だらだらと10連休もあると、「今日は何曜日?」という感じになる。
今日は日曜日。日曜日は16時まで営業で、それからいつもだったら「蕎麦打ち」を
やったり、「能登前鮨を自分でにぎるかい」などをやっている。
そばは連休中にいつものメンバーが打ちにきたのでお休み。
「能登・・・」も、今年は8回もやり、小休止。
今日は近くの旧家によばれている。長年住んでいた家を壊して、建て替えるらしい。
そこの主人が「使える家具などあったら、ひきとってつかってほしい」ということなので、
お邪魔することになった。断捨離、が流行っているけど、「捨てるようなものを買うから
あかん」のやと思う。昔のものは、捨てるに忍びないものばかりだ。
ゆえに、天真庵には、骨董屋のように古いものが集まってくる・笑
2007年に天真庵を押上に結ぶことになり、芸大を中心にいろいろな若者が
改装を手伝ってくれた。カウンターも、近所の居酒屋の解体現場から譲りうけた。
「百尺」という看板があった。夏目漱石が大好きだった主人が「草枕」から
とった名前。「何百尺の檜にかこまれていても・・・・」というのが、有名な書き出しの
後半にでてくる。つまり、「檜のカウンター」である。ちなみに、ぼくのお茶のお弟子さまは、「草枕」が教科書。
カウンターの後ろの床板も、通りすがりの見知らぬおっちゃんがくれた。
鹿児島出身で「ろくさん」という酒好きのギターリストやった。
「将来、焼酎の居酒屋をやろうと思い、古材を集めていたんだが、飲酒運転で
免許がなくなり、その夢がかなわくなったので、きみにあげる」という、理路整然とした、
しかし、どうして?というような会話だった。でもそうやって、縁あって天真庵の床になった。
その後6年くらいして、ろくさんは63(ろくさん)で旅立った。よかにせどん(いい男、という鹿児島弁)
だった。本来無一物。なにももたずに裸で生まれ、裸のまま旅立つのだ!
昨年は、近くの借地権付きの家が取り壊され、引っ越しを余儀なくされたおっちゃんが
「掛け軸」とか「端渓の硯」などをかかえてもってきてくれた。
端渓の硯は、古端渓ではないけど、文人好みで、黒檀の硯箱に入っていたので
「これは、しかるべきところにもっていくと、まとまったお金になりますよ」といったら
「もうそんなに長く生きられないので、おまえにやる」ときた。
おまえと呼ばれる筋合いもなければ、そんな高価なものをもらう関係でもないけど、ぼくの
煎茶道具のひとつに加わった。煎茶の世界では「文房四宝」といって、文人たちが使う筆や硯や紙や文鎮
などを「宝」とみたてた歴史がある。
来週は能登にいき、ひさしぶりにその足(その足、という方向ではないけど)で、四国をまわる旅をする
ことになった。今治の「タオル美術館」で、南條観山先生の「回顧展」をやっている。
不思議な縁で、南條観山先生に新宿で出会い、寒山拾得の世界に引きずりこまれ、池袋で画廊をはじめ、ニューヨークで
個展をやったり、能登に「寒山拾得美術館」までつくることになった。
おかげで、彼らふたりのように「ぼろの作務衣をまとい、毎日箒で掃いたり、典座のようにそばなどをつくり、貧乏を楽しんでいる」ような、日々是好日が続く。
北陸から関西、四国にかけては「煎茶」が盛んな地域でもある。煎茶は黄檗山を開いた隠元和尚から始まり、「売茶翁」(ばいさおう)(1675~1763)という佐賀出身の黄檗僧が上洛して池大雅などの文人に広まっていったの歴史がある。その精神的背景には、中国の「禅」や「詩人」など文人たちの超俗的な生き方にたいする「憧憬」があった。
煎茶のお茶会などに、「寒山拾得」の掛け軸がよく使われてきた。「足るを知る」という煎茶精神の中心の「こころ」がそこにあるからだろう。