今日から二月。トイレの真民さんカレンダーの一日は
「念ずれば花ひらく」だ。
昨年の6月に南條先生の卒寿のお祝いに四国にいき、もち麦農家さん
とこへ遊びにいったら、真民さんが揮毫した「愛穀」という額がかかっていて、
その縁で、うどんやにいったら、「念ずれば花ひらく」の直筆の色紙をうどんやの主人にいただき、
その足で「真民記念館」にいって、カレンダーを買ってきた。
「念ずれば花ひらく」
苦しいとき 母がいつも口にしていた
このことばを
わたしもいつのころからか となえるようになった
そうして そのたび
わたしの花が 不思議と
ひとつ
ひとつ
ひらいていった
「ひきこもり」とか「親子の虐待」とかが問題になっている。
夫婦がうまくいっていない(もともと、違う動物の♂と♀が、まったく違った環境で育ってきた他人が
同じ家で住む。忍耐しかない)。どちらも「いい子」になろうと、無理をするからストレスがたまる。
たまったストレスを子供にぶつける。こどもに「ぶつけやすい子」と「ぶつけにくい子」がいる。
ぶつけやすい子のほうは、家族の中で「いい子」を演じているような子。その子は親のストレスのはけ口
になり、ひきこもりや鬱になっていく。もうひとりの子は、親に愛される。溺愛?みたいに・・・
「食育」というか、食べ物が原因という説もあるけど、いろいろな複合汚染で、家族の「今」が危ぶまれている。
いろいろ大変な時代だけど、新しい月はじめにこの詩を読むたびに、
「腹をくくって生きている母親の子供はぶれない」と、確信する。
昨日は赤須翔くんの弟子たちも参加して、楽しいウクレレも聴けた。
翔くんが、ぼくの尊敬する詩人(故人)の息子さんを紹介してくれた。
ときどき能登の総持寺の近くのお寺で「正法眼蔵」(しょうぼうげんぞう)の勉強にいくらしい。
能登の家から近いので、「では縁あれば彼の地で・・」という約束をした。秋風が吹くころいってみたい。
踏みわける 萩よすすきよ (山頭火)