たまおと(魂のおとうちゃん)

月曜日の夜、半袖のTシャツのまま、東京を出発。
ぼくのTシャツには、💀こんな骸骨だったり、恐竜だったり、フクロウや
蜘蛛の巣・・・いろいろな絵が描かれている。「京都のおっちゃん」とか
「魂のおとうちゃん」とかいう感じの野村富造さんが描いてくださったもんや。(後釜の河野さんのもあるけど)
2011年に急に召されてしもうて、それからあまり京都にいく縁がうすれてしもうた。ろうけつ染めの名人やった。

妙高高原あたりを過ぎたあたりから、「紅葉」が見られた。すっかり秋である。糸魚川を超え、氷見を過ぎ、能登に
入ると里山の風景が、そこか寂しげな静寂の秋を迎えているようだ。能登の家のある志賀町も、波の音が家に
聞こえるくらい高く、厳しい冬の前夜祭のごとくに鳴り響く。自然の運行は、悠久で、ひとの一生なんて
「つかのまの旅人」が散歩しているかの刹那にすぎぬ。

今朝は、粗大ごみの日。古民家に残された古箪笥や三面鏡などをだす。東京では「粗大ごみ」いうたら、
ぬれ落ち葉よろしく、生気もなく(性器はついてるんらしいけど)ボーとしている「古色のついた夫くん」
のことをいう場合が多い。いつでもシールはって表におくと、業者がもっていってくれる。(人は無理だけど・・)
ここ志賀町は、年に4度しかなく、今回はそのために7時間ちょっとかけてやってきた。

それが終わると、車庫の裏の畑にいく。先月はそこにある栗の木の栗をもって帰り、栗ごはん
にしたり、焼き栗にした。先週の木曜日は栗ごはんを、筆子さんに託しお母様に食べさせた。
いつもはぼくのつくるゴハンを「おいしいおいしい」と二杯は食べるのに、今回は一杯だけだった
らしい。どうも渋皮が残っていて、食べにくかったようだ。おすそわけした君にもあやまっておく
必要がありそうだ。ごめん。

畑には守り神のようにさつきが鎮座している。その横に辛味大根をつくった。
畑は里山からつづく土なので、自然農をやってみたくて、耕しはするけど、除草も女装も
せず、ときどきは肥料がわりに、立小便をする。(隣のおばあちゃんに一度見られて笑われたので、
今はがまんしている)肥料も農薬もなし。無為自然、あるがままで育てている。

先週勾玉をもっていかれたひとが、そのまま家の近くの神社にお参りにいったらしく、メール
に「蝶がつがいで、絡み愛ながらまっています」と書いてきた。
都会のトンボは一匹で飛んでることが多いけど、蝶は二匹か・・よかった。

絡み大根にも花が咲く。きれいな花で、蜜を分泌し、誘われるように蝶がよってきて、辛味大根
の上で「絡み愛」をし、おしべとめしべが結ばれて、新しい命が紡がれていく。
恍惚なエナジーで、エロスの連続のような営みだけど、それが「命」の根源であり、宇宙
の根源であることを、人間は忘れているようだ。

「たまおと」(魂のおとうちゃん)とか「まがたま」なんかを身近に感じながら「哲」していると、
不思議とそんな世界に誘われる。

これから、伊那谷に眠る後輩の墓参りである。
伊那谷は、おおいなる女陰である、とある詩人がいった。
老子も「谷神不死」といった。老子の根源的な「哲」がここにある。

大いなる谷間に神は永劫の命を育んでいく、というようなことか。
志賀の家には「老子」に関する本をいっぱいもってきた。ゆっくり老いて
いく時間つぶしに老子を読みながら、茶でも飲む一刻を楽しみたい。感謝。

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