閑人適意の韻事である。

昨日は炎色野にいき、古松さんの白い茶器を買った。
少し背が高くて、煎茶のお点前では使えないけど、珈琲と同じ
ような感覚で毎日飲むにいい。

お店に戻り、カウンターに座って、お茶を入れる。
久保さんの「焼き締め」(やきじめ)の宝瓶(ほうひん)と
白い茶器・茶合(さごう  茶葉をはかる道具) 茶入れ(いただきものの中国茶のいれもの)

要するに、茶碗、湯冷まし、宝瓶を、「洗う」と同時に「温める作業」 珈琲もそうだけど、
そのひと手間が、「うまい一杯の秘訣」だと思う。

竹の茶合に星野村の玉露をはかり、宝瓶に静かにいれる。宝瓶をそのまま両手で
包み込むようにして、静かに20呼吸待つ。一客一亭の呼吸をあわせる刹那の静謐な時間。

そして、「ここ」という声が降りてきたら、左の器から順に、少し、少しより少し多い少し、左より少し多い・・
二回目は、一番左が一番多く、右にいくとだんだん少なくいれる。
3回目で、ぜんぶ宝瓶の水分を、茶碗にいれきり(けっして、ふってはいけない)、最後の一滴
を左端の茶碗に入れる。「ひとり茶」の時は、それが神棚に献茶され、一客一亭の時は、それがお客さん、
3人でやる時は、それが正客(しょうきゃく)に供するものだ。

夏目漱石の「草枕」に玉露を飲むところがでてくる。昨今の作家には、絶対に書けない名文だと思う。

「茶碗を下に置かないで、そのまま口へつけた。濃く甘く、湯かげんに出た、重い露を、
舌の先へ一滴ずつ落として味わって見るのは、閑人適意(かんじんてきい)の韻事(いんじ)である。」

*ここでは、青木木米(あおきもくべい)の茶器を使っている。京焼の名人。煎茶は京都の陶芸家や
書家や絵描きなどの文人がやっていたもので、茶器は酒器となり、お茶の後には、おちゃけも飲んだ。
昨日の夕暮れ時は、同じく久保さんの志野(しの)で、奈良の「今西」を飲む。
白玉の歯にしみとおる秋の夜の酒は静かに飲むべかりけり(牧水)の風興な気持ちになる。

天真庵のカウンターは、契約の日に、近くの解体現場で「拾いあげた」ものだ。鋸の後が階段側の席に
残っている。半世紀以上もこの街の人に愛されてきた「百尺」(ひゃくせき)という居酒屋さん。
開店した当時、白髪の矍鑠としたおじいさん(故人)がカウンターに座り、「百尺のおやじは、
草枕を繰り返し読んでいたような風流人だったよ」と教えてくれた。

「智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。
兎角(とかく)に人の世は住みにくい」という名文から始まり、(略)・・

「百万本の檜(ひのき)に取り囲まれて、海面を抜く何百尺かの空気を呑んだり吐いたりしても、
人の臭いはなかなか取れない。」
という一説がでてくる。

百尺はここから命名され、自慢だった正目(まさめ)のカウンターが「檜」だったことがわかり、以後、
ぼくの煎茶の「お弟子さま」は、入門したら「草枕」を読むのがならわしになった。
みんなそれぞれの日常の中で、お茶を飲む「至福の一刻」を持つ幸せな日々をおくって
いるに違いない。日々是好日。
どんなに時代が座屈してきても、「一杯のお茶(珈琲)を飲む時間」は大切やね。