炎色野・・の炎が消える

10月は、台風があったり、能登へは二度いくし、茶事とかいろいろな行事がいっぱい
だけど、「時間がとまっている」ような不思議な時間。きっと振り返ると「分水嶺」
みたいなとこなんだろう。

10月4日のブログに、「炎色野」(ひいろの・渋谷区渋谷2-7-14 VORT青山1F 03-5485-8922)
のことを書いた。ここの女将は日本一のヒーラーやと思う。
花を習ったことは、たぶんないと思うけど、「花は野にあるがごとく」とのたまわれた千利休のように
自宅の庭から、藪椿、侘助、秋海棠、つりばな、蠟梅・・などをさりげなくもってきては、
個展中は作家の掛花や花器、ときには徳利に一輪投げ入れる。作家の焼き物といっしょに
「作為」のない自然体の花が、陶廊の空気を凛然とする。「みごとなお点前にて・・」だ。

お茶もたぶん本格的に習ってはおられないのに、お抹茶や煎茶を上手に入れる。
とくに、玉露は、ちゃんと備前の湯冷ましを使い、取っ手のない「宝瓶」(ほうひん)
という急須で、ぬるめのお湯を入れ、両手でつつむようにして蒸らす時間をすごし、
京焼の品のある小ぶりの茶碗につぎ、だしてくれる。
「昔から陶芸家は、急須のふたのポチは、女性の乳首をみたててつくる。宝瓶
の出口のふくらみは、あたかも男のキンタマであり、チンコなのよ」
そんなことも彼女が教えてくれた。
それをヒントに、久保さんに織部・黄瀬戸・焼き締めの片口(カタクチ・(酒器)をつくり、
「チンコトックリ」と命名した。今、店ではそばの汁入れにしている。
(昼間は、カタクチ、と呼んでいる。夜の勉強会では、「チンコ・・」と教えている)

個展の時は、お客さんが酒を持ち込み、その作家のぐい飲みで飲む。もちろん使ったぐいのみは責任
をもってそのお客様が買ってかえる、というのがならわし。強制ではないけど、自然とお客と作家
との不文律な「やくそく手形」みたいなものいだ。こんなお店(居酒屋もカフェも含め)は、唯一無二だし、
この場ほどの「癒し場」は、東京広しといえど、炎色野しかない。

今日は三島焼の「古松淳志」くんの最終日(12時から3時まで)
彼は京大をでて、三島焼の名人「吉田明」に弟子入りをし、腕を磨いた。
吉田氏は、釜開きの時、片淵さん(天真庵で死ぬまで鮨を月一でにぎってくれたじいちゃん)
が鮨をにぎった。晩年は新潟に移住したり能登の珠洲焼などをつくっていたけど、61歳で旅立たれた。
「気骨のすし職人」も3年前に逝った。

さて、急いで焙煎などを済ませ、今日は青山をぶらり散策しよう。
ITで一番最初に組んだ会社も「青山」にあった。煎茶を習った織田流煎茶道道場も
ヒルズの裏にある。「癒し」を教えてもろうたギャラリーもあまた界隈にあった。
炎色野が緞帳を下げたら、最後の炎が消えてしまう寂しさがある。

真民さんのアトリエには、足利紫山さんの掛け軸が飾ってあった。100歳を超えても矍鑠
と揮毫された老師を目標にされていたらしい。
天真庵にも紫山老師の掛け軸を時々飾る。100歳を超えた時に揮毫した
「古松談般若」(古い松は、般若(さとり)を談ずる)というのがいい。今日の作家と縁を感じる。感謝。