「春まだ遠し」の感がある今年の春・・新年度が始まる。
今朝、☂の中をマスクしてヨーカ堂の前を通り、ブックオフにいく。
松原泰道先生の「般若心境」の本を見つけ、喫茶店にでもいって読もうか、
などと思っていたらメール。「天真庵誕生日おめでとうございます」とかわいいお弟子様。
そうだ、今日は定休日だけど記念日(天真庵14歳の誕生日)。池袋で打ち合わせがあったけど、コロナ騒ぎで中止。明日の「ダメ中」
も中止になった。世界中が「とまっている」。でもぼくたちの心臓はとまるわかにいかないので、
なんとかこれから先も死ぬまでは、ひと様のお役にたてるよう生きていきたいものだ、なんて思う。
先日、近くの「酔香」の主人の「すがちゃん」と女将さんの「ともちゃん」が、
珈琲を飲みにきてくれた。すがちゃんは、立命館大学の後輩にあたる。
ぼくが入学したのは昭和51年の春。すがちゃんは3つ下。
そのころ「二十歳の原点」という立命館文学部の先輩・高野悦子さんが著した日記がベストセラーになって
いて、その本を読んだのが縁で、大学を立命館にした、という人もまわりにあまたいた。
ぼくは、私立大学で授業料が一番安く(198000円やった)、総長の末川博(のちの京都名誉市民)
を尊敬していたので、第一候補が「法学部」で、奇跡的に合格通知が九州の実家にきた日を、昨日のことの
ように覚えている。
はたして、上洛して、右京区の鳴滝本町に下宿をし、59番のバスにのって、御所の横にあった
キャンパスに通いはじめたけど、学校の近くにあった「シャンクレール」(ジャズ喫茶)にいりびたり、
そこから100Mほど「下った」ところにあった安兵衛というおでん屋で、名誉冠をぬる燗にしてもらって
おでんをつまむ、ということのほうが学校に通うよりも忙しくなった。
そんな体たらくな生活を辞めさせようと、熊本出身の同級生・稲野くんが「
明日、勤労会館で末川先生の講演があるばってん、いっしょにいかんか」と誘ってくれた、のでいっしょにいった。
結果的に「末川先生・最後の講演」になった。「人生三分割論」ではないが、
最初の二十年は「親の面倒になった」(君たちの今だ、と)これからの二十年は「自分を生きなさい」
と言われた。残りの20年があったら「人のために生きなさい」という、いたってシンプルな人生論を
語られた。先生の名著「権利の濫用」からいったら、拍子抜けする感じだったけど、こころに染みた。
なんだか勝手に「卒業証書」をもらったつもりで、会場近く、烏丸丸太町の「からふねや」
に入り、珈琲を飲んだ。「なんやこれ!」と、そのうまさに感動して、カウンターの中にいる
「マスター」らしき人に、「ぼくを弟子にしてください」といったら、ふたつ返事で「OK牧場」
ぼくの珈琲道の「二十歳(正確には19歳)の原点」だ。
24歳の時に骨肉腫になって、「自分を生きる時間」に点滅信号がともったので、ギブスをしたまま
上京し、ソフトバンクの創業期の「日本ソフトバンク」に、無理くり入りこみ、東京生活を
始めたのが25歳の時。もう40年近く前の話だ。孫さんもそのころは「毛」がふさふさやったな~。
今日は本来だったら、「入学式」とか「入社式」とか門出の日。
シンコロさんのおかげで、世の中が渾沌としているけど、地球にいっしょに棲む仲間たちちにとって、なんかとてつもなく
大きな「分岐点」であり、「原点」にあるのだと思う。
今春、近くに専門学校ができる。すがちゃんと談論風発している時、その学校の新入生が蕎麦を手繰りにきた。
みんなそれぞれに春夏秋冬があり「二十歳の原点」がある。
すがちゃんに「いつか寮歌を歌おう」と約束。
立命館大学寮歌
作詞/作曲:不詳
1.夕月淡く梨花白く 春宵(しゅんしょう)花の香をこめて
都塵治(とじんおさ)まる一時や 眉(まゆ)若き子等相集(らあいつど)い
希望の光を一(いつ)にして
厚き四年(よとせ)を契りたり 厚き四年を契りたり
2.柴扉(さいひ)を排せば暁に 君は川流(せんりゅう)我は薪(まき)
他郷憂(たきょうう)しと云うなかれ 椎(しい)の葉蔭(かげ)に相倚りて
手をとり友と語らえば
春は四年に尽きぬべし 春は四年に尽きぬべし
3.秋陽落ちて野は寒く たどる帰り路(じ)暗くとも
我待つ寮の灯(ひ)は赤く 朔風(さくふう)天にどよむとも
来(きた)る日思えばあかあかと
希望は燃ゆる胸の灯(ひ)や 希望は燃ゆる胸の灯(ひ)や
4.学びの道は遠けれど 暮るるに早き春の日や
春風秋雨巡(めぐ)り来て 今此の丘を去らんとす
ああ我が友よ我が丘よ
いつかえりみん想い出ぞ いつかえりみん想い出ぞ