ジョウビタキがきた。冬近し

いつものように、朝近くの藤懸神社まで散歩。
神社の近くの欅(けやき)の梢(こずえ)にジョウビタキが鳴いていた。冬鳥だ。
雀のような小さな体だけど、大陸から海を渡ってやってくる。600kmの道程だ。「今年もかえってきたよ」と尾っぽを
上下に揺らしながら。冬近い能登に「鳥の自由」を見た。命がけの自由である。

先日、金沢の美術館をふたつまわった。中川一美術館のある公園にの中に、銅像があった。
中川さんではない。盲目の高僧といわれた「暁烏 敏」(あけがらす はや)和尚。真宗東本願寺のお坊さん。
美術館の隣に「千代女」(ちよじょ)の俳句記念館を見た。そこに暁烏敏の書があった。
天衣無縫、まったく作為のない字にしばし足が釘ずけになった。おふたりとも、松任の出身。
はじめてきた地ではあるけど、無駄のない縁を感じた。「まっとう」な人生を歩んだ先人がいる町。

30代終わりか40代のころ、暁烏敏の本を読んだことがある。また老後に読みたいと思い、
実家の本箱にいれたことを思い出した。能登にもってきた本の中にそれを見つけ、今朝散歩から
帰ってきて読んでいる。そのころはあまりピンとこなかったものが、今は魂の中に染み入る。
60過ぎになって気が付く「魂の若さ」みたいなもんがある。「お金をもらっても、50代や40代に
もどりたい、と思わない」とそんな時に思う。意固地ではなく、そんなことを最近よく思う。

暁烏 敏の随想抄から

〇苦しいというのですか。それがどうしたというんですか。苦しいのが面白いんですか。そんならおめでたいことです。
いやなんですけど苦しいというのですか。いやならやめたらいいでしょう。どうしたらやむのですか。
やめたければ何時でもやめられます。どこかよいところがあるから苦しんでおるんです。私たちは、ほんとうに苦しむ時には
、苦しんでおられなくなるもんです。苦しいというておるのは、まだ苦しみに余裕があるんです。つまっていないのです。
つまったら、飛びぬきます。熱いというて湯の中にはいっておる間は、まだ余地があるんです。ほんとうに熱くなれば飛び出して
しまいます。

道ならぬ恋に苦しむ女性に
「親鸞でさえ、愛欲名利に迷っておられたのだから、凡夫のわらわれにはなおさらだ。
人が人を愛し、人を思いつめて、気違いになるようになるというのも、人間の美しい姿なのだ」
・・・(注) 彼も僧でありながら、道ならぬ道を歩んだ人だ。矛盾の中に身を投じて、臆せず恋愛にたじろがなかった。自由は
鳥も人間も同じ、命がけである。

〇昔は金を「おあし」というた、またお小遣いというた。今は金がご主人で、人間が「おあし」で小遣なんだ。
みじめなことだ。あまり金のことを大層に思うてはならん。

〇人間の一生は、色々に苦労しているのも一生であり、苦労しないのも一生である。
苦労した一生が尊いというのでもなく、苦労しない一生が尊いというのでもない。
人生の味は「いまここ」にある。ただそれだけのことである。