梅の季節だ。
先日、亀戸の骨董屋にぶらり散歩。
シンコロの季節はお店を閉めていて、中でかたずけをやっていたらしい。
一度、「顔が見たくなった」といって、蕎麦を手繰りにこられたが・・
銀座の骨董街もしばらく閉まっていたり、骨董の市場やイベントも自粛ムードの中、
みんな元気がない。飲食や旅行関係だけでなく、いろんなところの人が「とまって」、
いくすえのことを考えている。
この骨董屋は料理が趣味で、愛用の包丁は、日本刀を短くして、柄をつけたものを使っている。
最近、実家の千葉の古民家を改装し、改装や引っ越しの手伝いをする人に、自慢の料理をふるまって
いるようだ。庭には、梅の木が10本ほどあり、毎年梅の花が咲き、かわいい青梅がなるらしい。
「だれもとならないので、いつでもきて、とっていって」といわれながら、3年になる。
「かたずけをしていたら、でてきた」という正本の菜切り包丁を買ってかえる。茶道具、三味線、刀・・・
珍品堂商会のような不思議なお店。
能登の梅も今年は元気になりそうだ。シンコロの影響で、飛行機が飛んでいないので、今年の
「梅林ガールズ」の遠征はむずかしくなった。金沢あたりから知り合いがくるかもしらないけど、
ま、なりゆきにまかせるとしよう。自然のものは、自然にまかせるのがよろしい。
金沢、といえば、今朝の天声人語に、室生犀星の詩が紹介されていた。浅野川のほとりに、記念館がある。
青梅のしり美しくそろひけり
うめを尻と見立てるのは、さすがだ。
梅仕事をしに能登にいくようになり、自分たちも能登に家をもち、月10日は能登で暮らす。
梅は剪定をしたり、雑草をとったり、けっこう手間という愛情を必要とする。これを「仕事」
だと思うと、重たくなるけど、自然学校で学んでいる、と思えば苦にならない。楽しいものだ。
梅干しをつくってみて、「能登の梅はうまい」と思った。海に近いので、ミネラル分が多いのと、
しばらく放置していたので、「自然農」に近く、農薬も肥料もやらない。何も足さない農法。
効率優先の今と真逆だけど、「質」(味)は、似て非なるものだ。
梅シロップをつくった時はびっくりした。東京のスーパーで買った梅でやると、きれいに消毒されて
いるので、梅の表面に雑菌が残っていない。ゆえに、発酵に時間がかかる。
能登の梅でやると、次の日くらいからシューという発酵が始まる。一物一体、ではないけど、梅そのもの
の中に、梅由来の酵素群や微生物があふれているようだ。シンコロもそうやけど、目に見えない細菌の世界は、
用い方によっては素晴らしい活性をし、「用いる人」によっても、その効能が千差万別である。天地自然の理なり。
「農業」とか「食育」にスポットライトがあたる時代がきた。農業をやるということは、この自然の理に従い、
大地にしっかり根をおろすことだ、と最近つくづく思う。感謝。
今日は日曜日なので16時閉店。
明日の朝は「卵かけごはん」