで
「無窓」を買って読んでほしい。

原爆記念館には、ある「お弁当」が展示されている。母親が、食べ物のない時代に、子供と大豆をつくり、
米と麦と大豆を使ってお弁当をつくった。その子は被爆地に近い小学校だったので、楽しみなお弁当を
食べることなく、召された。
あらためて、「めし」を読み返してみたら、「見返りをもとめない、母親の無償の愛」を
しみじみ感じた。
巣ごもりが長くなり、家族の三度の「めし」をつくるお母さんは、たいへん苦労なすっている。
でもそこには「恒久平和の原点」みたいなものがある。感謝。

♪土佐の高知のはりまや橋で・・・

先日昇華された弘田三枝子さんの「よさこい節」がラジオから流れた。
なかなか艶冶な声で、ほれぼれした。

高知県土佐清水市 大岐の浜という、ウミガメが産卵する海岸に、友達がおもしろいホテルを経営している。
時々メールをもらう。ぼくのことを「栄一さん」という。少し気恥しいが、その言い方が、接客をともなう宿泊業の人の丁寧さ、だと思う。
「海癒」(かいゆ)という。非日常で、自然を思いっきり堪能したい人におすすめの宿。
今は温泉施設もできているけど、まだ作り中の時に、2泊したことがある。四万十川の浮沈橋をわたったり、
川や海で遊び、夜はホタルのひかりを眺めながら、ワインを飲んだ。
その時はじめて「五一わいん」の一升瓶を堪能した。

先月、能登から東京にくる途中、小布施で「五一ブランデー」を調達。
昨日の夕方、たまたまカッポレの相方が、遊びにきた。彼は古希を過ぎたし、
カッポレで、男同志で手をつないで、芳町(男専門の遊郭)に通う、というような踊りを
するのは、濃厚接触になるし、先生もそろそろ八十路を迎えることもあり、しばらくかっぽれ
が踊れていない。

そんなこともあり、「ままよきんたまおとこのこ」よろしく五一ブランデーを、安土さんのブランデーグラスに入れて、
ロックで飲んだ。ビール一杯で真っ赤になる相方は、さすがに37度のブランデーのロックを
飲むと、茹で蛸のようになった。
いろいろなブランデーを飲んできたけど、五一ブランデーはなかなか芳醇な香りとのどこしがいい。
先月、能登の梅で梅酒をつくったけど、五一ブランデーで梅酒、というのもよさそうだ。
ワインと同じく、一升瓶で売っている、というのがすこぶる愉快だ。

巣ごもりが日常になり、大きな声で笑ったり、談論風発する機会が減り、みな少し鬱な顔している。
たまには、気のおけない仲間と酒を酌み交わし、「今ここ」を語り合うくらい、いいではないか、
と思う。しばらく、夜の勉強会は自粛しているけど、ときどき、はめをはずす、のも大事だと思う。

月曜の朝は卵かけごはん

茨木県の八郷(やさと)に「暮らしの実験室」という農場があり、
若い移住者が中心になって、無農薬の野菜をつくり、その野菜を餌
として、平飼いの鶏を育て、卵を販売ししている人たちが頑張っている。

ぼくも、一昨年までは、そこで育った蕎麦を楽しむ、という収穫祭で
蕎麦打ち指南をおおせつけられていた。スタッフも蕎麦打ち名人になり、
こちらも能登と東京の二股暮らしになったこともあり、今は、野菜と卵を
定期的に買わせていただく、という関係に落ち着いている。

毎回、おくられてくる野菜や卵の箱の中に、彼らの暮らしの実験ノートみたいなレポートが
入っていて、それを読むのも楽しみのひとつだ。都会にいると、「何が食べたい」というところを
起点に、近くのお店で、材料を調達する。でも畑で四季折々の野菜を育てると、まず畑の野菜
たちと忖度しながら、「今日はトマトがいっぱいとれたので、サラダにして、残ったものはケチャップやジャムを
つくり・・・」という具合になる。でも毎日食べても飽きないくらい、自然の中で、へんなものを足さずに
育った野菜たちは元気だ。そして、それを食べたひとにその元気の波動が伝わっていく。天地自然の理。

今回は、トマトが4種類きたので、毎日サラダにしたり、今朝は「そばピザ」にしたりして楽しんでいる。
「自分たちの命は、口に入る食べ物から生まれてくる」という当たり前のことを、再確認できる。

これから「卵かけごはん」。主役の卵は、もちろん「暮らしの実験室」の卵だ。感謝。

たんぽぽはたんぽぽ

人と比べない。自分らしくいきる。
たんぽぽはたんぽぽ、桜や梅やチューリップになる必要はない。
自分と向き合う時間が多い昨今、そんなことをふと思う。感謝。

久しぶりに今日の「真民さん」

「タンポポ族」

タンポポ族は
フラフラしない
グラグラしない
純一だからだ

タンポポ族は
クヨクヨしない
メソメソしない
根強いからだ

タンポポ族は
ペコペコしない
ヘラヘラしない
野人だからだ

タンポポ族は
平和を愛し
幸福のため
立ち上がる
それはタンポポの
花ことばだから      真民