お金持ちになる方法

昭和51年に京都で暮らすようにようになった。
その年の秋に、からふねやの本店を任されるようになった。
下鴨神社の近くにあって、カウンター5席、ふたりがけのテーブルがふたつ、
満席になっても9人という小さな珈琲屋。
セブンイレブン方式で、朝7時から夜11まで営業。お昼は手間がかかるので、
アルバイト(近くのノートルダム女子の人らが多かった)を使って、毎日朝から
晩まで、珈琲時間やった。

駐車場はなかったけど、ゆるい時代だったので、お店の前に一台おけた。
時々、「これはあかんでしょ」という左カンドルの大きな車(リンカーン)が止まった。
主人は呉服商を営んでいた人で、立命館の先輩だということもあり、誘われて一度西陣にある会社に
遊びにいった。

立派な三階建ての自社ビルで、最上階の社長室に入ると、ふかふかの絨毯(なぜだかあのころの社長室の
絨毯はふかふか。ソファーもふかふか、が流行りだった)。美人の秘書が珈琲を入れてくれた。
「あんたの珈琲ほどうまくないで・・・」と笑いながら、いろんな話をした。
その会社の名前に「ひさご」がついていた。「ひさご伝票」という会社もあるけど、
日本人にとっては、「ひさご」(瓢箪)は縁起のよい名前とされ、屋号に冠するものが流行ったころがあるようだ。
通りに面した窓の横に、ひさごの掛花がぶらさがり、そこに白い侘助が一輪投げ入れてあった。
リンカーンとは真逆な美意識みたいなんが、そこにあり、「不思議なおっさんやな」と思っていたら、
「風水や。部屋にひょうたんを置いていると、悪い気がなくなるやねん。陰陽師の安倍晴明さんもそんなこといわはったわ」

そういえば、そのビルにいく道の途中に「晴明神社」なるものがあった。
「せっかくやから、金持ちになる方法教えてあげよか」と、高そうな葉巻をくゆらせながら
いうので「はい、教えてください」と、高校時代から吸っているショートホープを吸いながら、どんな風に
すれば、こんなお金持ちになるのかな・・なんて楽しみにしていたら
「使わんこっちゃ」と、単刀直入にのたまわれた。なんか、瓢箪から駒、どころか、狐につままれたような話
だったが、それから何年かして、東京にきて、27歳の時に会社をつくってこっち、いろんな金の苦労をしながら
「使わんこっちゃ」の意味が最近すこしわかってきた。でも「お金持ちになりたい」という夢は、もともともっていないタチかもなんばん。

お暇(いとま)する時、「これ財布にいれよし、お金がどんどん増えるで。でも使わんこっちゃ」といって、象牙でできた🐢(かめ)を土産にもらった。
「ひさご」と「かめ」が、奏功したのか、なんとか人さまに迷惑をかけず、従業員スタッフには、給与を遅延することなく、会社を運営
できてきた、と感謝している。でも「使わんこっちゃ」という金言を守ることをいっさいしていないので、いまだに毎朝、びん棒、という名の
のし棒を振り回して、蕎麦を打つ毎日。

先週、銀座の王子が蕎麦を手繰りにきたと時、能登ジャラトン(隕石粉入りのセラミック)でできた「ひさごの根付」をプレゼントした。
その時もらった「亀さん」のレプリカのうおうなもんを久保さんに作ってもらった。
一昨日、浅草に向けて散歩している時に王子からメールで「ひょうたん、カメさん・・・○○個づつください」と注文が入る。
人生は、同じようなことが繰り返される。そんな妙味が味わえてきたら、お金よりも「ゆたか」なものが、いっぱい見えてくる。感謝。

そばピザ

先週から、突然はじめた「そばピザ」が好評だ。
昨日は卵かけごはん。朝のまかないは、「そばピザ」にした。
仕込みをしながら、珈琲ではなくシードルを飲みながら、ピザをほうばる。
なんとも、ファーズトフード店の朝、みたいで、不思議な気持ちになる。
しかし「和バスコ」の辛さがきいて、美味い。そばより、ピザのほうがでるように
なったら、どうしよう?
昨日は、六本木でお店をやっている人たちもきて、ワイワイがやがや蕎麦を手繰ったり、
ピザを食べながらビールを飲んだり、楽しい一日やった。

少し落ち着いて、王子が突然カウンターに座った。最近鎌倉のほうに引っ越し、
畑仕事をやっていて、夏野菜やいちごなどを育てている。サーフィンや海釣りも
始めたらしい。さすがに、ぼくと同じ「宗像族」の末裔のDNAがときどき悪さを
するようだ。

そんな四方山話をしていたら、文庫ちゃんが野菜をもってやってきた。
押上文庫の屋上が、野菜菜園になっていて、夏野菜や万願寺とうがらしを
もってきてくれた。「できる男?」たちは、みな土を耕しはじめている。
文庫くんも、「そばピザとハートレンドビール」を所望して、王子と
「野菜つくり」の話に興じていた。
「隕石」を畑つくりに応用すると、不思議な成果がでる。
まだこの星の人たちはほとんど気づいていないが、昨日偶然にカウンターにとまった「ふたり」
は、先駆者。もっとも王子は、「隕石」に関しては、第一人者になりつつある。
「隕石直売所 銀座」で検索したら、王子の宇宙人みたいな日常が見え隠れする。

金のように輝く時間

「金継ぎ」がブームらしい!
あまり知られていないが、天真庵では時々「金継ぎ教室」をやっている。
カンタン金継ぎと、漆を使った本格的な金継ぎと、両方やっているけど、後者は
「かぶれる」人があまたいるので、「シンコロにもうるしにも負けない」ような元気な
人だけがときどききて、筆子先生のもとで、楽しそうにやっている。

昨日は、連休最終日。毎日けっこう忙しく、そばも2時くらいに売り切れたりしていて、
昨日も早朝からばんばん元気に蕎麦を打ったけど、昨日は暇やった。
最初にこられたのは、お弟子様で、手土産にガーベラをもってきてくれた。それを
ピアノの上の升たかさんの花器に投げ入れた。昨日は桔梗の花が一輪しかなく、それも少し
しおれていたので、ガーベラを投げ入れたとたんに、天真庵の中がぱーっと明るくなった。
ガーベラの花言葉は「希望」。そん子は、シンコロで余裕のできた時間を有効に使い、千葉に畑を借りて
「百姓」の入門をはたしたらしい。そんな話をする目に「希望」の光を感じた。
「自分らしく生きる」を見つけた人は、みな美しい。

すこしおくれて、マスクした女子が入ってきた。久しぶりで、誰だかわからんかったけど、
マスクをとったら、お茶のお弟子様M、で、「なんだ、おまえか」と、ご無沙汰の挨拶をした。
そん子は、ぼくがお茶を教えていた時の最後のお弟子様。能登に半分移住をきめた時、
教室の緞帳を下げた。それからあとになっても「煎茶を学びたい」と熱心に、のたまうので、
織田流煎茶道の後輩の先生に頼んで、弟子入りさせてもろうた。ときどき、天真庵の二階で
その先生と稽古をやり、昨年は星野村の新茶の玉露を相伴させていただいた。
なかな見事で美味しいお茶やった。

最近、そのかごんまのよかおごじょ(鹿児島のいい女)が、金継ぎを始めた、らしい。
父上自慢の白薩摩のぐい飲みを金継ぎした写真をみせてもらった。
金継ぎは、金繕いともいう。欠けたり、割れたりした器を、漆でつないで、そこに銀やら金
やらをぬる。「古いものを大切にする」というもったいない精神と、割れたところに、金や銀を
ぬり、新しい「けしき」として愛でる、という日本人のわびた精神も内包している。

ちょうど、「隕石粉入りのぐいのみ」が、お客様の粗相で壊れたのが一客あったので、
「これ継いでみるや」というと、目を丸くして「いいんですか?」という。
時々、木祖の漆やに金継ぎを頼む。だいたい、ぐいのみを直してもらって、一万から一万五千円かかる。(手間からいって安いと思う)

金を磨くのに、先人たちは、「鯛の歯」を使って道具をつくり、金をピカピカにしてきた。
「どうしてる?」と聞いたら、「オリンピック(近くのスーパー)で、鯛の頭を買ってきて、あら煮にして、
歯をとったら、だめでした」という。養殖の鯛の歯は、小さくもろい、らしい。それで、錦糸町の駅前の
なんやらいう老舗の魚屋で、天然の鯛の頭を買ってきて、またあら煮にして、歯をとったら、
うまくいった、らしい。

「えびで鯛をつった」ような気分になった。でもおごじょの目も同じように、キラキラ星だ。
「できたら、もってきます」とかえっていった。さて、どんな具合のものができるのか楽しみだ。
シンコロのおかげで、素敵な「私の時間」を過ごす人も増えてきた。そんな人たちと新しい「共に楽しむ」
という幸せ時間を共有する。至福の時だ。

蕎麦打ち教室をやっている時、おかまのMが「ポリカリせんべい?」を持参してやってきた。
「九州の雨が心配で、Sさんに電話したら、元気だったわ。Sさんが言ってたけど、わたしのこと、おかまのM
でブログにちょくちょくでてくるんでしすって・・・?わたし、おかまじゃなく、おんな好きのホモ、よ」とのこと。
Sがいたり、Mがいたり、男や女や女好きのホモ?がいたり・・・いろんな人がいるから、人生おもしろい!感謝。

料理が楽しくなる「しいたけ」

先週の土曜日、蕎麦会の日の午前中、じゅんちゃんの「南島原ボールドハウス」にも紹介されている南島原の古民家を3件
見せてもらった。蕎麦会のお礼に「もう一軒、南島原に家をもって、トリプルライフをしてください」との約束の履行、
ということらしい。古い家を見るのは、きらいじゃないので、じゅんちゃんコンシェルジュについて、まわった。
2件目の家が、昔栄えた商店街から徒歩5分くらいの坂道をのぼっていくところにあった。石畳や石垣の苔むした感じ
がいい。玄関には蹲(つくばい)があり、庭に葉蘭や木賊(とくさ)が今を忍んでるように生きていて、家のあがり口には、沓脱石がおかれ、
家びとはいなくなったけど、「魂」が残っておられる。なんだか茶会によばれたような気持ちになって、靴をぬいだ。

床の間には、「御玄猪・・おげんちょ」(池坊専明が、立花という華道に使うために考案した花入れがおいてある。古銅のしっかりしたものだ。)
庭の葉蘭や木賊を生けたりしたのだろう。芦屋釜?と思うような立派な釜もそのまま置いてある。
お茶とお花を嗜まれていたのだろう。軸は、寒山拾得。お元気な時に、蘇州の寒山寺を旅し、買ってこられたものに違いない。

その部屋にある仏壇に頭を下げて、開帳させてもろうた。道元禅師の木彫りの像が置いてあり、傍らに
「典座教訓」が置いてあった。すぐ近くに曹洞宗のお寺があり、そこの若い雲水さんたちは、ときどき、
なつきくんの「くちのつ巷珈琲焙煎所」の二階で坐禅をやっている。茶禅一味が、現代風になり珈琲禅一味だ。

その前日、延岡のお寺にお参り。野村家先祖代々を祀ってある。
親父の実家があったとこと、おふくろの実家があったとこの真ん中あたりに、100年以上続く「しいたけや」がある。
親父の父は、界隈では名にしおう庭師で、おふくろの家はその近くで魚屋を営んでいて、
植木屋のせがれと魚屋の娘がお見合い結婚して、ぼくが生まれた、ということだ。
今は、しいたけやだけが残り、マンションをたて、一階がお店になっている。いつも延岡にいくと、そのしいたけやにいって、しいたけを買ってくる。
そのたびに、典座教訓であまりに有名な話を思い出す。

道元さんが中国に仏教の修行に行った時、船である港についたら、齢60を超えた僧が、
日本製のしいたけを買っていた。話をしていたら、お寺のまかない(典座・・てんぞ)だと
いう。片道三十四里あるいてきた話を聞いて、若い道元は「あなたのようなお寺には、若くて修行中の雲水
がたくさんいるでしょうに、わざわざどうしてこられたのですか」と聞いた。
典座が「わたくしの修行です。」と答えた。
道元さんが「台所仕事は若いものにまかせて、座禅したり、弘案のことを考えたり、いろいろあるでしょうに・・」というと、
典座は大笑いし、「あなたは、まだ何もおわかりになっていないですね」といって、踵をかえし、また三十四里をかえっていった。

禅の「居」、というか、台所でも「今ここ」になりきった老典座の生きざまを見て、若い道元さんが悟ったお話。

今日は日曜日なので16時。それから「蕎麦打ち道場」。明日の朝は卵かけごはん。
今朝は、延岡の「しいたけ」をつかって蕎麦汁をつくる。ぼくもまだまだ雲水のようなものだが、歳だけは
老典座に近づいてきた。感謝。

最強の媚薬酒?

ネットで「無煙竹ボイラー」で検索すると、長野の「モキ製作所」のつくった竹のボーラーの
映像が見られる。能登の家のボイラーを石油から、これにスイッチしようか、なんて考えている。
早速朝釣りの合間に、近くの里山を散策しながら、竹林の様子を見学。タヌキさんに出会ったり、
へびさんがいたり、山の中は、和敬静寂、自然そのものだ。
数か月前に、足が痛い、というお弟子様の依頼で、ビワの葉っぱをみつけ、持ち帰ったことがある。
山の中は、薬草や木の実が豊富で、病院や薬学などない時代は、みなまわりの自然の中に「薬」のありかを知っていた。

「またたび」の木を発見。「ねこにまたたび」ということわざがあるくらい、猫はまたたびが好きで、またたびをあげると、
不思議なフェロモンを感じて、「ね~してして・・ニャンニャン」みたいなポーズをとったりする。
別名、「夏梅」といい、梅の花のような華憐な花がさき、あのごつごつとした緑の実をつける。
それを、魚用のビクに入れ、東京にもって帰った。35度の「純」という焼酎がお店に常備してあるので、
それに漬け、オリゴ糖を入れて、仕込んだ。年末あたりに飲み頃になるだろう。
茨木の八郷(やさと)に、10年前くらいまでやっていた蕎麦屋の女将さんに「またたび酒」を飲ませてもらったことがある。
ご主人はマタギのように、山で熊や鹿を銃で撃ち、ジビエそば?みたいなものもメニューにあった。
「これ飲んだら、今夜は大変よ」と、齢(よわい)80近い女将がニヤリと笑った顔を今でもおぼえている。
最高の媚薬なのだろうか?酔いにまかせ「マタギの股をまたぎたくなるのですか?」と、聞こうとして、飲みこんだ(笑)

昨日は、新作の「そばピザ」がたくさんでた!もっとも、そばが2時過ぎに売り切れたので、その後は、
ガレットかそばピザになる。そのうち、能登の珪藻土をつかって、ピザ窯をつくろうかしらん。

今日の東京は朝から☔
長崎出身の新人の「そばもん」が、二回目の蕎麦打ちにくる。
昭和32年の今日、諫早(いさはや)で大洪水がおきて、600人以上の犠牲者がでた、
と今朝のニュースが伝えた。
これまで島原半島で、4回の蕎麦会をやった。だいぶお弟子様も増え、今日くる新人さん
も数年後に長崎に帰る予定なので、なんか不思議な「そばもん」が長崎にあまた生まれる
ようで、ウキウキする。

♪ああああ~ 長崎は 今日も雨だった

またたび・・・また旅がしたくなった。感謝。

今日から営業(12時から夕方陽がくれる前くらいまで)

といっても、休み中に、ネットなどで注文いただいた珈琲豆の出荷などが
あるので、昨日は朝から黙々と焙煎し、さながら「もくもくサロン」だった。
シンコロさんがまた広がっているので、12時から18時くらいまでボチボチやっておりまする。

能登の水曜日の朝、朝まずめは曇りで、潮の流れもよく、「絶対に釣れる」
という日だった。いつも、すずきやあいなめ、ひらめを狙う礒は、先客(あまさんが、さざえやあわびをとっていた)
がおられたので、タコやんという疑似餌をもって、徒歩10分の隣の港町に歩いていく。
漁師さんたちが、「そんなので、タコが釣れるんかね・・???」なんて、半分あざ笑いながら白い歯を
みせながらバカにする。先々月から、自分の家の前の海(前浜、という)、隣の海(浜田、という)は、タコやんを
ずる引きさせながら、「ここは砂地やな」とか「ここは海藻が多くて、ねがかりするな」とか、「ここはタコの高級マンション(必ず、空いてもうまる場所)やな」
とか、シミュレーションしているので、これから本格的なタコのシーズン、確かな自信のようなものがあった。

釣り始めて、5分後に、タコやんにたこが覆いかぶさり、ゲット。漁師のじいちゃんたちも「お~」と歓声をあげた。
そして、2分後に、もう一尾あがる。漁師さんたちが、寄ってきて、「この棹は・・」「この疑似餌は?」とか熱心に
聞かれる。彼らは、自分たちの先祖は九州人、だと信じている。海女やいろんな漁の文化は、九州の漁師や海賊さんたちがもってきた。
そのうち、「釣りキチ三平」あたりに、「能登のタコやん」みたいなマンガになってデビューするかもなんばん。

昨日は、そのタコを塩でていねいに処理し、ゆでだこにし、ガレットに入れて朝食。
あこがれの「タコがれ」(蛸ガレット)。シードルとの相性も抜群だった。

今朝は、新メニュー「そばやのピザ」の実験。
雲仙の蕎麦会で、ひさしぶりに手にいれた「和バスコ」をかけて食べる。
これは、超筆舌もんやね。本日から新しいメニュー(黒板にチョークで、「そばやのピザ」と書いただけ)
に登場・・・

この三か月、夜の寺子屋やライブが中止になって、たっぷり時間があって、本をいっぱい読んだり、
旅したり、畑仕事や梅仕事、釣りの種類も増えてきたり・・・・すっかり新しい人生を歩みはじめた感が強い。
お店の売り上げは、夜の部のほうが断然多いので、持続不可能?なような売り上げになってきたけど、
自分の体力が若返ってきたり、自給自足力や、サバイバル術がかなりアップしているので、
「なんとかなる」という確信じみたものが胎動している感じがする。

今のような不安でいっぱいな時代は、「自分に投資する」ことだと思う。
投資いっても、お金をかける、という意味ではないよ。自然の中で、ゆっくり深呼吸でもして、
こころを波だたせず、精妙な状態にもってくると、なにか聞こえない声が降りてきたりする。
そんな声に寄り添いながら生きていくことを、昔から「無為自然」といった。
特別な修行をせんかて、誰でも、そんな声が聞こえる、そんな時を迎えているんとちゃうかな。
「自分らしく生きる」。そこには、何の仕事して稼ぐ、とか、どこで何して、とかいう、余計なものは無用。
「ただ生きる」でいい。

美人になれる温泉

山口と島根の県境に「願成就温泉」(がんじょうじゅおんせん)というのがある。
ラドンを多く含むラジウム温泉で、願わなくても美人になれる温泉。
四方を山に囲まれ、風光明媚なところで、近くの山に「成就寺」という
のがあったのが、名前の由来らしい。
近くに義経を生涯愛した「静御前」(しずかごぜん)の墓がある。
鬼に金棒みたいな「美人の湯」である。

頼朝の前で舞を命じられた静御前が詠んだうたが、いい。

しずやしず しずのおだまき くりかえし
むかしをいまに なすよしもがな

なんで兄弟なのに、あんたは弟(義経)と仲たがいをしているの、
血をわけた兄弟だから、昔のようになればいいのに・・

そんな命がけで詠んだ。命がけで恋をし、舞をまい、うたを詠んだ。すばらしい。

壇ノ浦で平家を滅ぼした義経は、頼朝の嫉妬心から、奥州に追われる。
途中、日本海側の「安宅の関」でのてんまつが、「勧進帳」として歌舞伎やお芝居で
くりかえし むかしをいまに なすよしもがな で大人気だ。

その後、能登に流された「わらび姫」にあうため、能登路を旅する。
能登の家から徒歩5分のところに、「義経の舟隠し」という名所がある。
この界隈は実際に義経が歩いた土地だ。

今朝はそんな海にルアーを投げた。大きな海にわずか10cmたらずの疑似餌(ルアー)を投げる。
それに、「いまここ」とばかりに、魚がくいついてくる。
袖振り合うも多生の縁。棹振るのもまた多生の不思議な「えにし」、である。感謝。

明日でこの星が終わる、という日がきたら・・

日本海側をゆっくり北前船のように走りながら、
2日かけて、さっき九州から能登に到着。この道は果てしなく遠いけど、たぶん
車の旅では、一番大好きなコース。先人が命がけで文化や物資を運んだ道をいろいろ「哲」しながら走った。

福井で、焼き鯖鮨を買い、志賀町のスーパーで、いつものようにタコ焼きを買い、
1日目の今日は、窓をあけひろげ、空気を浄化して、即飲み開始。タコ焼きには、ハイボールが似合う。
音楽はピアニストのウォンさんの「海より遠く」を聴きながら、雲仙の「蕎麦会」の余韻に浸っている。

旅先の温泉につかる。見知らぬ地元の方が「どちらから きんしゃったと?」と聞く。
「東京です」と答えるのに躊躇し、「ムナカタです」とか「フクオカです」とか、いう。
なんか、とても複雑な心境。(ぼくは、天と地の間、どこもみな「こころのふるさと」だと思っておりまする)
蕎麦会も、「東京の天真庵の庵主がやってくる」とアナウンスすると、立場上微妙なかたがたもいて、ドタキャンもいたみたい。
当然といえば、当然。でも、「熱心な未来のそばもん」もあまたこられ、ほんなこつ、これまでの蕎麦会で
「一番」のアンフォゲッタブルな会になった。今回キャンセルせんといけなっか人もありがとう。次回またきっとやりまする。
声をかけてくれた島原の人たち(詳しくは書れんのが、くやしいばってん)、ほんとうにありがとう。

はじめて触れ合う人たちがほとんどやったけど、自分でつくった蕎麦を福岡までいって製粉してもってきてくれたおじいちゃん、
水を衣笠山?までいって汲んできてくれた人、東京から移住して自然農をやっている(前回、廃校になった小学校の蕎麦会にもきてくれた)人が、
自作の「タバスコ」と、「帰りの道中でどうぞ」と、黒にんにくをくれた。普段はピザは食べないけど、ときどき「大地宅配」のピザを
食べるとき、そのタバスコをかけると、ワインが一本空になる。そんな話をしたら反対に「ありがとうございます」と頭を下げられた。
有名な老舗旅館の料理人さんたちも、器を用意してくれたり、天ぷららそば前の酒肴を用意してくれたりしてびっくりした。
お客さんでそばを食べにこられた女性たちが、洗い物も手伝ってくれ、いっしょに泊まって、翌朝みんなで温泉・・
ぼくも九州人のはしくれやけど、島原の人たちのの裏表のない、素直な人間性に感動した。感謝。

雲仙は、100年くらい前は「ハイカラさんの街」やった。今もシンコロのおかげで、鎖国(他府県も移動しにくいので、ある意味、もっと
すごい巣ごもり状態)みたいやけど、鎖国時代は、長崎の出島のみが、海外と接触していた。だから南蛮の文化や、珈琲文化などに
最初にふれたのは、長崎の芸者さんやった。だから今でも、衣食住のいろんなところに、「ハイカラ」が残っているのです。
カステラやテンプラは、そんな時代の産物で、長崎から北九州への道は「砂糖街道」といわれた。
伊万里焼きや有田焼は世界へ羽ばたいていったし、北前船は、器や海女の文化を北へ運び、帰路に昆布や鮭や
漆器などの文化をお土産にして、お互いが繁栄し、「ゆたかさ」を共に育んだ。これを「共育」という。
煎茶も盛んやった。買茶翁も、煎茶を長崎で習った。トランプみたいなアホな大統領や軍の先輩らが、原爆を落とし
たので、そのあたりの貴重な資料がみな灰になった。地縛霊に、煎茶好みの文人の命を感じるこの街にきて、
時々蕎麦を売ったり、みなで煎茶を楽しんだりするのが楽しみだ。

宿まで用意してもらい、翌朝、「雲の仙人」に出会いそうな温泉町をひとりで徘徊し、ひぐらしのカナカナ・・と鳴く音
の道程を散策。30年前に普賢岳が爆発して大きな被害があったけど、「これから」というスポットライトがあたる場所やと思った。
「湯布院」とか「黒川」とか・・・いろんな観光スポットがあるけど、全国区のそのへんは、どこか「作為」に近いもてなしという演出が
ですぎているような気がする。島原までいくと、無為自然に近い、肩肘はらずに、裸になって温泉にじゃぽんとつかれる気分になれる。
「なんやら トラベル?」とかいう、半端な応援キャンペーンが始まるけど、東京の人は、のけもんになったみたいね。
でも、値引きなしチケットで島原にいってみると、「倍がえし」以上の特権があるばい、ほんなこつ。

これから、いつ終息するともわからない、新しい人生をみんなで歩いていくことになる。
「人生二度なし」と思っていたけど、ある意味、二度目を皆で経験できそうなウキウキする高揚感もどこかにある。
そして、「明日で地球が終わり」という日が、生きている間に迎えたら、各自で「その一日の過ごし方」をイメージするのも
楽しいことじゃない・・・?
ぼくは、そんな日がきたら、また雲仙で先日やった「蕎麦会」をやり、その後、煎茶で「お茶会」をやり、
〆は「雲」のような素敵な空間で、気のおけない仲間たちと酒を酌み交わし、翌朝、共同湯の「新湯」で
今回みたいに、男女いっしょにくりだし、お風呂で談論風発・・・・そんな一日にしたい!天恩感謝。

徘徊中・・・

親父の三回忌にあたるので、お墓がある延岡にいく。
被害の大きかった熊本や大牟田あたりには、友達も多いので、
電話で連絡したり、近くを通った時に、合掌して「祈り」りながら・・
毎日のように、東京の感染者が増えているので、お坊様にもあえず、
親戚にも連絡せず、静かにお墓詣りをして、福岡へ。
施設に入っている母親とは、あうことがままならず、いつものように
オンラインで挨拶。

今日は、少人数でそば会。
南島原は、比較的被害は少なく、移住者も増えている様子。
東京一極集中、というのは、これからいろいろ無理が多いと思う。
東京とデュアルライフ(二か所暮らし)には、少し遠いけど、
「二つ目のふるさと」にするなら、おすすめの場所だ。
「なんやらキャンペーン」で、どこか「旅」しようと思っている人は、
どうぞ一度いってみてください。一髪で気に入ると思う。
そうして、「よし、この街に住もう」と思ったら、「青一髪」
という頼山陽の詩からとった島原の酒で祝杯をあげるといい。

明日から、日本海側を北前船よろしく、ゆっくり能登の家へ向かう。
まだまだ「旅の途中」である。感謝。

月曜の朝は卵かけごはん

昨日は、暑い一日だったけど、今朝の東京は少し雨模様だけど涼しい風が吹いている。
先月の夏休みは、梅仕事のため、二週連続で「卵かけごはん」をお休みにし、能登で
梅摘む梅林ガールズたちといっしょにすごした。今月は来週だけ「朝ごはん」がお休み。

今日の夜から旅人になる。シンコロさんのおかげで、父の三回忌は中止にして、
家族で食事をする、ということになった。ので、まず福岡にいき、その足を、南島原まで
伸ばして、「蕎麦会」をやることに、あいなった。前回は100人以上集まったけど、
今回は、控えめに縁ある人たと、蕎麦を手繰りながら談論し風発する予定だ。

天真庵の「寺子屋」も今月までお休み。
おのずから「家のみ」が多くなっている様子。家で飲む時は、「まいぐいのみ」を
育てながら、ゆたかに過ごしてみたい。ぼくは家で飲む時も、車で移動しながら旅を
する時も、旅人がもつ旅茶碗よろしく、きんちゃく袋の中に、久保さんの志野のぐいのみを
包んでまいる。いく場所場所の空気や風によって、酒の味が変化するのが風流だ。
今回は長崎なので、少し大振りの斑唐津のぐいのみをリュックに忍ばせていく。

日本六古窯(越前・瀬戸・常滑・信楽・丹波・備前)のひとつ、丹波の若手(いや、だいぶおっさんになり重鎮みたいになってきた)の今西公彦さん
が、「呼應」という陶展を姫路の山陽百貨店(姫路市南町一番地)で、明日までやっている。
彼は最近地元の農家さんや酒蔵さんといっしょに、「播磨日本酒プロジェクト」を立ち上げ、
酒米作り、酒の仕込みを地産地消で地元の播磨の夢前町で行い、できた酒も、今西さんが、田んぼの藁で
釉薬をつくったりする「酒器」で楽しむ。なんともワクワクするプロジェクト。
「夢かなう」という日本酒があるが、夢前の愛情たっぷりで育った酒を、気のおけない仲間たちと飲む。
「夢」を語りつくしてもつくせない贅沢な時間だ。三密やステイホームで、飼い犬のように静かに過ごす
のをしいられてからこっち、なんとなくうつむきかげんで暮らすことの多いこと。
たまには、「今ここ」を胸襟開いて、呼應する一刻を持つのも、大切なことのように思う。
呼應・・・・お互いに通じ合う、お互いに楽しむ。巣ごもり時代は、へたすると気持ちも一方通行になること多し。
簡素だけど、すごく大事なキーワードではないかしらん。感謝。